第17話 ヨハン・バラック(ヨハン視点)
かなり暗いです。
伯爵家の次男として生まれた僕は、いつも兄スティーブの影だった。
優秀な兄上に期待する両親に使用人たち。彼らの瞳がこっちを見ていないことに気付いたのは、割と幼い頃だったと思う。
同じことをしても褒められるのはいつも兄上だけ。僕が隣にいても視界に入れず、いないものとして扱われていた。
だけどそんな僕を兄上だけはちゃんと見て、そのたびに慰めてくれた。
教育も必要最低限しか受けさせてもらえない僕に配慮して、いくつかの授業は一緒に受けられるように父上に進言してくれたりもした。
両親から見てもらえないのは悲しかったけれど、兄上がいたから腐らずに頑張れた。兄上が「ヨハンの目標になれるように頑張るよ」と優しく頭を撫でてくれたけど、ずっとずっと昔から、兄上はとっくに僕の目標だった。
そんな生活を続けていたのだが、父上の仕事が忙しくなったらしくなかなか自領へ戻られなくなった。そのうち、母上も外出が多くなり、屋敷には僕と兄上だけの時間が増えた。
あとから気付いたことだが、母上は父上との結婚で引き裂かれた昔の恋人に会いに行っていたらしい。兄上は気付いていたみたいだけど、まだ幼かった僕には教えてくれなかった。あとで社交界の噂話で知り、かなりバツの悪い思いをしたのは記憶に新しい。
二人だけの時間は僕にとって至福のときだった。僕をちゃんと見てくれる兄上。父上や母上はいた方が寂しい思いをするから、逆にいない方がよかった。
けれど、父上から「勉強は捗っているか」と様子を窺う手紙が届くたびに兄上の顔色が曇っていったから、兄上にとっては違ったのだろう。
兄上が八歳、僕が六歳になった頃、授業に魔導学が追加された。
兄上の好意で見学させてもらっていた僕は、教師の教えに則り、コップの中に水を出現させる魔術を使った兄上に目を輝かせた。「初めてでこれだけ出来れば上出来です」と教師に褒められて、兄上も嬉しそうだった。
そんな兄上が誇らしくて、初めて見た魔術にとても興奮していた僕は、よせばいいのに兄上の真似をしてやってみたのだ。
コップからどんどん湧き出し、テーブルに溢れ出す水に、教師は「素晴らしい才能だ!」と歓喜した。
成功したのが嬉しくて、コップから目を離し、兄上を見上げた僕はその表情を見て凍りついた。
能面のようにごっそりと感情の抜け落ちた顔の中、瞳だけは忌々しげに僕を見つめていて、僕は漠然とやってはいけないことをしてしまったのだと感じた。
教師から話がいったのか、父上はすぐに僕に国内トップクラスの実力を持つ魔導師エリアーデを付け、丸一日授業を受けるようになった。
兄上にだけ届いていた手紙は僕にも届くようになり、父上に認められたようで少し嬉しく思ったのを覚えている。
けれど、優しかった兄上は反対にあの日から僕に辛くあたるようになった。最初は信じられなくて、気のせいだと思いたかったけど、口を開けば頬を打たれ、蔑んだ視線を向けられるたびに気のせいではないのだと打ちのめされた。
兄上が僕に優しかったのは、僕が誰からも認められない「可哀想な子」であったためだった。そんな僕に優しくすることで、兄上は優越感に浸っていたのだ。
母上は相変わらず僕に無関心だけれど、魔術の才能があり父上に目をかけられるようになった僕は、逆に彼の自尊心を大きく損なう存在となったらしい。
それでも、しばらくしたら元の優しい兄上に戻ってくれると、これは一過性のものなのだと信じて、僕は兄上からの暴力を受け止めていた。
屋敷の裏手にある森で鍛錬と称して木刀で折檻されたある日、兄上は久しぶりに柔らかい笑みを浮かべた。
やっと、やっと元の兄上に戻ったのだと、喜びに震える僕に近付いて来た兄上は、優しい手つきで血の滲んだ服を脱がしていく。
てっきり治療をしてくれるのだと思っていた僕は大人しく身を任せていたけれど、下穿きだけになり、後ろ手に縄で縛られたことでそれが間違いだったのだと悟る。
「にい、さん……?」
「ははっ、ヨハン。今日はね、お前のためにお友達を用意してあげたよ。お前くらいの歳は人気があるみたいでね、随分集まったんだ。口が堅い者を厳選しなくちゃならなかったから、五人にまで減ってしまったけど、これでもう、寂しくないよね?」
兄上の言葉に、サッと頭から血の気が引いていく。
あ、とか、う、とか言葉にならない僕を、兄上は狂気を孕んだ瞳で僕を見下ろし、一人屋敷の方向へ歩き出す。いくら叫んで呼んでも、一度も振り返ることはなかった。
なんとか立ち上がり逃げようと足を踏み出すが、手首を拘束する縄が木に括りつけられており、僕はその勢いのまま地べたに転げることになった。
(早く、早く、早くッ――)
縄を斬るための風や炎の魔術はまだ習っておらず、必死に縄を解こうとする僕を嘲笑いながら、森の奥から男たちが現れた。
みんな数日は風呂に入っていないのか身なりは汚く、浮浪者のようだった。
ひぃ、と情けない声を上げて限界まで後退る僕を、男たちはニヤニヤとした顔で観察し、わざと少しずつ距離を縮めてくる。
「ぃ、やだ! 来な、いでっ」
兄上に打たれた傷が痛い。縄で手首が擦り切れて痛い。男たちの舐め回すような視線が痛い。こんなことをされる程、兄上に憎まれていた事実に心が痛い。
泣きじゃくってぼやけた視界の中で、じりじりと近寄って来ていた男の手が僕の身体に伸ばされたのが分かった。
(いやだいやだいやだっ!! 誰か助けて!!!)
