十七話 鉄の扉の向こう側
八日目の朝。
シルフィーナの体に異変が出始めていた。
目覚めたとき、左手の指が動かなかった。五秒ほど握り開きを繰り返すと動くようになったが、指先に鈍い痺れが残った。帝都から帰ったときに消えたはずの症状が、再発している。
精神消耗の蓄積。八日間で延べ五十回以上の安定化処置を行った。一回あたりの消耗は軽微でも、積み重なれば体に出る。リゼットが十年かけて蓄積したものを、シルフィーナは八日間で急速に味わい始めていた。
鏡を見た。目の下に隈ができている。頬がこけ始めている。唇の色が薄い。
リゼットの倒れる前と同じ兆候。
しかし止まるわけにはいかなかった。今日も四十二名の巡回と、六名の施術が待っている。そしてベルントへの訪問。八日目。
食堂に行くと、エルトが黒パンを差し出した。今日はローズマリーを練り込んだもの。日を追うごとにエルトの黒パンは進化していた。初日の素朴な味から、ハーブ入り、種子入り、蜂蜜入り。毎日少しずつ変化をつけている。
リーネが言った。
「エルトくん、昨日の夜遅くまでパンの配合研究してたんだよ。ベルントさんのために」
「……配合の問題だから」
エルトは視線を逸らした。しかし手元のメモ帳には、黒パンの試作記録がびっしり書き込まれていた。
ザラトーリスが食堂に入ってきた。最近は毎朝、訓練場に行く前に食堂に寄るようになっていた。
「顔色が悪いぞ」
「大丈夫です」
「嘘だ。指が痺れてるだろう。箸の持ち方が三日前から変だ」
「よく見てますね」
「見てなくても分かる。お前が俺の包帯の減り方を見てたのと同じだ」
シルフィーナは反論できなかった。
「今日は施術の件数を減らせ。六名のうち、緊急度の低い二名は明日に回せ」
「でも——」
「リゼットの二の舞になると言ったのは俺だ。お前が倒れたら全部終わる。四十二名が路頭に迷う。自分を潰して他人を救う真似は——俺が一番よく知ってる。効率が悪い」
効率の問題ではない。しかしザラトーリスの言葉には、自分自身の三年間の重みがあった。壊れるまで戦い続けた人間が言う「やめろ」は、誰の言葉よりも重い。
「……分かりました。今日は四名に減らします」
「それでいい。浮いた時間は寝ろ」
「寝る時間があったらベルントさんの——」
「ベルントのところには俺が行く」
シルフィーナの目が見開かれた。
「え?」
「パンを届けるだけだろう。俺にもできる」
「でも、ベルントさんとの関係構築は私が——」
「お前が倒れたらベルントとの関係も何もなくなる。今日一日くらい俺が行っても、あいつは怒りはしないだろう。怒ったとしても、俺なら殴られても平気だ」
「ザラトーリスさん……」
「黒パンを渡して、外の様子を伝えて、明日も来ると言えばいいんだろう。お前がやってるのを毎日隣で見てた。できる」
シルフィーナは言葉に詰まった。
嬉しかった。助けてもらえることが。しかし同時に——怖かった。ベルントとの信頼関係は、まだ糸一本ほどの細さだ。シルフィーナ以外の人間が行くことで、その糸が切れるかもしれない。
「一つだけ。ベルントさんには正直に伝えてください。今日はシルフィーナが体調を崩したので代わりに来た、と」
「嘘をつくつもりはない」
「あと……外の様子を伝えるとき、できるだけ具体的に。風の向きや温度、空の色、通りの音。ベルントさんの部屋には窓がないので」
「分かってる。窓のない部屋の辛さは——嵐の中にいたときと似てる。何も感じられないということだ。外の世界が遮断されている」
ザラトーリスは黒パンを受け取り、食堂を出ていった。
シルフィーナは残されたスープを飲みながら、祈るような気持ちでいた。
◇◇◇
ザラトーリスはベルントの扉の前に立った。
鉄の扉。警告印三つ。この拠点に三年いて、この扉の前に来たのは初めてだった。自分の部屋より奥にある部屋。存在は知っていたが、近づいたことはなかった。
壊れていた頃の自分にとって、他の勇者の存在は背景でしかなかった。
ノック。三回。シルフィーナがやるのと同じ間隔で。
「……誰だ。足音が違う」
即座に気づかれた。八日間、シルフィーナの足音を聞き続けていたのだろう。違う足音には敏感だ。
