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コバルトソフィア  作者: SHOW。
第二章
87/156

87 遅れた名前

 それは所詮、形式上に過ぎないのかもしれない。果てなく無意味なもので、退屈を乗算させる倦怠感すら漂う。

 数分間の身支度のあと、生徒九人が着席して待つ。

 相対して、教卓に優しく触れる水島が微笑を魅せる。

 最後まで、たった一人の教師であるために。


「では。この島ではあまり一般的じゃないらしいですが、帰りのホームルームを始めます」


 水島が教師として、わざわざこの場を設けてまで語ることはあまりない。一日だけの外部教師でしかなくて、故に明日の行事予定もなくて、終業式のように僅かな期間の惜別を痛むこともない。ましてや仮に永劫の別れであっても、そこまでする思い入れが、人工島に暮らす生徒側には無いことだって承知の上だ。


「んー私としてはたくさん喋りたいことがあるんだけど、あんまり長々しく語るのはくどいし、みんなもそんなのイヤだろうし、私も同じ年頃のときはさっさと帰らせてよって思った経験がいっぱいあるし、手短にね」


 でも個人的に、話したいことはある。

 だがら水島はここで、仕切り直すように襟を正す。

 緊張を紛らわすための仕草だ。

 固唾を飲む一幕。無情に発条音を立てる秒針。

 殊勝な視線は教卓へと向く。

 彼女の後ろめたさが如実に現れる。


「……本当のことを言うとね、私がこの島にずっと来たいなと思っていたんだよ。君たちは少なからず……【ハルトマカロウ】を、恨んでいるであろう子たちだから」


 千尋たちは絶句する。いや、もともと何も返答するつもりは無かったんだが、まさか大人の口から元凶である【ハルトマカロウ】という単語が飛び出るとは想定していなかった。みんな暗黙の了解で禁句なんだと思っていたからだ。剰えそれを恨んでいると、悟られてしまっていることを。


「あ……こう言っちゃうと私が政府管制課側の人だと勘違いされそうだね……いや実在その人たちのおかげでこうして来島しているんだから間違ってはいないけどさ」


 空笑いをして、水島はうやむやにしようとする。

 本当に伝えたいことは、こんなことじゃないと。


「でも、どうしても知りたかったんだ……私とは【ハルトマカロウ】に対する思いの丈が違う子の生活が、住む場所が、日常がどんなものなのか」


 水島はこの期に及んでも、打ち明けようか悩んでいる。

 それは彼女にとっても、忘れられるものなら忘れたいくらい悲愴な過去。大勢の大人を困らせて、自らも今すぐ死んだ方が全て楽になるんじゃないかと思いたくなるくらい胸を締め付けられた日々の追憶。


「私は………………その、【ハルトマカロウ】の発見のおかげで、こうして先生っていう立場になっているといっても過言じゃないんだよ……じゃなければきっと、今もベッドで仰向けになっているだけの人生だったのかな……この島に来訪する権利を優先的に得たのも、その経験があるからだと思う」


【ハルトマカロウ】を用いた技術は未だ、本土の主流である。人工島という危険因子の副産物を産出してしまったことよりも、遥かに上回る功績を評価してのものだ。もちろんそのことを人工島民には伝達されていない……されるわけがない。


「多分さ、こういうことを言うのは禁止なんだろうけど、私としても生徒に私情を挟むのは良くないと思うけど……私は君たちが、この島に閉じ込められている現状を、良くは思っていない。今日ここに来て、失態もあったけど授業を行なって、改めてそう思った……だってみんな普通の生徒で、大人との狭間で悩む中学生で、余所者の私を遠ざけようとしてるのに、心のどこかで遠慮してしまう優しい子たちだから」


 人工島民である彼ら彼女らの処遇には賛否両論だ。

 あくまで予想最低値の段階で隔離する必要があるのかと。

 もちろん、僅かでも危機に瀕してしまうのなら殺してしまえと論じる大人も居る。

 十五年間の拮抗状態。されどその期間、幾度となく議論が交わされたのは言うまでもない。


「あはは……今言ったことは、出来れば政府管制課には内緒にしてくれると嬉しいです。普通に禁忌に触れちゃってる発言だったからね。とにかく私が何を言いたいかと言うとね——」


 とても大切な話だった。なんせ水島の暗澹とした過去の出来事を交えていたから。だけどそんなこと、人工島民には関係ない。この遠回りの発言の意図をいつか、汲み取ってしまう生徒もごくわずかだろう。もしかしたらそんな人物はいないかもしれない。それでも水島は伝える、もっと単純な一日の感想と抱き合わせて。


「——今日はみんなに逢えて、嬉しかったです。そして先生としても、逆に教えて貰うこともたくさんありました……ありがとね」


 教師として教室全体を見通すように正面を向いて、ここに着席する生徒、遠方の寮で休む生徒、つまり人工島で暮らす全員に告げる。


 確かにこのホームルームは無価値なものかもしれない。

 でも、覆われた胸の内が弛緩する場所になる。

 水島はただみんなに感謝を伝えたかっただけだが、先生と生徒の溝を微妙に埋める瞬間でもあった。


「あの——」


 すると窓側の席に座る生徒……千尋が挙手する。

 厳粛な空気を斬り裂く手の平だ。

 水島の熱弁に心を打たれたわけでもなく、感謝の言葉をなんの疑いもなく受け取るわけでもない。

 でも一つ。学校でも、輸入港での初対面のときですら失念していたことがあることに今更ながら気が付いた。もしやと回顧すれば、水島はそれを知ってか否か、敢えて口にしなかったんじゃないかと深読みしてしまうくらいの、当たり前のはずの呼称。先生と生徒ならば、不意に口走ってもおかしくないはずの流れ。


 もう本当に今更だ。時効ですらあるかもしれない。

 だけど千尋ら今すぐに伝えないと、一生このままな気がして、それはダメだと考え直して、ちゃんと言葉にする。


「——えっと僕の名前、望仁 千尋と言います」

「……っ!」


 千尋は一度も水島に名前を名乗ってなかった。

 ついでに言えばトリノもだ。


「ごめんなさい、自己紹介が遅れてしまって……水島先生」

「……はいっ、やっと教えてくれましたね。千尋君」


 千尋以外の生徒の瞳孔が開く。

 それは他愛のない、穿った盲点。


 水島はずっと、生徒の名前を意図的に呼ばなかった。

 名簿を貰っているから、当然名前は知っている。

 誰も教えてくれなかったと言えば屁理屈だけど、生徒から教えてくれるのを、先生としてひたすら待っていた。


 心を開かなくても良い。

 嫌悪の対象でも構わない。

 それでもちっぽけな秘密を一つ。

 この耳で直接、当人の口から聴かせて欲しかった。

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