不遇な薬剤師、転移したら皇子に求婚されました。〜ただ真面目に薬の記録を残しただけなのに〜
私は森川さくら。薬剤師国家試験に合格し、都内の調剤薬局に勤めて四年目──だったはずだ。
薬剤師と言うと、なんとなく姿が浮かぶかもしれない。白衣、カウンター、「お薬の説明をさせていただきます」と微笑む姿。
だが、実態はもう少し地味なものだ。
一日に百人以上の処方箋を確認する。飲み合わせの危険な組み合わせを見つけたら、医師に確認の電話を入れる。たまに患者さんから「先生」と呼ばれると、自分は医師ではないからと少し居心地が悪くなる。
「この薬、前と色が違う」と不安そうに尋ねられれば、ジェネリック医薬品への変更を一から丁寧に説明する。
誰も見ていないところで、小さなミスをひたすら潰し続ける仕事だった。
「さくらさんがいると安心だよね」と同僚は言った。
「縁の下の力持ちって感じで」
褒め言葉だとわかっていた。だから笑って頷いた。
ただ、縁の下というのは、つまり、床の下だ。
誰かが踏んでいる場所の、さらに下。
ある日、調剤ミスがあった。
私のミスではなかった。先輩薬剤師が出した処方で、私がダブルチェックで止めた案件だった。チェックが正常に機能した、というだけの話のはずだった。
でも翌日、薬局長に呼び出され、始末書を書かされた。暗に責任を負わされたのは私の方だった。
その日から、私はすべての確認作業を紙にも残すようにした。
誰かに言われたわけではない。ただ、明確な「記録」がなければ、自分の仕事は存在しなかったことにされるのだと学んだからだ。
それからそのやり方を三年、続けた。
誰かに評価されることを期待していたわけではない。ミスを極力なくすため、もし何かあってもすぐに状況がわかるように。ただ黙々と続けた。記録を残す。紙に書く。それが、私という人間のやり方だった。
仕事の過労だろうか。職場で気を失って倒れた、そこまでは覚えている。
◇
気がついたら、砂漠の真ん中だった。
あたりを見渡し、朦朧としながらもオアシスに転がり込んだ。そこで水を汲んでいた見知らぬ隊商に捕まり、首に鎖を巻かれた。身体は健康。所持品はゼロ。
怖くなかったと言えば嘘になる。ただ、怖いと叫んでも何も変わらないことは、仕事で十分に学んでいた。
ただ、これはこれで、まだ良かったのかもしれないと冷静な頭の片隅で考えた。砂漠の真ん中で干からびて餓死するよりは。
私は奴隷として、彼らの向かう帝都へと連れていかれた。
数日後に行き着いたその街で、私は思わず息を呑んだ。
市場に引き込まれたとき、五感が一斉に動いた。
空を突くような細い尖塔が、いくつも空に刺さっている。
石造りの城壁は砂埃で白く霞み、その向こうから礼拝への呼びかけが、波のように響いてくる。
頭上には蔦と布の天蓋が張り巡らされ、その隙間から午後の光が細く降りてくる。石畳の路地の両側に、商人たちの店が壁のように並んでいた。
クミン、コリアンダー、サフランの黄色、唐辛子の赤、乾燥ミントの草の匂い──香辛料の山が路地を染めていた。
絨毯が何枚も壁に掛けられ、幾何学模様が光の中で揺れている。色つきガラスでできたランプが天井から連なり、昼なのに橙と青の斑模様の影を落としていた。
連行されている、ということを、一瞬だけ忘れた。
その奴隷市場で私を引き取ったのは、宮殿の女官長だった。
値段は底値だったらしい。奇妙な服装の異国の女。安かったから買った。それだけの評価だった。
ただ、連行される途中のことだ。御者が突然、荷台から崩れ落ちた。
私はとっさに動いた。しゃがんで、首筋に触れて、呼吸を確認する。
「日陰に移してください。塩を溶かした水を、少しずつ」
なぜか言葉は通じた。転移の恩恵とでも言うのか、理屈はわからない。ただ、言葉よりも先に、私の動作が通じていたと思う。迷いがなかったから。判断が、早かったから。
言われた通りに処置を受けた御者は翌朝、何事もなかったように起き上がった。
女官長はその一部始終を見ていたらしく、私を「ただの奴隷」ではなく「侍女」として宮殿に置くことにした。
宮殿の薬草庫に案内されたとき、私は息をのんだ。
壁一面に並ぶ乾燥薬草。土壁のひんやりとした棚に詰まった粉末の瓶。天井から吊るされた根と実と葉。
知っているものがある。知らないものもある。知らないものの方が、圧倒的に多い。
──これは、楽しい。
女官長は、私を宮廷医に紹介した。宮廷医のイブラヒムは七十歳を超えた老人で、頭上のターバンは顔の倍以上もあった。素性の知れない助手が欲しかったわけではないだろうが、しぶしぶ受け入れた。
私は薬草を学んだ。
「これは何ですか」
「サフランだ」
「これは」