「ザラトーリスだ」
「ザラトーリス——何の用だ」
「シルフィーナが体調を崩した。代わりにパンを持ってきた」
「体調を……あいつが」
声の質が変わった。五日目にリゼットの名前を聞いたときと同じ揺れ。
「重いのか」
「重くない。消耗が溜まっている。一日休めば回復する。だが今日は来られない」
「……そうか」
ザラトーリスはパンを扉の前に置いた。
「今日のパンはローズマリー入りだ。エルトが焼いた」
「エルト——アサシンの小僧か。あいつがパンを焼くのか」
「上手い。俺も毎朝食ってる」
奇妙な会話だった。帝国最強の勇者と、拠点で最も危険な勇者が、鉄の扉越しに黒パンの話をしている。
「ザラトーリス。お前——変わったな」
「変わった。十日前まで壊れてた」
「知ってる。お前が暴走するたびに、この部屋まで振動が伝わってきた。壁が揺れた。——お前の方が俺より壊れてたんだろう。それが治ったのか」
「治ったとは言わない。道ができた。嵐の中に道が通って、自分で歩けるようになった」
「道——」
「シルフィーナが架けた道だ。精神架橋。あいつが俺の中に入ってきて、嵐の間隙に糸を通して、一本ずつ道にした。六回の施術と、九日間の……おにぎりとスープと、変な冗談と、泣き虫の心療師の全部で」
「お前が、誰かのことをそんなふうに話すのは初めて聞いた」
「ああ。俺も初めてだ」
沈黙が流れる。でもこれは、両者ともに敵意のない沈黙だった。
「外の様子を伝えろと言われた。今日の風は北東から。少し湿気がある。雨が近いかもしれない。空は曇り。灰色の雲が低い。訓練場では若い奴らが走り込みをしている。食堂はリーネの声がうるさい。エルトが無言でスープを作っている。ガルシアが外壁の上にいる。ミリアムがクロスボウを磨いている」
「お前。ずいぶん周りを見てるな」
「最近見えるようになった。道ができてから。嵐の中にいた頃は何も見えなかった」
「……そうか」
扉の向こうで、何かが動いた。歩く音ではない。座っていた場所から立ち上がる音。
「ザラトーリス」
「何だ」
「お前に聞きたいことがある。道の上を歩くのは……どんな感覚だ」
ザラトーリスは考えた。感覚を言葉にすることに、まだ慣れていない。しかしシルフィーナに教わった。分からないことは分からないと言っていい。感じたまま話していい。
「嵐は消えていない。頭の中で、今もずっと吹いている。記憶が渦巻いて、時々フラッシュバックが起きかける。でも道の上に立つと、嵐が少し遠くなる。自分がどこにいるか分かる。足元が確かになる。それだけで……世界が全然違う」
「足元が確かに……」
「ああ。暴走してた頃は、自分がどこに立ってるか分からなかった。戦場にいるのか、ルーンヘイムにいるのか、今が現在なのか過去なのか。全部が混ざって、区別がつかなかった。道の上では、それが分かる。今ここにいると分かる」
扉の向こうから、低い吐息が聞こえた。
「俺は……七年間、ここにいる。この部屋に。窓がない。外が分からない。朝か夜かも、灯りが切り替わるまで分からない。戦闘のときだけ外に出されて、終わったら戻される。怒りがあるから戦える。でも怒り以外のものが……もう、何も残ってない」
「怒り以外のものが」
「リゼットが来ると、少しだけ怒り以外のものが動いた。何かは分からない。でもあいつが来る時間だけ、少しだけ……静かになれた。それも、最近は持たなくなってきた。処置の効果が短くなってる。リゼットの手が……限界だったんだろう。俺も薄々気づいてた。あいつが無理をしてることに」
「気づいてたのに何も言わなかったのか」
「言えるわけないだろう。俺はあいつを殴った人間だ。心配してると言う資格がない」
ザラトーリスは黙った。殴った人間に心配する資格がない。その論理は歪んでいるが、理解できた。自分もまた、味方を傷つけた人間だったから。
「資格の話は知らない。だが……気づいていたなら、それだけで十分だと俺は思う。あいつが無理をしていることに気づけたのは、あいつのことを見ていたからだ。怒りしか残っていないと言ったが——それは嘘だ。怒りしかない奴は、他人の無理に気づかない」
