3話
「先輩! 先輩!」
ジョロジョロとうなる川のせせらぎと、知った声に呼ばれ、目を開ける。
そこには坂上の顏があった。彼は酷く慌てているようであった。
「先輩! ようやっと起きた!」
「え? ん? 何?」
うつらうつらとしながら周りを見ると、野次馬が遠目に俺と坂上を囲っていた。
ほとんどが若い男女だ。カジュアルな恰好に身を包み、俺に対してなぜかスマートフォンを向けている。
「見世物じゃないですよ! 去った去った!」
坂上くんの怒鳴り声で何名かの男女は去ってゆく。俺はまだスマートフォンを向けられている。
「先輩、救急車呼びましょうか?」
「え? 何?」
ようやく意識がはっきりしてきて、坂上に返事をする。
今になって自分の服がずぶ濡れなのに気づく。
「俺がここ通ったら、先輩が鴨川に浸かりながら眠っていたんですもん。服も昨日と一緒だし、なんか身体も冷たいし」
そこで気づいた。ここは昨日もいた鴨川だ。だとしたら、あれは夢。でも、こけて川に堕ちたのは本当なのだろうか。身体がびしょぬれであった。
心配する坂上をよそに俺はゆっくりと立ち上がる。不思議と身体に何か不健康な印象を受けるものもない。寒いと言う感じもない。今日が雲一つない天気だからであろうか。
「救急車は大丈夫だ。この通り元気だし」
「ほ、本当ですか? 一応病院行った方が――」
「なら、自分で病院まで行くよ。それより、お前も予定があって、ここら歩いていたんだろ。そっち行け。しっし」
俺は手首で振りながら、坂上を去らせる。野次馬たちも大事にならないとわかるとちりぢりに去っていった。俺は衣類を絞りながら、鴨川沿いの道を歩く。
快晴の鴨川沿いは川の音と、集まった人々の喧噪でとても賑わっていた。空を見ると、鷹と天狗が綺麗に上空を飛んでいる。
通りすぎる大学生カップル。犬を連れた主婦。ランニング中の中年男性。水場で遊ぶ河童、天狗、狐の尻尾が出ている人間。狸の尻尾が出ている人間。
思わず振り返る。本来ならいるはずのない者達とすれ違っている。それだと言うのにみんな何も気にせずに歩いている。自分だけが気づいていると言う状態に何か化かされているかのような気分になる。
思わず生唾を飲んで辺りを見渡す。やはり河童がいる。小豆洗いが鴨川で小豆を洗っている。あそこのOLなんかろくろっ首だ。
「見つけましたよ。烏丸さん」
声をかけられて、肩と叩かれる。叩かれた方へ顔を向けると、蛙の顔をしている男の顔が目の前にあり、俺は思わず、尻もちをついて倒れる。
何名かがこちらに振り返って怪訝そうに見つめていたが、俺の尻もちをついた姿を確認すると、また歩き始める。
俺が尻もちをついた瞬間を見ていたはずなのに、目の前の虫メガネで覗いた蛙みたいな大きい顏の男を見て驚かない。
「驚かせてすみません。立てますか?」
蛙男が手を差し伸べるので、俺は恐る恐る手に取る。ヌルっとしていて鳥肌が立った。
「信じられないでしょうが、私をそのまま見えているのは貴方だけです。恐らくですが」
「待って、説明してくれ。まだ、俺は夢を見ているのか?」
思いっきり頬を叩く。しかし、痛みだけで何も覚醒しない。目の前の蛙男は確かにいる。いや、痛みを伴う類の夢かもしれない。
「そうですね。現実を夢なのか。夢が現実なのか。そこを考えてしまうと永遠の疑問となり、少々SFっぽくなるので、考えないほうが良いかと。少々話しましょう」
蛙男は丁寧な口調で俺を誘導する。どうしていいかわからず、とりあえずくっついていく。濡れた靴からびちゃびちゃと音をなあrしていて、音だけで言えば自分の方がよほど蛙男と言う感じであった。
普通の人間のようなシャツとジーンズを着ていると言うのに顏と手足が蛙そのものである目の前の人間の後ろ姿はあまりにも滑稽だった。永遠に見ていられる滑稽さだった。
「ひとはず。ここに入りましょう」
濡れていた衣類が太陽の熱で乾く程度には歩いたであろう。少し足が疲れてきたタイミングで、出町柳のラーメン屋に辿りつく。
鴨町ラーメン。換気のために開けている窓からスープの匂いか、強烈な香りを纏った風が空気砲のように放たれている。
「入りましょう」
蛙男はさも当たり前のように扉を開けた。いらっしゃいませ! と声がして、俺もついていった。
「鴨町ラーメン二つ」
蛙男がそういうと、店主は返事をしてラーメンを作り始める。
店自体は数席あるカウンター式の狭い店である。亭主もベテラン感の出ている初老の男性であった。
狭い空間にこの匂い。鼻から来る刺激だけで食欲を一気に刺激するには十分であった。
俺の腹が鳴る。
「……俺にしか見えないんじゃないのか?」
「貴方には『はっきり』見えているんですよ。店主には、蛙顏の不細工な男にしか見えないでしょう」
顔を近づけて小さな声で話す蛙男。顏を近づけられるのも抵抗があるのだが、それでも聞かねばならぬと感じた。
「さて、貴方の話をしましょうか」
「あ、あぁ」
蛙男はお冷を口に流す。俺も喉が渇いたのでゴクリとお冷を飲む。
「単刀直入に言うと、貴方は『妖怪』になりました」
「はぁ……」
いまだ理解が追い付かず、困惑しながら声が漏れるのみであった。
「貴方は死にました。えぇ。ハッキリと。私のせいで溺死です」
「は、はい」
「人と妖怪が接触するのはなるべく避けねばならぬことなのです。こちら側が招きいれるようなことがない限り」
