悪戯ごころ
座敷は盛り上がっていた。剣道部のOBが久々に集まり、飲み会を開いているのだ。今ではすっかり禿げ上がり、腹の出たオジサンばかりだが、その昔は強豪校の選手として名をはせていた。中にはインターハイにだって出場した選手もいた。それが今ではご覧のあり様で、お互いたお互いを見て、俺達も老けたな、としみじみ言い合ったりした。
お酒が進むにつれて、元剣道部員たちは若かりし頃に戻っていった。面の真似をして奇声を発するやつもいれば、当時のお調子者が気の弱かった部員をからかって笑いを取っていた。
店の扉が開いて男が入ってきた。男は座敷席の方にちらっと目をやると眉をひそめた。小さく舌打ちをして、カウンター席に座り、店員の持ってきたおしぼりで顔を拭いた。
男がメニューを眺めていると、トイレ帰りの元剣道部員が顔を覗き込こまれた。真っ赤な顔をして、半分座った目でまじまじと見られたあと、声をかけられた。
「あんた、もしかして、S校にいなかった?」
男は頷いた。
「やっぱり! どっかで見た事あると思ったんだよ! 憶えてないかな、二十年前の県大会の決勝戦。あの時の対戦相手がうちの選手で、あんたに負けたんだよ」
ふらつく足で座敷へいくと、すぐに仲間を連れて戻ってきた。
「ほら、あの時の選手!」
困惑する男をよそに、偶然だなと口々に言いあっている。
「そんなところに居ないで、こっちにきて一緒に飲もうよ!」
腕を掴まれた男は何かを言おうとしたが、すぐに思い直したようで大人しく従った。
座敷の真ん中に座らされた男は、質問攻めに会った。曖昧な返事を返しつつ、注がれるビールを遠慮なく飲んだ。
男がしばらくそうしていると、テーブルの向こうが騒がしくなった。どうやら誰かが遅れてやってきたようだ。彼らのはしゃぎようから、このメンバーの中心人物なのかもしれない。
持て囃されながら連れてこられたのは、角刈りで筋肉質のいかめしい男だった。
「ほら、あの時の決勝相手だよ。たまたま居合わせたんで、誘ったんだ!」
角刈りの男は顔をしかめると、ぼそりと言った。
「追い出せよ」
その場が凍った。
「いや……勿論いろいろ思う所があるのは分かるけどさ、もう過去の話だし、それに試合じゃん。一緒に飲んだって罰は当たらないでしょ」
「何か勘違いしているようだが、こいつはあの時の相手じゃない、双子の兄貴の方だ。あの方は、昨年亡くなっている」
男に注目が集まった。
男は動じる気配もなくコップに残ったビールを飲み干すと立ち上がった。
「ま、そういうことだ」
「あんた、騙したのか?」
元剣道部員がいった。
「人聞きが悪いな。俺はS高出身かと聞かれたから頷いただけだ。勝手に勘違いしたのはお前らの方さ。それじゃあな。タダ酒、美味しかったよ」
静まりかえった座敷の中を、男は堂々と横切り、そのまま靴を履いて店の外へいってしまった。
弟の一周忌を前に、珍しく線香の一つでもあげにいこうと思い立ったシュウサクは、午後の外回りを急いで片付けるとその足で弟夫婦の家へ向かった。
平日の午後である、義妹も仕事で家を留守にしているかもしれない。その時はそのまま帰ろうとと思っていたシュウサクであったが、玄関は開いていた。
声をかけると、奥から義妹が出てきてシュウサクを仏壇まで案内してくれた。
微笑んだ弟の写真に線香をあげ、手を合わせる。
たまには兄貴らしく話しかけてみたいが、何も思い浮かばない。諦めてこちらは何とかやっているよとだけ呟くと、おまけで鐘を鳴らした。
帰りがけに義妹から箱を渡された。了承を取って開けてみると、県大会のトロフィーが入っていた。
「こういうのは、持つべき人が持つべきだって、夫がよく言ってました。どうか受け取ってください」
シュウサクは懐かしさに襲われた。
小さな頃からシュウサクは双子の弟と一緒に剣道をやらさらた。父親がやってたせいで、やりたくもないのに巻き込まれた形だ。
すぐに手足は豆だらけになり、やめたいと泣きべそ書いていたシュウサクだったが、父親は許してくれなかった。出したくもない大声を張り上げながら竹刀を振る毎日だ。そんなことよりもゲームをしたかったシュウサクは、あれこれ理由をつけては練習をサボろうと画策した。しかしそんな浅知恵はすぐに見抜かれて、竹刀を倍振らされることになった。
そんなこんなをしているうちに、不本意ながらシュウサクの実力は上がっていった。地元の大会程度なら、手を抜いたって優勝できるほどになっていた。
シュウサクの弟にも実力はあった。たまの真剣試合で、抜かれたことは一度や二度ではなかった。ただ、精神的な弱さを抱えていた。引っ込み思案の弟は、ここぞという時に怖気づき、上手く振る舞えないのだ。
自分では情けない兄貴だと自覚しながらも、弟はそんなシュウサクを頼ってくれた。内心では困り切りながら、可愛い弟のために慣れない言葉をかけてやったりした。
そんなシュウサクは高校進学とともに転機を迎えた。剣道をやっていたというだけで加点された内申点をいいことに、弟と同じ高校へ入ったシュウサクは、すぐに剣道部を退部した。親や先生は反対してきたが、俺の人生だろと言い張って突っぱねた。
