6話
河原町まで歩くのも悪くない。京都は景観に気をかけているからか、散歩するのが心地よい。三十分ほどある距離も、ここでなら歩いていこうという気になってくる。
喉が渇いてコンビニに入って、小さな缶コーヒーを一つ手でブラブラと掴みながら歩いてゆく。
鴨川沿いの道を歩くと、車の走る音と、川の流れの音が混じって、この通り独特の雰囲気を醸し出す。
昨日までの俺にはそう感じていた。
「ははは」
思わず声が漏れる。この通りには、たくさんの妖怪が渡っていた、昼は人間が大勢通っていた道を妖怪が渡っている。人としての姿も見えない、ゆらゆらと漂っているものたちがたくさん。
恐怖よりも滑稽さが経って思わずニヤつきながら歩いていく。この町はここまでおかしい町だったのか。
自分が毎日渡っているこの道にはここまで陽気なことになっていたのかと驚きを隠せなかった。
三条大橋を渡る頃には、妖怪と人間の比率は逆転していた。
明日が月曜日であるから、神様の数は少ない。酔いつぶれるほどまで飲まず、しかし、まだ休日を楽しんでいたいと彷徨う人々で溢れる。
「こうなると、飲み屋よりもパスタ屋とかラーメン屋の方が賑わうんだよなぁ」
知ったかぶりの独り言を呟いて、自分の勤務先まで向かう。
自分が勤めている店に、客として入店するというのは、なんとも言えぬ緊張感がある。いつもと違う入り口から入るのは気恥ずかしい。
扉を開く。ホール担当のアルバイトが条件反射で「いらっしゃいませー!」と叫ぶ。それに呼応するように、キッチンからも「しゃーもせー」と聞こえる。坂上の声だ。
「わかるもんだな。ちゃんと言ってないの」
「あっ! 烏丸先輩じゃないですか!」
ホール担当である秋山さんが気づいて思わず大声で反応した。俺はシーッと指で口の前に出すジェスチャーをする。
「あれ? 先輩、どうしたんすか。今日有給もらったでしょうに」
この店は、オープンキッチンになっている。秋山さんの声に反応して坂上が目を丸くして覗き込んできた。
「暇でな。普通に客として遊びにきた」
「でしたら、こちらに」
秋山さんがカウンター席に案内する。それに従って、座る。改めてメニュー表を客の目線で見ているのもなんだか新鮮だった。
「飲み物はコーラでいいっすか?」
「いや、俺に決めさせろよ」
「先輩、酒飲まないじゃないですか」
坂上がキッチンからケラケラと笑う。今日は客も少なく、うちの店は元々カウンターで客と話すことも多い店なので、誰からも冷たい目で見られることはないのだが、それにしても坂上はサボるために俺を口実に使っているとしか思えない。
「えっと、とりあえずコーラと、フライドポテトと、シーザーサラダ」
「結局コーラじゃないっすか」
秋山さんがオーダーを打ち込む。坂上は調理をしに奥へ引っ込んだ。
「コーラになります」
先に用意してくれていた秋山さんがコーラだけを渡してくれる。
「ありがとう」
コーラを飲みながら、何気なく店を見渡す。
酒は飲まないが、この居酒屋の雰囲気が好きなのだ。皆がゲラゲラと笑い、酒や食事を楽しむ。丁寧に美味しいご飯を味わうレストランもいいが、店員もお客様も、楽しくはしゃいでいる空間である居酒屋が好きで、働き始めたのだ。
「まっ、働いてみたら神様だらけの地獄だったけど」
過去の面倒な神様を思い出して思わずため息を吐く。
「はい。お先に、シーザーサラダになります」
サラダをつまみながら、働いているみんなをキョロキョロとみる。
「あら? 勇ちゃんじゃないの」
背後から声がする。秋山さんが声の主を見て「いらっしゃいませ!」と大きく叫んだ。
振り返ると、常連の女性、酒井さんがこちらを見ていた。
「お隣いい?」
「えぇ、大丈夫ですよ。酒井さん」
「ありがと」