「カモミール」
「これの用途は」
イブラヒムは最初、面倒くさそうに答えていた。
二週間後。私が棚の整理をしながら、「この二つを同時に服用させると、血圧が下がりすぎる可能性があります」と指摘したとき、老医師の目が変わった。
「……なぜそれを知っている」
「飲み合わせは、基本ですから」
それから、イブラヒムは私に無言で医学書を渡し始めた。
◇
それから半年は過ぎただろうか。第二皇子のシェフザーデ・カイス・バヤズィトと初めて会ったのは、石造りの冷たい廊下だった。
彼が廊下で帽子を落として倒れていた。
私は反射的に駆け寄り、その身体を支えた。そして迷うことなく手首を掴み、脈を診た。
速い。不整はない。額に冷汗。顔色は蒼白というより、肝機能の低下を思わせるくすんだ黄色。
「いつから気分が悪いですか」
自然と言葉が出た。
皇子は驚いた顔で、目の前の小柄な異国人を見た。
「……今朝から」
「食事は」
「摂っていない」
「昨日の夜から?」
「三日前から、あまり」
胃腸炎か、過労による機能低下。私は脳内で診断を下したが、口にはしなかった。
「少し休んでください」とだけ言って、近くの空き部屋に案内した。
水を持ってきた。薬草庫から、胃の不調に使う葉を煎じた液も。
差し出したとき、カイスは怪訝な顔をした。
「毒ではないか」
「飲みたくなければ結構です」
私は淡々と盆を置いて、部屋を出た。無理強いはしない。
◇
翌日、カイスは廊下で私を探していた。
「昨日の薬は何だったのか」
「薬草茶です。市場で普通に売っています」
「……よく効いた」
私は深く頭を下げた。
「それは良かったです」
それだけで、行こうとした。
「名前は」
「さくらです。侍女の」
「侍女が脈を診るのか」
「前の仕事の習慣です」
それだけ言って、私は歩き出した。背中に真っ直ぐな視線を感じたが、振り返らなかった。
それから、カイスは、私の前にたびたび現れるようになった。
用があるときもあった。用がないときもあった。用がないときの方が、少し多かった。
◇
ある日、同盟国から宮殿へ使者が訪れた。
同盟国の王族が長きにわたり原因不明の衰弱に伏せっており、名医と名高い宮廷医のイブラヒムに診察を乞うための、正式な使節だった。
しかし、イブラヒムは七十を超えた高齢だ。砂漠を越える長旅には到底耐えられない。
使者の前で辞退するかと思われたイブラヒムは、傍らに控えていた私を真っ直ぐに見た。
「私には、優秀な弟子がいる」
老医師は静かにそう言って、私を代理として推薦したのだ。
人払いをされた後、私はイブラヒムと王の前で口を開いた。
「私は、この国における医師としての免許を持っていません」
「医師の免許? そんな制度はない」とイブラヒムが言った。
「あるのは、腕だけだ。お前の知識の正確さは、私が保証する」
患者がいる。自分に何かできる可能性がある。
薬剤師として、それだけで十分だった。
「わかりました。すぐに行きます」
私は短く答えた。
翌朝、出発の準備をしていた私に、カイスが言った。
「俺も行く」
「皇子殿下がいらっしゃる必要は……」
「外交上の理由だ」
彼は少し目を逸らした。
「同盟国の王族を見舞うのは、皇家の務めだ。それだけだ」
「わかりました」
私はそれだけ言った。
『それだけ』というのが、そうではないことくらい、大人だからわかった。
でも、聞かなかった。
まだ、誰かからの特別な感情を受け取る準備ができていなかった。
◇
同盟国の王族の症状は、原因不明の衰弱と内臓機能の低下だった。
現地の筆頭侍医は、決して無能な男ではなかった。むしろ極めて優秀だった。
王族が訴える頭痛、関節の痛み、不眠、胃の不快感──その複数の症状に対して、それぞれ最も効果の高い伝統的な薬草を完璧に処方していた。
私は三日かけて、王族の食事とすべての薬を観察した。
そして確信した。
薬草単体に毒はない。
だが、それらを『同時に』服用することで、胃の中で成分が衝突し、本来排出されるはずの成分が毒として蓄積しているのだ。
現代の薬剤師が最も警戒する、多剤併用による深刻な相互作用だった。
私は、現地の筆頭侍医に提案した。
「薬を減らしてください。そして、飲む時間を完全に分けてください」
しかし、侍医は難色を示した。
彼には現地の医療を長年支えてきた自負がある。異国から来た素性も知れない侍女の「薬を減らせ」──つまり、あなたの処方は間違っているという言葉を、すぐには受け入れられないのも当然だった。
「これらの薬草は、我が国で数百年使われてきたものだ。毒などではない」
静かな、だが明確な拒絶。
彼の選んだ薬草自体が素晴らしいことは、私も理解していた。