扉の向こうで何かが動いた。足音。扉に近づく足音。
鉄の扉の、内側から——鍵が回る音がした。
ザラトーリスは動かなかった。
扉が、開いた。
細い隙間。拳一つ分。そこから、顔の半分が覗いた。
ベルント・ヘルマン。
大きな男だった。ザラトーリスよりも横幅がある。頬がこけ、顎に無精髭が伸び、目の下の隈が深い。しかし目は、生きていた。血走った目。怒りの目。しかしその奥に、怒り以外の何かが、微かに灯っていた。
「お前の顔を見たかった」
ベルントが言った。
「道を歩いてる奴の顔が、どんなものか」
ザラトーリスはベルントの目を見た。正面から。逸らさずに。
「こんな顔だ。傷だらけで、包帯が取れたばかりで、大したものじゃない」
「いや。違う。お前の目は……俺の知ってるザラトーリスの目じゃない。前は——何もなかった。空っぽだった。今は違う」
「何が見える」
「分からない。でも……何かがある。空っぽじゃない。それが——」
ベルントの声が詰まった。大きな体が、扉の隙間で僅かに揺れた。
「それが——羨ましいと思ったんだ。七年ぶりに。怒り以外のものを感じたのは……七年ぶりだ」
ザラトーリスは何も言わなかった。何も言えなかった。
代わりに、足元の黒パンを拾い上げ、扉の隙間から差し入れた。
「食え。温かいうちに」
ベルントの大きな手がパンを受け取った。
扉が閉まった。鍵が回った。
しかし、開いた。一度だけ、確かに開いた。
◇◇◇
午後。シルフィーナは宿舎で横になっていた。
ザラトーリスに言われた通り、午前中は施術を二件だけに抑え、午後は休息を取った。体を横にすると、自分がどれほど消耗していたかを思い知った。全身が鉛のように重い。指先の痺れが手首まで広がっている。
ノックの音。
「シルフィーナ。起きてるか」
ザラトーリスの声。シルフィーナは体を起こした。
「はい。入ってください」
ザラトーリスが入ってきた。手にスープの椀を持っている。
「エルトが持ってこいと言った」
「エルトさんが」
「正確にはエルトが椀を持って俺の前に立ち、お前の部屋の方を見た。言葉はなかったが意味は分かった」
スープを受け取った。温かい。根菜の甘さが沁みた。
「ベルントの報告をする」
ザラトーリスはベルントとのやり取りを簡潔に、しかし正確に伝えた。扉が開いたこと。顔を見せたこと。「羨ましい」と言ったこと。
シルフィーナはスープの椀を握りしめたまま、聞いていた。
「開いた……扉が」
「拳一つ分だが、開いた」
「ザラトーリスさんが行ってくれたから」
「違う。お前が八日間通い続けたからだ。俺はたまたま今日行っただけだ。開くべくして開いた」
「でもあなたが、道の上を歩いている人間の顔を見せたから。それが……ベルントさんの心を動かした」
「……心療師の分析か」
「分析じゃありません。私には、できなかったことです。ベルントさんに見せるべき顔は、心療師の顔じゃなかった。同じ壊れた側の人間が、立ち直りつつある顔だった。それはあなたにしか見せられないものです」
ザラトーリスは窓辺に立ち、外を見た。
「俺に似てると思った。あいつ」
「ベルントさんが?」
「窓のない部屋にいること。怒りしかないと思い込んでいること。誰かの無理に気づきながら、自分に言う資格がないと思っていること。——全部、俺がそうだった」
「はい」
「だから、分かった。あいつの扉が開く瞬間が。あいつは——確認したかったんだ。壊れた奴でも変われるのかどうか。変わった奴の目を、自分の目で見たかった」
「そして……見た」
「ああ。見た。俺の顔を見て、羨ましいと言った。怒り以外の感情を七年ぶりに感じたと。それはつまり、あいつの中にまだ何かが残っているということだ。怒り以外のものが」
「残っています。間違いなく。怒りしかない人間は、黒パンを食べません。布を畳んで返しません。リゼット団長の体調を心配しません」
ザラトーリスは振り返った。
「明日は……お前が行くべきだ」
「はい。明日は私が行きます。必ず」
「ただし俺も一緒に行く。あいつが扉を開けたのは俺の顔を見たかったからだ。二人で行けば——」
