3 水平線の愛称
連絡室を後にした千尋は、このまま学校にも、自室のある寮にも帰る気分になれなくて、近辺に設置されている庇付きのウッドベンチに腰掛ける。そこからの景色は同じく木製の丸柵があって、その先には水災防止のコンクリートブロックを色濃くさせる緩やかな海面が広がっている。あんまり太陽の照り返しは無いけど、代わりに青空の模様が良く反映されている。この色合いを一体なんと呼称していたか、ちゃんと分かっているのにぼんやりと考えている。黄昏ていると表現しても良いかもしれない。
「……やっぱり、ここに居た」
「どうしたの? この辺に来る予定は無いはずだよね?」
「まあね。家族と連絡を取った後、大体千尋はこのベンチで寛いでるのを知ってるから、あまり遅くなり過ぎないようにって伝えに来た」
「うん、でもなんで小春が……いや、まあいいか。晩御飯の時間までには帰るよ、せっかく作ってくれたのに冷めると申し訳ないし——」
背後から声を掛けてきた小春の方に体勢をなおりながら、仰ぎ向かって応える。千尋と同じく十五歳となった彼女は、スカートバージョンのブレザー制服を着て、両手を後ろ手に組み佇み俯瞰したまま、それなら問題ないと口角を上げる。
ブラウンのボブヘアーはセミロングにまで伸びて、マンマルとした顔つきは成長に合わせてシャープな輪郭に変化。身長が高くなったのはもちろんのこと、女性的な骨格スタイルになる。
お互いに第二次性徴期を迎え、いわゆる思春期の真っ只中。難しい年頃の今でも、多少の線引きが明確になったことを除けば、本物の家族よりも近しい関係なのには変わりない。
「——座る?」
「いやいいよ。すぐ戻るし」
「そう……」
「……どうだった、千尋の家族は?」
「うん、元気そうにしてた。父さんは用事で来られなかったけど、母さんと妹と弟が居たよ。あと日帰りで親戚の集まりで帰省したときに父さんが焼肉の幹事を張り切ってたのに、肝心の肉を買い忘れた話とか、妹が中学に上がる前の見学に行った話とか、弟の校外学習の話とか、色々聴いた」
千尋は基本聴き手に回ることが多い。
だから自然と望仁家のイベントを伝え聴くことになる。
逆にあまり、島の事情を話すことはない。
「そっか……千尋は家族から愛されてるね」
「えっと、いきなりどうしたの?」
「だってそうでしょ? こうして毎月決まった日に遠くの家族と連絡を取り合い続けているのって、千尋の家くらいなものだよ。私の家族は世界中を転々としてるらしいから、連絡を取るなんて稀だし……音信不通の子だって居るんだから」
「……そうだね。気に掛けて貰えるだけでも、珍しいかもしれないね。ここでは」
連絡室を利用する子は年月の流れと共に減少傾向にある。
それは年齢的なものよりは、家族側の慣れや感情が原因だとされる。
千尋を含め、なかなか家族の愛情というものを肌で感じていない子どもの方からコンタクトを取ろうとするのは難しく、どうしても遠慮がちになってしまう。ようするに相手家族側への他力本願で成り立っていた。
だから島の向こうからの連絡が途絶えるとそのままになってしまいがちで、千尋とその家族のように定期的な面会を怠らないのは希少といえる。本人はわざわざ口にしないけど、断絶状態にある子もいるのは事実だ。
「もしかして千尋はさ、この島から出て行きたいとか考えてる?」
「なんでそんな……——」
「——家族と暮らしたいなー……とか、考えてもおかしくないなって思ったから。少なくとも私は……ゲームをしながらとかで、いつも千尋を介して話を聴くだけなんだけど、羨ましく思うしね」
小春が訊ねたことを、千尋が考えなかった日はない。
だからこそこうして、遠く水平線上へと続く海面を毎回眺めに来ているんだという自覚もある。
だけどとっくの昔に、その答えは決まっている。
「まあ、暮らしてみたくないわけじゃないけど……意味もなく出て行こうとは思わない。そもそも外出なんて許す環境下じゃないし……ソフィアのことを忘れてしまいそうで……嫌だ」
「うん……良かった、なんて言っていいのか分からないけど、少し安心した」
「そもそもここで暮らすみんなを裏切りたくないし、もちろん良いことばかりじゃないけど、この人工の島が僕の家……みたいなところもあるしね?」
「家……か、確かにそうかも。赤ちゃんの頃からここで過ごしてるんだもんね」
千尋や小春たちは赤子のときに、この人工の孤島へと連れられ、十五年もの歳月を一度も離島することなく居住生活を送っている。家というかもう当たり前の概念として、人工島に暮らすことが根付いているといえる。
「あっでも……いや、なんでもない」
「……それ、凄い気になるやつなんだけど?」
「他愛のないことだよ、海が綺麗だなって」
「……コバルトブルー、だね」
「……うん」
最初に海のことをそう呼んだのはソフィアだ。
そのソフィアは、五年前からいない。
生きているのか死んでいるのかすら不明なまま、人工島から姿を消した彼女。
幾つもの共通点を持つ子たちが囚われた中で、ある意味でソフィアが一抜けてしまっている。