ぎゅっと瞼を閉じて、唇を噛んだ。
それが僕の胸元に触れた瞬間、僕の身体から魔力が溢れ出し、瞼を閉じていても分かる程辺りが眩しく光った。
何が起きたのだと目を開いた僕が見たのは、真っ黒く焼け焦げた男たちだったもので。その焦げた肉の臭いに吐瀉した僕は、言いようのない全身の倦怠感を感じてその場に崩れ落ちた。
気が付けば、僕は自室のベッドに横になっていた。
あれだけ痛かった身体の痛みも消え、いつの間にか着せられた寝間着から覗く手首にも擦れた痕はなかった。
何故か父上の従者であるジョゼフが傍にいて、何が起こったのかを教えてくれた。
僕が魔術の訓練をするために一人で森へ行ったこと。
そこで魔術が制御出来ずに、体内の魔力が暴走したこと。
魔力制御を学ぶため、エリアーデの紹介で魔導師たちの生活する王都の研究施設へ入ることになったこと――
蜂蜜入りのホットミルクを飲みながら、次々言われることをまるで他人事のように聞いていた。
多分あのときの光は魔力が暴走したもので違いないのだろうが、それ以外は全て創られた話だったからだ。
あれだけ僕は傷だらけだったし、男たちの死体だって近くにあった。僕を発見した人はそれを知っているはずなのに、全てなかったことになっていた。
(ああ、だからか)
兄上はあのとき口の堅い者と言って浮浪者を連れて来ていた。どちらにせよ、あれが終わったら彼らは消える運命だったのだと気付き、少しだけ罪悪感が薄くなった。
二日後にエリアーデが迎えに来るまでの間、体力を付けるためと兄上が料理長に言ったらしく、焼いた肉ばかりが料理に出されたため、彼はあれから何があったのか全て知っていたのだろう。
研究施設に入った僕は、兄上からの暴力に怯えることもなく落ち着いた生活を送れていた。
幼くして家族から離されたことを周りは不憫がり、節目節目に領へ帰るように言われたが、「研究が楽しいから」とそれを断っていた。それでも帰らないといけないときはあるが、そのたびにまた兄上から暴力を受けるのだから、僕は本当に必要なとき以外はバラック家の人間に寄り付かなくなった。
そうして研究ばかりして暮らしていた僕は、いつしか師であるエリアーデも越えていた。
それでもすることは変わらない。研究、研究、研究の毎日だ。昔のことを思い出して眠れない夜があれば、魔力を枯渇寸前まで使い、意識を失うようにして眠りについた。
そんな生活をしていたからか、僕の魔力量は増え続け、当時の魔導師長までを凌いでしまった。
僕は魔導師長を引き継ぎ、前魔導師長にはそのまま研究に携わってもらうことにしたのだが、やはり年下に使われるのは抵抗があったらしく次第に亀裂が生まれていった。
どうやら僕には周りに溶け込む技術が足りないらしい。
そんな折に【魔王】を倒す旅に参加するようにと陛下から進言があり、僕はにべもなく頷いた。僕はまたしても逃げたのだ。
【勇者】の兄が着いてくると聞いて、面倒くさいことになるなと感じた。
兄弟の中で弟に主役を奪われた兄。しかもそれが世界規模なのだから、どう考えても兄の方は引け目を感じるだろう、と。
逃げた先でまた陰鬱な争いに巻き込まれるのかとうんざりしていたのだが、初顔合わせでそれは裏切られた。
まだ幼い弟を庇うように慈しむカイに、そんな兄を尊敬の眼差しで見つめるリュカ。その間には確かな信頼があって、僕が想像していた光景などどこにもなかった。
揺るぎない――本当に仲のいい兄弟というものを目の当たりにし、僕は気付かぬうちに衝撃を受けていたようだ。
自分も、いつかあんな風に兄と笑い合えるのではないかとの希望が湧き出し、そのたびに内心首を振る。
運良くアンジュの教育で忙しくなったことで眠ることが出来ていたが、それがなかったらと思うと碌なことにならなかったと思う。
出発に際し、父上から手紙が届いた。
終始【勇者】や【聖女】に取り入るようにとの内容で、やはりと言うべきかその中に自身を案じる言葉がなかった。
分かりきっていたはずなのに、勝手に期待して落ち込むのだから世話はないなと、自然と自嘲めいた笑みが浮かんだ。