「けれど、俺は死んだ。ですよね?」
「はい。そうですね。我々妖怪が貴方のような方を妖怪にする場合はいわゆる『神隠し』なのですが、その場合も原則生きているんですが、烏丸さんの場合は、なんとも難しく、一応。死んだことをなかったことにして、妖怪にしたみたいなんですけど……」
「じゃあ、俺死んでいないんですか?」
「んー、これまた難しい。死んだ貴方を妖怪とすることで一命を取り留めているといいますか。半分妖怪と言いますか……。半分幽霊と言いますか」
「半分幽霊と言うのは?」
「まぁ、姿が見える幽霊ですね」
「つまり、どういうことなんでしょうか? 俺、人間に戻れますか?」
得も言われぬ不安感が募り、俺は仕事モードの口調で蛙男を急かした。人間に戻りたい理由を考えたが、はっきりとしたものはなかった。
しかし、それよりも、妖怪としての日々って言うものがわからないので、そちらに踏み込む勇気がなかったが故に早く人間に戻ってこんな面倒事を片付けたいと思うのが自然である。
「落ち着いてください。存外妖怪も悪くないですよ? 私もただの蛙から妖気にあてられてこの姿になった口ですが……」
この蛙。流暢に話すなぁ。という感想しか出てこなくなったタイミングでラーメンが出される。
「食べましょう」
蛙男は割りばしを割ってラーメンをすすり始める。俺も同じ動作をして啜る。初めて入った店なのだが、中々匂いがきつく、しかし、だからこその旨みが伝わってきて美味しい。
「お店で言うの、恥ずかしいのですが、私ね。この鴨町ラーメン。鴨で出汁取っていると思いこんでいたんですよ。わりと最近まで」
蛙男が思い出したように笑顔になり、語り始める。確かにこの獣臭さと誤解するほどの匂いはわからないこともない。坂上に嘘で言われたら信じてしまいそうではある。
「それでねぇ、私。いつも川で虐めてきていた鴨共を喰ってやるぜえ! と意気込んで通っていたのに、それが誤解だったので、恥ずかしくなり、少々足が遠のいていたのです。ですが、せっかくなのでまたここに来たと言うことです。どうです? 美味しいでしょう?」
大きな蛙の顏がニッコリとこちらに笑顔を向けてくる。本来の蛙ならしないであろうその表情に俺はさらに鳥肌が立った。ラーメンはうまかったのだが、食欲が少しずつ失せてゆく。
「ここに連れてきたのは、これからの貴方の生き方についてお教えしたかったのです。私もこのように、行きつけのラーメン屋がありますし、花子さまは、何やらテレビに齧りっぱなしだし。貴方はこれから『妖怪』になった事実を突きつけられることもあるでしょうが、普通に生きてください。貴方を死なせてしまった私のせめてもの謝罪です」
その後から、蛙男は何も言わなくなり、ラーメンをすすり続けた。話が脱線して、どうしたら人間になるか聞くことが出来ていないのだが、無心でラーメンを食べている蛙男にそれ以上追及することが出来なかった。仕方なくラーメンを啜る。夏の暑さとラーメンの熱さで発汗し、水を求め、店の水をガバガバと飲み、異様にうまいラーメンを汁ごと飲み干す頃には、腹の中は今からでも逆流しそうなほど詰まっていた。
「うっぷ」
「ははは。スープまで飲み干すほど気に入ってくださったならよかったです」
店を出て、蛙男は紳士的に笑う。
俺はその顏をなるべく見ないようにする。この状態でもう一度あの気味の悪い顏を見たら俺は確実に汚ゲロ様になってしまうと思ったのだ。
「腹ごなしに歩きながら、話しましょう」
蛙男はそういって歩き始める。俺は彼の横に並ぶように、今出川通を歩く。
「さて、続きを話しましょう」
「話長くないですか?」
「申し訳ない。私、簡潔に話すのがどうも苦手で」
髪などないと言うのに彼は照れくさそうに頭部をぬるりぬるりと掻く。
「おさらいとして、貴方は『妖怪』になりました」
「死んでいるけれど、生きているってことでしたっけ?」
「まぁ。そんなところです。いずれ実感するでしょう」
「人間にも貴方は貴方として見えていることでしょう。基本は。貴方がなんの努力もしなくても。そこは大きなアドバンテージなんですよ」
アドバンテージ。その言葉を言われても俺には奇妙なことばかりでまだ理解できていない。死んでいるけれど生きている。という意味も、半妖の意味も正直に言うと分かっていない。わかっているのは、この蛙男が気持ち悪いと言うことと、鴨町ラーメンが美味しかったと言うことだけだった。
「おや、蛙くんやないか。新人かい?」
京都大学の見える百万遍の辺りまで来た時に、コンビニから出てきた中年太りのおじさんに声をかけられる。蛙くん。というのはこの男のことだろうか。
「どうも平さん。彼はちょっと……」
「なんだい。訳アリかい?」
平さんと呼ばれた男は首を傾げながら俺をじろりと見る。どこにでもいそうな気の良さそうなおじさんだった。このような平凡な男が横にいることで蛙男がより一層、奇妙奇天烈なことになっており、俺は平さんよりも、蛙男のねっちょりとしている指を見てしまっていた。
「君……影があるが、薄い? 蛙くんこれは」
「えぇ、ちょうど貴方のような方と会わせたかったところです」
二人して俺を見る。蛙男は平さんに手を添えて俺に説明するように話す。
「紹介するよ。彼は平さん。君とほぼ同じ死んだ人だ」
よく見ると、平さんには影はなかった。