あらゆる大人がシュウサクに冷たく当たる中、意外なことに弟だけはシュウサクの肩を持ってくれた。それどころか、何かにつけてシュウサクを頼ってくるので、退部した剣道部へしぶしぶ顔を出したりした。
シュウサクはよじれて裏返ったペナントを戻した。弟の名前がマジックで消され、代わりに自分の名前が書いてあった。
あんなことをしたのは、何故だったのだろう……
高校二年の夏、日差しが強く、焼けつくような日だった。体育館は蒸し暑く、シュウサクは汗をダラダラ垂らしながら弟の試合を観戦していた。弟からどうしても応援に来てくれと頼まれ断り切れなかった。
弟の調子は悪くなかった。反応は鋭く、太刀筋にぶれもない。ただ一点、気負いが感じられた。
あっという間に勝ち進み、残るは決勝戦だけとなった。
その時、何やらざわめきが広がった。どうしたのだろうと見ていると、部員が二階席のシュウサクの所までやって来た。突然剣道を辞めたシュウサクを部員はまだ許していなかった。こちらに目を合わせようとはせず、苦虫を噛みつぶしたように弟を知らないかといった。空気を吸ってくると外にいったきり、戻ってこないのだという。
シュウサクはため息をつくと、席を立った。
方々探し回って、体育館の裏の目立たない日陰で膝を抱えている弟を見つけた。小手すら外していなかった。
シュウサクは肩を叩くと、隣に座った。
「こんなことしてたって、仕方が無いだろ。あと一試合だけなんだ、頑張れよ」
「でも……怖いんだ……このまま負けちゃったら、周りにどういう顔をすればいいのか……」
「勝負なんて時の運だ、気にするなよ」
「でも……」
目の前の木にセミが飛んできて、大声で鳴きだした。さっきからアナウンスが入り、弟の名前を叫んでいた。時間が無かった。
小さく鼻で笑ったシュウサクは、何を思ったか弟の防具を解き始めた。
いきなりの事に驚く弟に、服も脱げよといって急かした。
二人の体型は変わらない。身長だってピッタリ一緒だ。
最後に手拭いを巻き、弟に化けたシュウサクは、ここで大人しくしていろと言い残して体育館へ戻っていった。
群がってくる部員に言葉少なに返事をすると、ボロがでないうちに面をかぶった。
久しぶりの試合だった。面越しに伝わる気迫も、荒い息遣いも、竹刀を握る手の微かな震えも、何もかもが懐かしかった。
剣道を辞めてからというもの、まともな練習をすることはなくなったが、しかし竹刀だけはこっそり降り続けていた。習慣になってしまっているせいか、そうしないと落ち着かないのだ。
奇声と共に相手が打ち込んできた。シュウサクはすんでの所でかわした。危なかった。自分でも分かるくらい反射神経が鈍っている。しかし、そんなことで臆するわけにもいなかった。なんたって、弟の名誉が掛っているのだ。
相手も必死なら、シュウサクも必死だった。そのうち息が上がり始めた。長期戦に持ち込まれたら終わりだ。
そう思った瞬間、体が動いた。相手の打ちこみに合わせて、シュウサクは叫んで後ろへ飛びのいた。旗が上がる。引き面が決まったのだ。
礼をし、部員のもとへ戻ったシュウサクは、小便が漏れそうだと焦るふりをした。防具を取ると、一目散に弟の所へ行き、急いで着替えた。
「お兄さんも、無茶をなさるんですね」
義妹がいった。
「知っていたんですか」
「ええ、いつか主人が話してくれたんです」
「馬鹿なことをしましたよ。かえってあいつに、重荷でも背負わせてしまったかと考えていたんですが」
「そんなことありませんよ。真面目なあの人には珍しく、 いたずらっ子みたいに目を輝かせていましたから。あの経験があったから、今の自分がいるんだっていってました」
「なら良かったですが」
「それ、受け取ってもらえます?」
「喜んで」
弟はそれから努力を重ねた。次の年の夏には、はっきりと自分には手が出ないと思えるほど実力をつけていた。
弟は大学を出ると警察官になった。そして昨年、とある事件に巻き込まれて殉教した。子供を助けようとしての事だ。弟らしい最後だった。
シュウサクは義妹と分かれると、会社へと車を走らせた。しかし助手席のトロフィーが気になってなかなか運転に集中できなかった。
シュウサクはコンビニに入り、少し休むことにした。
あんなことをしたのは、何故だったのだろう……
何度も自分自身に聞き返した問いかけだ。しかし、いまだに答えは出ない。
弟の名誉を守ろうとしたのは確かだが、それ以外にもあったのだ。ちょっとした悪戯ごころだったのかもしれない、自分を軽蔑してくる人間たちを小馬鹿にしてやろうと思ったのかもしれない、それとも単純に腕試しをしたかったのかもしれない。
それはもうすべて過去の事で、シュウサクには分かりそうになかった。
ただ、当時を知っている人間と、話してあってみたいと思った。居酒屋にいた人たちともう一度出会う事があったら、今度は意地悪をしないで、素直に心を開こうと、シュウサクは思った。