89 放課後の癖直し
伊波奈が去ってすぐ、バッグの中から片手間なのに手際良く、櫛と折り立て鏡を取り出して、ヘンテコだと指摘された前髪とおでこを覆っていた逆手をおそるおそる反射越しに明加は細目で見遣る。
「……うわぁー何このおでこ。前髪ぐちゃぐちゃじゃん、最悪……もう、何で早く言ってくれなかったの!」
「だって大体学校で寝てるとこんな感じだし……なあ?」
「うん。明加と、あと雁行は珍しくないよね。慣れたものだよ」
「それでも絶対言って! 私タダでさえ癖っ毛なんだから、前髪まで変だと全体の整合性が取れないんだよ」
「いや逆にその方が面白……いぃったぁ!」
苑士郎が言い終える前に、畝りに翻り、奮い立ったようなヘアスタイルになった明加の軽い肘打ちが脇腹に命中する。ただ背凭れの椅子が身体の捻りを抑制しているおかげで多少はダメージが軽減するはずであり、明加も本気で当てているわけじゃない。もちろん苑士郎の痛がり方もオーバーリアクションだ。
「うぅ……腹が減り込んでねぇか、千尋」
「大丈夫。そんなことになったら、僕も明加もこんなに落ち着いてないよ」
わざとらしく苑士郎が脇腹を抑えながら蹲踞している。
しかし千尋も明加も言葉通り、離席する素振りもない。
「……良いよね苑士郎は。私や千尋……あと伊波奈みたいに癖っ毛の悩みが無さそうだし」
「おいおい、まさか逆恨みの一撃か。理不尽だ」
「あと伊波奈の毛先を弄った分もね」
「ああー……んなら、しゃあないか。甘んじて受け入れるな」
もう演技をする必要はないと苑士郎はけろりと立ち上がる。伊波奈がすんなり輪の中に入りやすくするつもりで適当に難癖を付けたけど、理由は何であれからかったのは確かだ。仕方ない制裁だと許容する。
あと彼がどうしてこんな所作をとったかというと、鏡写りを気にする明加の邪魔をしないようにといった意味合いもあった。結果論ではあまり効果的ではなかったけれど、客観視していた千尋からは、苑士郎の視点がずっと床に向かっていたので、薄々その意図が汲み取れる。
「んー……これ櫛だけじゃどうにもならないかも。ドライヤーと寝癖直し欲しいな」
「なかなか融通効いてくれないよね」
「そうなの、今朝も前髪を揃えるのにだいぶ苦労してるんだよ。分かってるね千尋、流石癖っ毛仲間だね」
「まあ……でも僕は半ば矯正したり、オシャレにするのを諦めているけど」
「そりゃもったいねぇな。俺には合わなかった整髪塗料貸してやるよ、稜也に貰ったやつだけど試してみな」
「稜也か……うーん、考えてみる」
不意に今日は登校していない子の名前を出す苑士郎と、どうしようかとゆっくりと悩む千尋。そうしている間にもせめて真っ赤なおでこを前髪で隠そうと梳く明加。その退屈を凌ぐように、余白だらけの放課後の教室の窓側に固まり、帰路に就きながらでも出来る会話を交わす。
それを青春と呼称するには気怠いのに、無益では断じてない。教室に居残る必然性もないけど、寮に戻ると閉鎖的空間の密度が下がったことによる特有の開放感を味わえない。
夕焼け染めを待つばかりの一室。
きっと生徒だからこその、しがない贅沢だ。
ちなみに千尋と苑士郎が教室に居残っている理由は幾つかあって、帰宅する生徒たちの動向、水島と拓土と椎の様子の俯瞰、あと流れから明加を一人にさせられなかったこと、ついでに荷物が机のフックに掛かっていることからまだ校舎内に居るであろうジオが戻って来るのを待っている。
最後まで水島の授業を受けた時点で、発現能力に覚醒し早退したトリノのことは墨花、理人、塔矢に一任したと同義で、何も焦って寮へと帰還する性急性はない。あえて冷静に平凡な生徒のままでいようと考える。明加もあたふたとして一緒に居るし、極々自然な経緯だろう。
「……どうでしょうか?」
明加は千尋と苑士郎に感想を求める。
堅苦しいセリフとは裏腹に、口調と所作はコミカルだ。
どこまで前髪でカバー出来ているかを、喋らずとも視線で補足し訊ねている。
「おー、かなりマシにはなったんじゃね?」
「うん、目立たなくなったよ」
「だよねっ! カムフラージュは出来てるよね」
「まあ片方だけまだ、えげつない曲がり方をしたまんまだけどな」
「……これはもうどうしようもないんだよっ。帰って部屋で直す」
苑士郎の言及通りまだ一箇所だけ大きく畝ってはいるが、真っ赤になったおでこは覆い隠され、その頑固な癖っ毛も明加の髪質には合っていて、あまり不自然には映らない。彼女としてはまだまだ不満の出来栄えかもしれないが、巧く修正したなと千尋は密かに思う。
「んじゃあ、そろそろ俺たちも帰るか?」
「うん……そういえば、なんで私たち残ってるの?」
「いやお前がそれを言うか……つーか、ジオのヤツはほんとどこに行ったんだよ。全然戻って来ねぇじゃねえか……まさか忘れて帰ったのか?」
「それは流石に無いんじゃない……あーでも、ああ見えておっちょこちょいなところもあるからなー……どうだろ?」
「僕……ちょっと探してみるよ。寮に帰ってもとくに役立つことは無さそうだしね……どこだろ? 気分転換してるだろうから、外かな?」
そう言い残して、千尋は重い腰を上げる。
さりげない微笑みを添え、淡々と流れるような動き。
暇だとか、やるべきことがないとかではなく、役立つことが無さそうと前置きで述べたのは、トリノの一件がどうしても脳裏にチラついているからだ。