「二つの顔を見せられる。壊れた側の顔と、治す側の顔。両方あった方がいい」
「そういうことだ」
シルフィーナはスープを飲み干した。体が温まった。指の痺れが少し和らいだ。
「ザラトーリスさん」
「何だ」
「ありがとうございます。今日、代わりに行ってくれて。スープを持ってきてくれて。報告してくれて。全部」
「礼はいい。お前が毎日俺にやってくれていることと同じだ。同じことを返してるだけだ」
「同じこと——」
「パンを届けて、声をかけて、外の様子を伝えて、明日も来ると言う。お前が俺にやってくれたことを、俺がベルントにやった。それだけだ」
それだけ。しかしその「それだけ」が、鉄の扉を開かせた。
◇◇◇
九日目の朝。
シルフィーナとザラトーリスは、並んでベルントの扉の前に立った。エルトの黒パン……今日はクルミ入りを手に。
ノック。三回。
「ベルントさん。おはようございます。シルフィーナです。今日はザラトーリスさんも一緒です」
鍵が回る音。
扉が開いた。昨日より少し広く、拳二つ分。
ベルントの顔が覗いた。シルフィーナの顔を見て、それからザラトーリスの顔を見た。
「……来たな。二人で」
「はい」
「お前……顔色が悪いな。小さい方」
「小さい方って——」
「背が低い方だ。隈がひどい。飯食ってるか」
「食べています。リーネさんのおにぎりと、エルトさんのスープを」
「エルトのパンは、美味い。あいつに言え。もう少し塩を足すとさらに良くなると」
「伝えます」
ベルントの視線がザラトーリスに移った。
「昨日は……すまなかったな。変なことを言った」
「変なことか。何のことか分からん」
「羨ましいと、柄にもなく。忘れてくれ」
「忘れない。俺も、お前に言われて考えた。嵐の中に道があることが、どれだけ大きいかを。改めて」
ベルントは何か言いかけて口を閉じた。扉の隙間から漏れる空気に、廊下の風が僅かに混じった。ベルントの鼻が動いた。
「外の空気か……風の匂いがする。草の匂いだ」
「今日は北東の風です。草原を渡ってきた風です」
「草原——」
ベルントの目が、一瞬だけ遠くを見た。七年前の記憶を辿っているのかもしれない。外の世界にいた頃の記憶を。
「ベルントさん。一つお願いがあります」
「何だ」
「この扉を——もう少し、開けてもらえませんか。廊下の窓から風が入ります。あなたの部屋まで届くように」
ベルントの表情が固まった。
「扉を開けたら……俺が暴走したとき、止められない。この扉は俺を閉じ込めるためにある。俺が外に出ないように。俺が誰かを傷つけないように」
「あなたを閉じ込めるために作られた扉です。でも今、あなたは自分の意志で開けてくれました。閉じ込めるのは扉じゃない。あなた自身が——」
「俺自身が、自分を閉じ込めていると?」
「はい」
ベルントの目に怒りが走った。しかしすぐに消えた。消えたことに、ベルント自身が驚いた顔をした。
「……怒りが、止まった。今、一瞬だけ」
「止まりましたか」
「ああ。いつもなら、こういうことを言われたら、殴ってた。椅子を投げてた。でも今……手が動かなかった。動かなかったんじゃない。動かす気にならなかった」
「それは——」
「分からない。自分でも分からない。何だこれは」
ザラトーリスが口を開いた。
「俺にも覚えがある。シルフィーナに最初に触れられたとき。拒絶するつもりだった。手を払うつもりだった。でも手が動かなかった。殴る気にならなかった。理由は、あとから分かった」
「何だったんだ。理由は」
「あいつの手が温かかったからだ。それだけだ。温かい手を殴る気にならなかった。三年間何も感じなかった俺が、温度だけは分かった。それが、最初の一歩だった」
ベルントは扉の縁を握っていた。大きな手。拳を作れば人を殺せる手。その手が、扉を押した。
扉が開いた。人一人が通れる幅に。
廊下の風がベルントの部屋に流れ込んだ。窓のない部屋に、初めて外の空気が入った。
ベルントの全身が震えた。
「風——」
「はい。北東の風です」
「温かい——いや、冷たいのか。分からない。でも、動いている。空気が動いている。この部屋の空気は死んでいた。七年間ずっと。でも今……動いてる」