空いている自分の隣に酒井さんが座る。彼女の元に駆け寄った秋山さんがオーダー用の機械を携えて尋ねる。
「ご注文は?」
「キープしている日本酒と、煮タマゴを一つ。お願い」
「ありがとうございます!」
秋山さんはそのままキッチンに注文を伝えて、その後すぐに、酒井さんの日本酒を瓶と小さなコップを置かれる。
「へっへー、お酒―」
酒を受け取ってコップに移してすぐにグビっと飲む。
酒井さんは入店時こそクールな女性なのだが、酒が来てすぐとろーんとした気の抜けた表情になってしまう。そのギャップに坂上なんかはもう虜になっているのだ。
「酒井さん! 煮タマゴお待ち! 後、サービスでお魚の刺身です」
「ありがとー」
坂上がカウンターから直接酒井さんのところに料理を置く。
「おい。俺のはフライドポテトは?」
「先輩のは後っす」
「ダメよ。坂上くん。お客さんは平等に扱わないと」
「すんません。先輩、すぐお出しするんで待っててください」
「あぁ。頼むぞ」
これ以上ポテトなしのコーラをチビチビ飲むのは耐えられなかったのだ。
そうだ。ここはチャンスだ。半妖として生き残るためにも、より親密な友だちを増やす必要がある。酒井さんならば、顔見知りではあるし、このまま交友関係を深めることができるはずだ。
「酒井さん」
「なあに?」
俺は酒井さんの方をじっと見る。俺が見てない間に酒瓶の中身が半分ぐらい無くなっている。
酒井さんもこちらを見る。
俺は息を飲んだ。この人、こうやって近くで見ると美人なのだが、それよりも、額の方に目がいった。
「あら、勇ちゃん。もしかして……」
酒井さんの声は俺には届かなかった。
角。折れた角。奈良で見たことがある。生え代わりの時期にぽっきりと折れて根元だけある角。それが酒井さんの額にあるように見えるのだ。
「あらあらまぁまぁ、勇ちゃん。どこで化かされたの?」
妖艶な声で首を傾げる酒井さんと俺の目はあっていない。
「はい。フライドポテトお待ちです!」
見つめ合っている僕と酒井さんの間に割って入って秋山さんがフライドポテトを置いていく。
「烏丸先輩? いくら常連だからって口説こうとするのはダメですよ?」
鼻息を荒くして注意をしてくる秋山。
その瞬間に目を奪われていた角から目線を離し、秋山の方を見る。
「いや、口説くとかではないよ」
「そうやねぇ。目も見てくれん人に求愛されてもなぁ」
ハハッ。と笑いながら酒井さんはさらにカップに日本酒を注ぐ。
秋山さんが仕事に戻る。俺はなるべく角を見ないように、逃げ道としてコーラをチビチビと飲む。
端から机をとんとんと叩く音が聞こえる。
酒井さんが叩いていることに気付き、恐る恐る彼女の顔を見る。
彼女はニヤリとした表情でこちらを見ていた。彼女はこちらにズズイっと近づいて耳打ちをしてくる。
「随分面白いことなっとるやないの。勇ちゃん。くすっ」
耳元で囁かれて俺は気が気ではなく、逃げるように身体をのけ反らした。
「なんやの? さっきは口説こうとしたのに、肉食系はお嫌い?」
「あっ、いえ、そういうわけではなく」
肉食系と、その前髪からちらりと見える折れた角を見てから言われると、性的なものではなく、生物的に肉食なのではないかと勘ぐってしまう。
「なぁ、あんさんの話。もうちょい詳しく聞きたいんやけど、二軒目、はしごせえへん? 奢ったるで?」
気づけば酒井さんの持つ瓶は空になっていた。
俺はまだ常連の麗しい女性が幽界の者である事実を受け止めきれず。手にあるフライドポテトをずっと持ったままで、塩が手に染みて、手がヒリヒリとする。まるで何かに蝕まれているかのように、俺は彼女の妖艶な目に吸い込まれてゆく。
「えっと……。僕飲めないんですが、よろしくお願いします」