3.助けの糸
「てか、今更だけどなんかごめん。この授業受けてるの、私が取ったからでしょ?」
私は薫子にそこそこ高額の借金を抱えている。
その返済のために私は難易度の高い大学の講義をいくつも履修し、試験の合格報酬を荒稼ぎしようとしていたのだ。
薫子は自ら私を助けようと、同じ授業を取ってくれたのだ。
実際、講師の話を聞いているだけでは何もわからないので、彼女にほとんど教えてもらっている状態だった。
「私も学びになってるので助かってますよ。難しいですけど、実践的で面白いですよね」
そう言って薫子は、厚い教科書とノートを机の上に広げた。
そのノートには、きれいな字で詳細な説明と複雑な数式が書き連ねられている。
今日の試験科目は金融物理学B。
経済現象を物理学の観点から分析し、金融市場の予測やリスク管理などに役立てるとか、そんなコンセプトの学問だ。
「試験、頑張りましょう」
薫子の励ましの言葉に、私は筆箱から特別な鉛筆を取り出した。
それは六角形の鉛筆で、各面には1から6までの番号が刻まれている。
「それは?」
鉛筆を机の上に転がすと、3と刻まれた面が一番上に来た。
「こういうの、憧れてたんだよね。これで合格点取れたらカッコよくない?」
私の言葉に、薫子の表情が一変する。
いつもの柔らかな微笑みが消え、代わりに冷たい笑みが浮かんだ。
「後で私のお家にお越しいただけますか?」
その言葉は丁寧だが、声のトーンには明らかな威圧感があった。
「ほんとすみません、真面目にやります」
慌てて鉛筆をしまいながら謝る。
彼女は顔が整っているだけに、怒った表情が一層恐ろしい。
冗談のつもりだったけど、やっぱり怒らせるとおっかない。
試験監督が入室してからは、私達の間から会話は消えた。
私語を禁じられた静寂で、問題用紙と解答用紙が淡々と配布される。
この国は基本的な生活に関わるあらゆるシステムが電子化しているというのに、こういうところはアナログだ。
学事課の趣味なのかね。
「試験開始」
試験監督の冷たい声が教室に響き渡った瞬間、一斉に問題用紙をめくる音が起こる。
私も緊張した指先で問題用紙を開いた。
そして、目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
「嘘でしょ・・・・・・」
私は驚いた。問題数が多いことに。
A4用紙三枚にびっしりと詰め込まれた問題群。金融市場の確率モデル、ブラック・ショールズ方程式の応用、エントロピー最大化による投資戦略の最適化・・・・・・。
どれも授業スライドで見た内容だが、だからといって素早く回答出来るとは限らない。
薫子の方をちらりと見ると、既に集中して解答を書き始めていた。
彼女の表情は真剣そのもので、ペンを走らせる手に迷いはない。
対照的に、私は汗ばんだ手で鉛筆を握り締めたまま、問題文を何度も読み返していた。
「大丈夫、ちゃんと勉強はしてきてる・・・・・・私ならできる・・・・・・」
小声で自分に言い聞かせる。
あれだけ薫子に付きっきりで教えてもらい、真面目に勉強したのだ。
時間をかければちゃんと解けるはずだ。
ただ、この問題数を制限時間内に解き終えられるかは別問題だ。
最初の問題から取り組み始めたが、頭がどこか靄がかかったように重い。
寝不足のせいだろう。
昨晩、ソシャゲでどうしても逃せないイベントがあったのだ。
ユキには夜ふかししないよう言われていたが、どうしても欲に抗えなかった。
「こんなん、ただのCPUバトルじゃん・・・・・・!」
わざとケアレスミスを誘うような引っ掛け問題に、ただひたすらに計算がしんどくなるように作成された問題ばかり。
学問の探求を重んじるとか言っておきながら、これは悪問がすぎるでしょ。
そんな文句を叫びたい衝動に駆られるが、頭を振って意識を問題に向ける。
一問目はなんとか形になりそうだ。公式を当てはめて、計算を進める。
ただ、通常なら簡単な微分計算も、今日は何度もミスをしてしまう。
答えが合わない。消しゴムで何度も消して書き直す手に、じわりと焦りが広がってきた。
ふと、目の端に小さな黒い影が飛んだ。
瞬きをして見直すと、確かに何かが飛んでいる。
ショウジョウバエだ。
小さいながらも存在感のあるそのハエは、まるで私を挑発するかのように、問題用紙の上を旋回し始めた。
手で追い払おうとするが、すばしっこく避けられてしまう。
「うっとうしい・・・・・・」
集中力が途切れる。
ようやく解けそうだった問題の糸口を見失う。
ハエは教室内をぐるぐると飛び回り、やがて私の顔の周りを旋回し始めた。
そして突然、ショウジョウバエが真っ直ぐに私の右耳に向かって飛んできたのだ。
「い"っ!?」
予想外の侵入者に、思わず変な声を上げて仰け反ってしまった。
椅子がキィと不快な音を立て、試験監督の鋭い視線が一瞬私に向けられた。
ショウジョウバエは確実に耳の中に入り込んだ。
外耳道を這う感覚に、鳥肌が立つ。
完全に奥に入ってしまったため、自力で追い出すのは難しそうだ。
「最悪・・・・・・」
時計を見ると、既に試験時間の3分の1が経過している。
解けた問題はまだ20問。
ただでさえ時間がなくてヤバいってのに、これ以上邪魔が入るなんてツイてない。
諦めかけた時、異変が起きた。
耳の中のハエの羽音が急に変化したのだ。
羽音は一定のリズムを刻むようになり、そこにピチピチとノイズが混じり始めた。
まるで砂嵐のラジオを聴いているような感覚だ。
そして、右耳からはっきりと、人間の声が聞こえた。
「第21問から、回答を続けて」
思わず周囲に目を向けるが、誰も私に話しかけてはいない。
全員真剣に問題と向き合っている。
そう、これは紛れもなく、私の耳の中から聞こえてきた声だった。
声は続いた。
「二階線形確率微分方程式を解く。まず、変数分離により・・・・・・」
細かい数式と解法が、まるで誰かが解説しているかのように、私の耳に直接届く。
それは今まさに私が取り組んでいた問題の解答だった。
まさかと思いながらも、声に言われた通りに解答を書いていく。
数式が完成した。
そして驚くべきことに、それは完璧に筋が通っていた。私が理解できる範囲でも、解答が正しいと感じられる。
「次、22番。市場の非効率性を考慮したブラウン運動モデルを・・・・・・」
書き終わるなり、次の問題の解答が耳の中で始まった。
まるで私の進捗を見ているかのように、タイミングは完璧だ。
倫理的な葛藤が一瞬、脳裏をよぎった。
これはカンニングだ。不正行為だ。
でも、考える暇もなく、次々と聞こえてくる解答を機械的に書き写していた。
「もう少し自然に書き直して。君の筆跡で」
声は私の書き方まで指示してくる。
それに従って、私は解答を少し崩して書き直した。
まるで自分で考えたかのように。
「なんとかなりそう・・・・・・?」
そんな思いが頭をよぎる。
薫子への借金を返せるなら、この不思議な出来事も悪くない。
そう思った矢先、試験監督が私の横に立っていた。
「どうかしましたか?」
「い、いえ、何でもないです。ちょっと耳が痒くて・・・・・・」
テクノロジーが発展したこの国での不正行為は基本的に不可能だ。
カメラ等の類はすぐバレるし、試験会場一帯に通信妨害が施されているため、通信機器は使えない。
その常識が前提にあったからだろう。
私の不審な素振りを気にしつつも、監督は踵を返して歩き去った。