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閉塞の檻のなかで~随筆集~

作者: エドガー・サンポー

『せかされる自己』平成29年4月4日


 思えば私は、今まであまり人から褒められたことがない気がする。それでも子供のうちはただのほほんと生きていればよかった。悩むことなんてほとんどなかったから。だが今は違う。私は過去の反動で、恐ろしいほどの承認欲求と、自己の確立欲求を表している。自分とはなにか?自分ができることはなにか?自分を認めてほしい。

 このような欲求は、私を強迫的に追い込む。ただでさえ神経症気質なのに、追い打ちをかけるように迫ってくる。賢くなければならない。人と違わなければならない。この強迫観念に追い立てられ私は毎日を生き急いでいる。おかげでどれもこれも中途半端だ。これじゃ満たされそうもない。


『街の雑踏、私は独り』平成29年4月23日


 街には沢山の人間が溢れている。どこへ行っても人の流れは止まらない。私は孤独だった。こんなにも多くの人間がいるのに、何故自分は独りっきりなのか、寂しさと悔しさが募る。そして、どうせ独りなら周りにいる人間全員消えてしまえばいいと思ってしまう。

 人がいるから寂しいし、悔しい。すぐ近くに無数の人間がいるのに、ガラス張りにされていて全く手が届かない感覚。だからいっそのことみんないなくなればいい。自分しかいない世界なら、諦めがつくだろう。

 街の雑踏のなかで、私はこんなことを思っているのであった。


『人生というトートロジー』平成29年5月15日


 よく、悩みなどを他者に吐露することによって、心がすっきりするなどという話を聞くが、必ずしもそうはならない。確かに、自分の内面に溜まっているものを吐き出すことで、心が多少軽くなることはあるが、先の見えない、見通しの立たない物事については、語ったとしてもそれに対する有効な答えが見つからなければ、不快な気分が増幅されるだけである。

 内気で後ろ向きな性格を変えたい、そのためにはどうしたらいいのか。それは、環境を変えることだ。かわいい女の子に好かれればきっと今より明るく前向きな性格になれるだろう。しかし、そんな都合の良い女の子など存在しない。まず明るく前向きな性格にならなければかわいい女の子に好かれはしない。

 しかし、明るく前向きな性格になるためにはかわいい女の子に好かれることが必要で……。という風な脱出できない悪循環に苦しめられている場合、いくら心情を吐き出してもすっきりなどするはずがない。むしろ自分も聞き手もこのどうしようのなさに嫌気が差すだろう。つまり、自分を変えるためには環境を変える必要があるが、環境を変えるには自分を変えなければならないという同語反復を吐き出したところで負の効果しか生まれないのである。


『躁うつ的日常』平成29年5月20日


 カラオケ行ったり、映画観たり、友だちと飯食ったりして、一時的に不安がなくなり、憂鬱な気持ちもなくなるが、それはある種の躁状態で、それが終わるとすぐに鬱に戻る。前はこの躁の持続時間が数日間くらいはあった。楽しかった余韻が数日は続いた。しかし、今はもう一日経てばいつもの状態に逆戻り。


『動きたくても動けないもどかしさ』平成29年5月26日


 俺は、既に1年近く引きこもっているのに、未だに現実への期待がなくならない。何かきっかけさえあれば人生を逆転できる、かつてのように青春を謳歌できる、と半ば本気で思っているのだ。それは、俺の人生経験のなさ、言い換えれば失敗経験のなさが原因だろう。あらゆる手を尽くして、精一杯頑張った結果、欲しかったものが得られなかったとしたら、もはや現実なんてものに期待するはずがなく、ひたすらに絶望しているだろう。学習性無気力なんていう言葉があるが、まさにこれにあたる。

 しかし、俺の場合そもそも頑張ったという経験がなく、挫折を味わったこともないため、下手に現実への未練が残っているというわけだ。ところが厄介なのが、行動力が絶望的にないため、頭のなかで物事が完結してしまう。なにか行動を起こしたいと思っても、なかなか実行に移すことができないのだ。頭のなかであれこれとシミュレーションを重ねるだけで、結局動くことができない。それが俺のきわめて厄介な部分である。そして、動きたくても動けないというもどかしさのお陰でだんだんと精神が荒んでいき、ますます動けなくなるという悪循環が生まれる。



『好きな女の子ができた』平成30年7月9日


 好きな女の子ができた。中学生以来の恋だ。俺が待ち望んでいた展開がようやくやってきたのだ。しかし、俺の不安定な心は相変わらずだ。むしろますます安定を欠いている気さえする。恋をしていると楽しいし、充実感が生まれる。それは嘘ではなく本当にそうなっていると確信している。それなのに、何故俺の心は安定しないのだろうか。

 それは、根本的には俺は何も変わっていないからだ。好きな子ができたからといって、その子を彼女にできたわけでもなければ、デートに行けたわけでもない。ラインで雑談をするだけが現状だ。それだけでも今までと比べれば喜ぶべきなのだろうが、俺は一時的には喜べても、基本的には気分が沈んだままだ。俺の人生全体を良い意味でひっくり返すような強い力動ではないということだろう。俺の人生を根本的に上向かせていくには、やはり彼女が出来なければならない。

 しかし、よくよく考えてみると、俺の願望は際限がない。例え彼女ができたとして、本当にそれで満足できるのか。さらなる飛躍を求めるようになるのではないか。そもそも、少し前までの俺は彼女ができなければ満足できなかったわけではなかったはずだ。前は友人ができればいいと思っていたのに、いつの間にか彼女にまで飛躍している。どこが終着点なのかがまるで分からない。終わりのないマラソンを続けているような感覚。これを打破する方法を俺はまだ知らない。




平成29年から30年にかけてしたためた当時の私の気持ちを、「閉塞感」というテーマでまとめました。当時の心情を思い返して懐かしく思うと同時に、今の気持ちにも通ずるものがあり、自分はまだこの「閉塞感」というテーマを克服できていないのだなと思う次第です。

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