2話
これが地獄か。本当に地獄はあるんだな。しわくちゃの婆さんに服を脱がされながら呆然とそんなことを考えていた。
この感覚、風俗ではずれを引いた時のようだ。坂上が言っていたことなので実際はわからない。
「はい。では、この死に装束をしっかりと着なさい」
真っ裸にされても、なんとも言えぬ感情で死に装束を纏わされる。しわくちゃ婆さんの顏が自分の股間のすぐ近くにあることにも不思議なことに動揺できない。
「はい。着たね。じゃあそのままあっちの列に並んでね」
言われるがままに自分と同じような恰好で並んでいる人たちの後ろに並ぶ。待っている間、何もできないので、空を見る。着替えさせられている時は意識しなかったが、天井は空ではなく、何か、ごつごつした地面のようなものが見えた。それに何やら血なまぐさい。
あの地面の先は天国だろうか。本当に天国もあるのだろうか。
この長蛇の列が既にちょっとした地獄であった。遊ぶアプリもなにもなく、血や泥の匂いのする空気。全員同じ恰好なので、一か所を見ていると、気分がおかしくなりそうだった。
「次の方々どうぞ―」
丁寧な口調で話している男に誘導されて、自分を含んだ20人くらいが移動を始める。誘導をしている男は顔面が真っ青だった。疲れているとかではなく、本当に真っ青だった。
「はい。では、この川を渡ってください」
あとについて、ゆっくりと川を渡る。せっかく着せてもらったのに、ずぶぬれになる。川の感触は少しぬめっとしていて、気持ちとしては天津飯の餡たっぷりの風呂に浸かっているような気分になる。
ようやく向こう岸に渡ると、一人の男に服をまた奪われ、大木にびたーん!と叩いて引っかけた。
「ふむ……ん? ん? あれ?」
先ほどの婆さんの時は呆然としていた羞恥心が戻ってきて、股間を隠しながら、辺りをちらちらと見て男を待つ。男は何度も首を傾げてから怪訝な表情のまま死に装束を返してくれた。俺はすぐにそれを見に纏い直す。べたべたとして気持ちが悪い。
「すまんが、そのままあそこの列に並んでくれ、少し特殊なようだ」
男はそういって、また列に誘導された。その列に並んでしばらく経っただろう。腕時計も外されたせいで、時間がわからない。
前列に10人以下になる頃には、向かう場所が見えてくる。大きな建物だった。そこの入り口に不規則に一人ずつ入らされる。この感覚、覚えがある。
面接だ。就職活動をしていた時にあった。面接を待っている間のあのなんとも言えぬ気味の悪い感覚。緊張感。一人一人、まるでベルトコンベアに乗せられた製品のように、同じ動きで部屋に入り、同じ動作で出てくるあの作業。あれを思い出して、喉の辺りに妙なものが上ってくるような気分に陥り、軽く咳込む。
「はい。次、どうぞ」
次は真っ赤な顔の男性に促されて、私はその建物の扉の前に立った。
なんとなく、ノックを三回。向こうから返事はない。
「あっ、開けて大丈夫ですよ」
隣の真っ赤な人が優しく伝えてくれたので扉の取っ手を掴む。
「失礼します」
扉の中に入ると、とてつもなく広い空間だった。
「あぁ、貴方ですか。お待ちしておりました」
中に入ると、真っ赤な男と真っ青な男が二人、朗らかに話してきて、俺の左右に入り、誘導されて歩いてゆく。
「では、よろしくお願いします」
立ち止まったかと思うと、上から目線を感じて見上げると、大きな男と目があった。
「えっと…………」
「あっ、怖がらないでください。大丈夫です。貴方は例外なようなので」
「例外?」
「あぁー、やはり。状況を把握していらっしゃらない」
目の前の巨大な男はとても丁寧な言葉で語りかけてくる。俺はそれよりもこの50mはあるであろう巨漢から発せられる優しい爽やかな声に脳がバグを起こしたように戸惑う。
