85 知らないこと、苦手なこと
ペンシルの先端が、ノートに文字を記すたびに擦り減る。
こんなにも単調な原理が都度、愛おしい。
六時間目。水島による本日最後の授業。
いやもしかしたら、彼女の生涯で最後の人工島での授業かもしれない。
この人工島という隔離された環境、政府管制課の監視下、本土での教職など。再度が困難な例を挙げれば、両手ではとても数え切れないだろう。
それでも水島は滞りなくチョークで繋ぎ、平常心を保ったまま授業を展開する。
「ペガスス座アルファ、ベータ、ガンマ、そしてアンドロメダ座のアルファ星。それぞれの別称だとマルカブ、シェアト、アルゲニブ、アルフェラッツ。これら四つの恒星を結ぶと……秋の四辺形です。夜になるとこの島の天頂にも星々が煌めくんだよね? 時期的にはまだ大丈夫だと思うので、実際に観測してみるのも良いかも知れませんね」
最後だからと特別意気込むことなく、あくまで普通の授業であろうと心掛ける。教師の私情をなるべく生徒たちの授業にまで持ち込まない、それが彼女の矜恃の一つだ。
「んー秋の星って他の時期よりも等星……明るさでちょっと劣るし、街灯とかがいっぱいあると見辛いんだけど、個人的には夜空が落ち着いて見えて好きなんだよね。いやなんだろうな……その落ち着いたなかでの星々の輝きに趣きがあるというかなんというか。でも、こういうのって人それぞれの感想があるからなー……上手く伝えたいんだけど」
天文の魅力は個人の感性に依存する。
星一つに歴史を紐解いた存在意義を見出す人もいれば、夜に曇っていないと大体見ることが可能なただの光点とする人もいる。どちらも間違っていないし、それくらい身近なモノだという証でもある。
だからこそ説明が難しい。
当たり前を深掘りし、言語化するのは却って複雑。
そこに個人の感受性を絡めると尚更だろう。
見て観る景色の景趣と色彩の視点が異なるからだ。
「あの……」
「あっ、はいっ。なんですかっ?」
苑士郎がやや遠慮がちに手を挙げる。
午前中は主に墨花がたくさん質問していたからこそ、人工島の授業の名目が保たれていたと言ってもいい。けれどその彼女がトリノの介抱のためにあいにく不在で、初来島の水島にどう接したら良いのか推し量る生徒ばかりのせいで、ずっと独り語りの状況に陥りかけていた。生徒数は減り、ギクシャクとした沈黙の時間が増加する。
だから。代替というのは厳かだけど、苑士郎が墨花と真似たような役割を担おうと意思を示す。そんな光景に心なしか水島の瞳孔が拡大し、変光星のようにうらうらと輝く。
「あー……いや、なんつったら良いんだか……」
「なんでも大丈夫だよ、さあさあっ」
手を挙げたが良いものの、何を述べるかまでは考えていなかった。見切り発車を悔いつつ、引くに引けず、仕方なく即興で思考を無理に働かせる。
「……ペガススとペガサスって、何が違う?」
「えっ?」
あまりにも初歩的で、そもそも星座とも関連があるギリギリの質問に、水島も一瞬だけ判断を迷う。周りの生徒……主に雁行から苦笑いが響く。だけど星々には伝承や神話などのモチーフがあって、国ごとの定義や知名度、発音による差異も確かにあるなと思い直す。
「ああ、意味はおんなじだよ。これは英語読みとラテン語読みの違いだね。こうした例は……天文分野のテストにはほぼ必ずと言っていいほど出題される偉人、四十八星座を作成したプトレマイオスにも該当するかな。昔は英語表記のトレミーがよく使われていたりして、今でも併記されたりするもんね」
「へぇー……」
苑士郎は感慨なさげに頷く。
それは水島からの返答に興味がないというよりも、つまらない質問に返答を求めてしまったことを申し訳ないとする意味合いの方が強い。
水島もそうなのかなと予想は立つ。
だけど思いの外、悪い質問でもなかったよと微笑む。
「ふふっ。でもね、こういう機微の違和感の積み重ねが、星をもっと追求するきっかけになったりするんだよ……ううん、星だけじゃないね。例えば……秋だけにスポーツや芸術に音楽、異郷の遠景から舞い散る葉っぱ、それでなにより人間関係。こんな些細な出来事に、人生に関わること全て、たくさんの疑問によって突き詰め捜すようになると、私は思う。どうしてこうなるんだろう、なんでこんなことになるんだろう、そんな体験をみんなにいっぱい知って欲しいな」
無知とは必然として遭遇する。
それは分野や工程に社会、挙句は世界なんていう大きな一括りであったり、追及しようと試みた先にある精緻な技術やひらめきの元素であったり、もっと分かりやすいところで言えば相手の気持ち。
「スポーツっ! わたし大好きですっ!」
「おお、元気いっぱいな子だね……ナイス心意気! まあ先生はそこまでスポーツ得意じゃないんですけど……どうしてもすぐバテちゃうんだよね……あはは——」
意気揚々と挙手した椎に、水島はグッドサインと自虐を送る。ついさっき、ちょっと走って言葉もままならない状態になってしまったことを思い返しながら。
「——……と、まあこんな偉そうなことを言う先生も、知らないこと、苦手なことでいっぱいです。それこそ、知らないことすら知らない事象もあるんじゃないかな? 実際、生徒たちの気持ちも全部は解らない……テレパシーとか使えないしね? でもその過程は決して無意味じゃない。みんなのありとあらゆる育みは、望んだ通りでも望んだ通りじゃなくても、必ず何かに、誰かに、繋がっているはずですよ」
目元を細め、彼ら彼女らの将来をぼんやりと祈る。
本土と人工島の隔たりは明確にある。
生き方も変わってしまうものかもしれないとも思う。
だけどどの子も、未知を知ろうとする人間。
そこは誰しも、何かしらで、辛うじてでも共通する。
水島は内心でひっそりと願う。
みんなにも彼女以上の幸せが訪れんことを。
そうして、本日最後の授業が無垢の静謐のまま終わる。