代わりに私は、手持ちの紙に細かな表を書き始めた。
すべての薬草の成分が体内で消化される時間を計算し、どの薬を、いつ、どの順番で飲むべきか。
そして、絶対に一緒に飲んではいけない組み合わせ──禁忌を細かく指定した。
誰が見ても一目でわかる、緻密な服薬のタイムテーブル。
現地の医師がいずれ行き詰まったときのために、完璧な『引き継ぎ書』として残すことにしたのだ。
◇
カイスは毎日、様子を見に来た。
私が表を書いている横で、ずっと黙って座っていることもあった。
ある夜、彼が言った。
「なぜそんなに細かく書くのか」
「私がいなくなったあとも、誰かが続けられるように」
私は手を止めずに答えた。
カイスは少し黙った。
「いなくなる気でいるのか」
「任務が終われば、帝都に戻りますけど」
「そういう意味ではない」
私は筆を止めた。
カイスを見た。彼はまっすぐ、私を見ていた。
ターバンに留められた青い宝石が、燭台の灯りを受けてかすかに煌めいた。
目を逸らさない人だ、と思った。
「……続きを書かせてください。処方が途中なので」
カイスは、わかった、と言って、また黙って座っていた。
それが、私には少し、嬉しかった。
◇
宮殿に戻って十日後、カイスが薬草庫に来た。
私は棚の整理をしていた。
「話がある」
「はい」
「婚約の話だ」
私は手を止めなかった。瓶を一つ、棚に戻した。また一つ、戻した。
「……誰と誰の」
「俺とお前の」
瓶を持つ手が、少しだけ止まった。でも、落とさなかった。
「理由を聞いてもいいですか」
カイスは少し考えてから、言った。
「お前の医術を見ていた。お前は常に相手のことを真摯に考えられる女だ。尊敬に値する」
「……それで婚約というのは、飛躍が」
「他にもある」
彼が続けた。
「廊下で俺を支えたとき、最初に脈を診た。名前を聞くわけでも身分を聞くわけでもなく。お前は王でも平民でも誰にでもそうするのだろう? あの順番が、好きだった」
私は棚を向いたまま、少しだけ俯いた。
正当に評価される、ということに慣れていなかった。
仕事の『結果』ではなく『過程』を見てもらえる、ということに。
成果ではなく、向き合い方を見てもらえる、ということに。
薬剤師として働いていた間、ずっと。
「一つだけ確認させてください」
「何でも」
「私は、この国の人間ではありません。習慣も、医療も、まだわからないことだらけです。それでも、ということですか」
カイスはためらわなかった。
「同盟国で、お前が三日で書き上げた処方を、現地の筆頭侍医が使ったそうだ。お前の残した記録通りに治療をして、具合が良くなっているらしい」
「それは……良かった、です」
私は、ゆっくり振り返った。
カイスが、静かに待っていた。
急かすでも、圧をかけるでもなく、ただ待っていた。
この人はいつもそうだ、と思った。廊下でも、旅の夜でも。必要なときに、そこにいる。
カイスは少しだけ、表情を緩めた。
それを見た私は、少しだけ目を逸らした。逸らしてから、また戻した。
逃げなくていい、と思った。もう。
◇
春になって、私は薬草庫に新しい棚を一つ増やした。
この地域にしか生えない薬草の記録棚。用途と禁忌と、飲み合わせの注意。イブラヒムに教わったことと、自分で調べたこと。
誰でも使えるように、丁寧に書いた。
カイスが覗きに来て、「また書いているのか」と苦笑しながら言った。
「いなくなっても続けられるように、が癖になってしまって」
「いなくなるのか?」
「ならないです」
「ならいい」
そういう会話をした。
たったそれだけの会話だった。
でも帰り際、カイスの手が私の手に触れて、それから離れた。
通り過ぎるように、ごく自然に。
私は少しの間、その手を見た。
それから、また筆を持った。
書くことがある。残すことがある。
縁の下、と言われた日のことを、ふと思い出した。
床の下で、誰かが踏む場所のさらに下で、それでも記録を残し続けた日々。
誰も見ていなかったはずの私の仕事の先に、今は待ってくれている人がいる。
私は少しだけ、笑っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
作家として歩み始めたばかりの未熟な身ではありますが、一つひとつの作品を大切に綴っていければと思っています。
もしよろしければ、画面下の「☆☆☆☆☆」から、本作への率直な感想を届けていただけないでしょうか?
星の数は、皆様が感じたままの評価で構いません。
一つひとつの反応が、私が物語を書き進める上での道標になります。
ご縁をいただけて嬉しいです。
皆様の応援をお待ちしております(* .ˬ.)"