ベルントが扉の前に立っていた。大きな体が廊下の光に照らされている。七年間、魔法灯の冷たい光しか知らなかった目が、廊下の窓から差し込む朝日に細められた。
「眩しい」
「目が慣れるまで少し待ちましょう」
「眩しいんじゃない。眩しいのが——」
ベルントの声が震えた。大きな体が震えた。
「眩しいのが嬉しいんだ。何だこれは。眩しいだけだ。光が当たってるだけだ。それだけのことが——何でこんなに——」
言葉にならなかった。ベルントは扉枠に手をついたまま、朝日の中で立ち尽くしていた。目から涙が流れていた。怒りの涙ではなかった。もっと、奥の方から来る涙。
シルフィーナは黒パンを差し出した。
「食べませんか。朝日の中で」
ベルントの大きな手が、パンを受け取った。一口齧った。
「美味い。いつもより美味い。同じパンなのに」
「光の中で食べると、味が変わるんです。不思議ですけど」
「不思議だな。……不思議だ」
ベルントは泣きながらパンを食べた。ザラトーリスは壁にもたれて黙っていた。シルフィーナは隣に立って、何も言わなかった。
朝日が廊下に差し込み、鉄の扉の内側を照らしていた。七年ぶりの光。
◇◇◇
その日の午後。シルフィーナはベルントの安定化処置を行った。
扉は開いたままだった。ベルントが閉めなかった。「風が入るから」と言って。
施術は扉の中で行った。初めてベルントの部屋に入った。
狭い部屋だった。寝台と椅子と小さな棚。それだけ。壁には拳の跡が無数にあった。七年分の怒りが刻まれた壁。しかしその壁の一カ所——寝台の横の壁に、何かが刻まれていた。
縦線の束。五本ごとに斜線で区切られている。正の字に似た、日数の記録。
「何の数ですか」
「リゼットが来た日数だ。初日から数えてる」
シルフィーナは壁の線を数えた。途方もない数だった。二千を超えている。七年間、ほぼ毎日。
「リゼット団長は、毎日来ていたんですね」
「毎日だ。俺が殴っても。物を投げても。腕を掴んでも。翌日には来た。いつも同じ時間に。同じ顔で。あいつが来ると、壁に一本、線を引いた。あいつが来た証拠として。来なかったら引かない。一日も欠かさなかった」
「ベルントさん。あなたは——リゼット団長のことを」
「黙れ。それ以上は言うな」
声が鋭かった。しかし怒りではなかった。守ろうとしている、何かを。誰かに触れさせたくない場所を。
「すみません。立ち入りすぎました」
「……お前たち心療師は、人の心に踏み込むのが仕事だろう。だがそこだけは——まだ踏み込むな。俺自身がまだ、整理できていない」
「分かりました。待ちます」
「待てるのか。リゼットも——ずっと待ってた。俺が整理できるのを」
「七年間」
「ああ。七年間。馬鹿だろう。あいつ」
「馬鹿です。でも——」
「でも何だ」
「待ってくれる人がいるのは……幸せなことだと思います」
ベルントは何も言わなかった。壁の線を見ていた。二千本以上の線。七年分の「来てくれた証」。
安定化処置を行った。ベルントの精神波動に触れる。
嵐があった。ザラトーリスの嵐とは質が違う。ザラトーリスの嵐は記憶と自壊の渦巻きだったが、ベルントの嵐は灼熱だった。怒りの炎が精神全体を焦がしている。七年間燃え続けた怒りの熱。
その熱の中心に——何かがあった。
溶けかけた氷のような、冷たい核。怒りに包まれて見えないが、確かにそこにある。冷たくて、小さくて、壊れやすいもの。
それが何かは分からなかった。しかしシルフィーナはそれに触れなかった。今はまだ。
安定化処置を終えた。効果の持続時間は——正確には分からないが、これまでリゼットが行っていた処置よりは長く保つ手応えがあった。
「ベルントさん。今日の処置で、少し楽になったはずです。明日の朝まで持つと思います」
「リゼットの処置より——長い気がする。手が違う」
「手が?」
「リゼットの手は——いつも疲れていた。消耗した手だった。お前の手はまだ若い。力がある。消耗はしてるが、リゼットほどじゃない」
リゼットの手は疲れていた。七年間、毎日、一人で。
「ベルントさん。明日も来ます。パンを持って」
