プロローグ「状況終了」
赤い月が昇っていた。
地平線を覆い尽くすモンスターの群れが、嵐のように前線を飲み込んでいく。不定形の肉塊。関節の捻じ曲がった獣。内臓を引きずる何か。暗赤色の波は途切れることなく押し寄せ、大地を腐臭で塗りつぶしていく。
「あれが……【モンスター】。私たちを滅ぼそうとする、人類の敵。そして、私たちが治すべき人は――」
防衛陣地の後方に設営された《野戦医療幕舎》の中で、シルフィーナは震えていた。
震えていたのは、怖いからではない。幕舎に次々と担ぎ込まれる勇者たちの姿が、彼女の知っている【勇者】とはあまりにもかけ離れていたからだ。
「ははっ……あはっ……あはははははははははははっ!!!」
ある勇者は両目を見開いたまま、何も映していなかった。体に傷はない。五体満足で、しかし完全に壊れていた。声をかけても反応がない。瞳の奥にあるのは、戦場のどこか遠い場所に取り残された魂だけ。
「殺せ、殺せよ!!! 早く……早く、俺を殺せぇ!!」
ある勇者は幕舎に担ぎ込まれた瞬間、手当たり次第に周囲へ殴りかかった。三人がかりで押さえつけられながら、聞き取れない言葉を叫び続けている。その目には、ここが医療幕舎であることすら映っていない。彼にとって、世界はまだ戦場のままだった。
「■、■■■■■■■■■■、■■■■■ッ!!!」
――ある者は、笑っていた。
体中に裂傷を負い、左腕が奇妙な角度に折れ曲がった状態で担架に横たわりながら、その勇者は笑っていた。何が可笑しいのか尋ねることさえ、シルフィーナにはできなかった。
「きゃっ――気をつけてください! 患者は武器を所持しています!」
「全く、ここは医療現場だぞ。これじゃあ、どっちが戦場だか分かったもんじゃないな」
「PTSDを発症している。おい、さっさと薬を投与してやれ」
「ですが、この量はあまりに――っ!」
「構わん。奴は勇者だ、薬程度で死にはしない」
仲間の心療師の声も、シルフィーナの耳には届かない。暴れ狂い、発狂し、奇声を上げる、勇者たちの異様な光景に、新米心療師の彼女は、ただ立ち尽くしていた。
これが、勇者。
帝国が誇る最強の切り札。人類の希望。市民を守る英雄たち。
教本には、そう書いてあった。入団式の訓示でもそう聞いた。シルフィーナ自身もそう信じて、この場所に志願した。壊れた勇者の《心》を癒やすために。彼らの苦しみに寄り添うために。
だが、現実はあまりにも違いすぎた。
——轟音。
突然、前線の方角から夜空を引き裂く衝撃波が走った。
幕舎の天幕が暴風に煽られ、器具が散乱する。シルフィーナは咄嗟に近くの担架にしがみつき、身を低くした。地面が揺れている。一度ではない。断続的に、まるで巨大な心臓が脈打つように、大地そのものが痙攣している。
「——【螺旋殲滅者】だ! 【螺旋殲滅者】が出たぞ!」
誰かが叫んだ。幕舎内の空気が一変した。恐怖ではない。それよりも深い何か。諦めにも似て、同時に一縷の希望が混じったような、歪な感情。
シルフィーナは幕舎の入り口に走った。【それ】を見てはいけないと本能が警告している。それでも、見なければならないと思った。心療師として。これからこの人たちと向き合う者として。
「【螺旋殲滅者】……彼が、あの人が……帝国が誇る、【世界最強の勇者】」
そしてシルフィーナは、見た。
前線のさらに前方。モンスターの大群のただ中に、たった一つの人影があった。
赤黒いオーラが身体から迸り、闇の中に不吉な光を放っている。怒髪天を衝いた黒髪。赤く染まった瞳。その周囲数百メートルのモンスターが、文字通り消滅していく。斬撃が通過するたびに螺旋状の衝撃波が発生し、低位モンスターは原形すら残さない。中位モンスターの群れが一撃で薙ぎ払われる。高位モンスターが後退している。後退している。あの知性あるモンスターが、たった一人の勇者から逃げている。
……美しいと。
そう思ってしまった自分に、シルフィーナは吐き気を覚えた。
あれが人間の姿であるはずがなかった。絶え間なく敵を殲滅しながら、その身体は自らの力に蝕まれている。赤黒いオーラが噴き出すたびに、皮膚に亀裂が走り、血が飛沫となって散る。
ユニークスキル【螺旋殲滅者】。
それは敵の全ての防御力を無視し、自身が与える全ての攻撃が【致命傷】になるという絶大な力。だがその圧倒的火力と引き換えに、毎秒増幅する自傷ダメージを受け続ける。敵を倒しきるまで回復不能、解除不能。発動すれば、全ての敵を滅ぼすか、自壊して死ぬかの二択だ。
それでも彼の足は止まらない。一歩も退かない。【血の魔群】が途切れるまで、あるいは自分の身体が限界を迎えるまで。どちらが先に尽きるかの勝負を、その勇者はたった一人でやっていた。
その時、隣にいた古参の治療師が、疲れ切った声で呟いた。
「ザラトーリス。【帝国最強の勇者】だ。——そして、【帝国で最も壊れた勇者】でもある」
シルフィーナは目を離せなかった。離せないまま、理解した。
壊れているから、あれほど強い。
あの凄まじい力は、健全な精神からは決して生まれない。心が砕けたその瞬間に、人間の限界を超えた。帝国はそれを知っている。知っていて、この人を戦場に送り続けている。
「君の最初の《担当患者》だよ、新人。——まあ、治す必要はない。戦える状態に戻してやればいい。いつもそうしてきた」
戦える状態に、戻す。
治すのではなく。
――赤い月の下で、ザラトーリスはまだ戦っていた。その身体が崩壊に向かっていることは、遠目にも明らかだった。それでも止まらない。止まれない。止める者もいない。
やがて、モンスターの波が引いた。最後の一体が螺旋の衝撃波に呑まれて消滅し、戦場に沈黙が降りる。赤黒いオーラが掻き消え、ザラトーリスの髪と瞳が元の色を取り戻していく。
膝をついた。
それから、崩れ落ちた。
シルフィーナは走り出していた。考えるより先に身体が動いていた。心療師としての判断ではない。ただ、あの人を放っておけなかった。
倒れたザラトーリスのもとに辿り着いたとき、彼はまだ意識があった。全身から血を流し、自壊の傷に覆われた身体で、うっすらと目を開けている。
そして……彼は、シルフィーナを見た。
知らない顔だと認識したのだろう。掠れた声で、短く言った。
「——敵勢の殲滅を確認。状況終了。ところで……誰だ、お前」
「心療師のシルフィーナです! 本日をもって、あなたの担当につきました!」
ザラトーリスは血に塗れた顔で、ふっと笑った。
「新人の心療師か。、悪いが、俺を治すな。弱くなる」
「え……っ?」
シルフィーナが言葉の意味を聞き返す前に、ザラトーリスは身体を起こして去っていく。
赤い月は、まだ空に浮かんでいた。