「あぁー。えっと、蛙男くん。証人としてまずここに」
「はい……」
部屋の隅から申し訳なさそうにヘコヘコとしながら男がやってくる。戸惑っていた俺はその男の姿を見て、また目を丸くする。
「あっ! 蛙男!」
「えぇ。あぁ。はい」
申し訳なさそうにヘコヘコと謝る蛙男。身長は俺と同じくらいの170後半身体付きは人間のそれだが、顏と手足が明らかに蛙。蛙である。
俺はそれでも状況が飲み込めず、巨漢と蛙男を交互に見守る。
「えっとですね……。まずはこれをご覧いただきましょうか」
巨漢がコホンと咳をすると、俺を誘導した真っ赤な男と真っ青な男が俺の身体全体写せるほどの大きな丸鏡を持ってきた。
その鏡をじっと見つめていると、映画館のスクリーンのように突然映像が始まる。
そこには河原で佇み、酔っぱらって蛙の鳴きまねをしてはしゃいでいる自分の姿が見える。
すると、川からゆっくりと、蛙男が現れる。そして、俺と、蛙男は目があって、蛙男が逃げる。俺が追いかけている。途中で足を滑らせて鴨川沿いを転がり、浅瀬のはずの川に落ちて、そのまま浮き上がってこなかった。
「これが、貴方の死因ですね」
「えっ」
「誠に申し訳ない」
蛙男が深々と頭を下げた。
「えーっと、ですね。烏丸勇仁さん。貴方は、こちらの蛙男くんが貴方の声に仲間と勘違いして覗き込んだタイミングで、目が合って、逃げている最中に幽界への入り口に堕ちてしまったと言うことで」
「えっと、それで……」
「うん。幽界への入り口に沈んで、溺死。それが君の死因だね」
「えーっと、すみません。つまり私は死んでしまったと。ここは本当に地獄ですか?」
自分で自分に指さしながら震えた声で言う。
「はい。そういうことです」
「……嘘でしょ」
不思議なことに絶望的状況なのに発狂することはなかった。というより、死んだという認識ができなかった。
「あー。でもね、烏丸くん。君は人間に戻れるよ。元は彼のせいだし」
申し訳なさそうに巨漢の男はハンカチで額を拭く。そのハンカチすら、俺よりも大きいのではと感じた。
「すみません……」
俺も巨漢の方も黙っていると、蛙男がまた申し訳そうに謝る。もはやそういう装置なのではないかと感じるほどに謝ってばかりだった。水飲み鳥みたいだ。
「つまり? 僕はどうなるんでしょう?」
「君をこれから帰すけど、普通の人間にはなれない。君はいわゆる『妖怪』になるんだ」
「は、はぁ……」
俺は口がぽっかりと空きながら、巨漢を見つめる。まだ実感がわいていなく、頭は居酒屋でアルコールに満ちた空気を吸いすぎた時のようにほわほわする。
死んだということもまだ実感がわかなかったというのにその上で『妖怪』なんて言われてもついていけない。妖怪ってあれであろう。鬼とか、お化けとか、河童とかそういった類の者であろう。それに俺がなる。ちょっと何を言っているかわからない。
「じゃあ、そういうことだから。後は現世にいる人たちに教わってね。僕からも声をかけておくから。じゃ」
軽い調子で話す巨漢の男は大きなボタンを取り出して、そのボタンを押した。
「えっ、ちょ。あ、あの。これは?」
ボタンを押された瞬間。俺の身体は光に包まれてしまう。その後、足が宙に浮く。初めての経験で足をばたつかせる。
「では、健闘を祈る。君はこれから新しい人生を歩む。その上で、人間となるか、妖怪となるか、君の生き方を見つけてくれたまえ烏丸勇仁くん」
「ちょ、まだなんも納得していないんですけど! ちょっと! そもそも誰なんですかあなた!」
宙にどんどん登ってゆき、謎の巨漢とやらも見下ろせるほどになる。身体の浮遊感が影響しているのか、この光の心地よさが原因なのか、瞼が重くて仕方がない。
そのまま俺は瞳を閉じる。