「ああ。……扉は、開けておく」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。俺はまだ、お前を信用したわけじゃない。ただ風が入るから開けているだけだ」
「はい。風のためです」
「そうだ。風のためだ。——パンの塩を増やせとエルトに言え」
「伝えます」
シルフィーナはベルントの部屋を出た。廊下に出ると、ザラトーリスが壁にもたれて待っていた。
「どうだった」
「安定化処置は成功しました。扉も開けたままにしてくれるそうです」
「風のためにか」
「風のためにだそうです」
「嘘だな」
「嘘ですね」
二人は顔を見合わせた。笑いはしなかった。しかし何かが、通じ合った。
◇◇◇
夜。食堂。
六人がテーブルについた。いつもの夕食。しかし今夜は報告すべきことが多かった。
「ベルントさんの扉が開きました」
シルフィーナが告げると、テーブルが静まった。
「開いた——あのベルントが?」
ミリアムが目を見開いた。
「はい。まだ完全にではありませんが、廊下の風が入る程度に。安定化処置も行えました。明日から毎日通います」
「すげえ……」
リーネが呟いた。
「ベルントさんのこと、前にリゼット団長から聞いたことがある。あの人だけは絶対に扉を開けないって。七年間一度もって」
「ザラトーリスさんのおかげです。昨日代わりに行ってくださって、同じ壊れた側の人間として話してくれたから——」
「俺のおかげじゃない。黒パンのおかげだ。エルト、ベルントが塩をもう少し足してくれと言っている」
エルトが頷いた。
「分かった。明日は粗塩を表面にまぶす」
「それと——ベルントが言った。エルトのパンは美味いと」
エルトの手が止まった。スープの椀を持ったまま、数秒間動かなかった。
「……そう」
それだけ言って、スープを飲んだ。しかしフードの奥の目が、僅かに潤んでいたのをシルフィーナは見逃さなかった。
ガルシアが言った。
「拠点の空気が確実に変わってきている。ベルントの扉が開いたことは——明日には全員に伝わるだろう。あの鉄の扉が開いたという事実は、他の勇者たちにも影響を与える。あいつが開けたなら俺も——と思う奴が出てくる」
「それが連鎖になれば……閉じこもっていた勇者たちが、少しずつ」
「ああ。ただしリスクもある。期待が高まれば、期待に応えられなかったときの反動も大きい。お前一人の手が回らなくなれば——」
「分かっています。だからこそ、皆さんの力が必要です。これからも」
ミリアムが腕を組んだ。
「あたしは巡回を続ける。ベルント以外にも、閉じこもってる奴がまだ何人かいる。カイはまだ出てこないし、フェルナーも」
「明日、カイさんのところにも行きます。フェルナーさんにも」
「一日に何人も回る気か。体が持つのかよ」
「持たせます」
「その台詞、リゼット団長と同じだぞ」
ミリアムの声が鋭かった。シルフィーナは口を閉じた。
ザラトーリスが言った。
「分担を増やす。明日から、俺が勇者たちへのグラウンディングの指導を拡大する。訓練場だけじゃなく、病棟にも回る。閉じこもっている奴の扉の前にも行く。シルフィーナが施術をしなくても、話を聞くだけで楽になる奴はいる。俺がその分を引き受ける」
「ザラトーリスさん——」
「お前が全部やる必要はない。精神架橋と安定化処置はお前にしかできない。だがそれ以外のことは——俺たちにもできる。分けろ。抱え込むな」
リーネが手を挙げた。
「あたしもベルントさんにおにぎり届けていい? 黒パンもいいけど、たまには違うものも食べた方がいいよ」
「リーネさん。ベルントさんはまだ——」
「大丈夫。怒鳴られたら逃げるから。でも逃げた後にまた来るから。しつこさならシルフィーナさんに負けないよ」
シルフィーナは笑った。目が熱くなった。
「ありがとうございます。皆さん——本当に」
「泣くなよ。食卓で泣くな。飯がしょっぱくなる」
ザラトーリスの言葉に、テーブルから笑い声が上がった。
六人で食卓を囲む夜。おにぎりとスープと黒パン。
鉄の扉が開いた日の夕飯は、いつもより少しだけ——美味かった。




