親戚のおばちゃんに聞いた本当にあった怖い話
あれは、私が娘時代の頃でございました。
あの頃はお見合い写真ひとつで嫁ぐと言うことが当たり前にある時代でした。
かくいう私も親類の紹介で、見知らぬ遠い満州に住む会ったことも無い男に嫁ぎました。
若い娘でしたので、結婚生活に夢を抱いておりましたが、ものの3日で美事に打ち砕かれました。
夫は、いわゆる『飲む、打つ、買う』という三拍子揃った男でした。
しかも、酔うと嫁である私に暴力をふるうのでございます。
その日の夜は夫の機嫌が良くなく、私を殴ってきました。
夫は、嫁に何をしてもいいと思っているのです。
頬を殴られ、泣きながら茶碗を片付ける私を見て、後ろめたい思いでもあったのでしょうか?
「なんだ、その目は!! 誰が食わしてやってると思ってるんだ!」
と、さらに髪の毛を掴んで私を引きずり回しました。
ご存知でしょうか?
あんまり痛かったり哀しかったり悔しかったりすると、人間痛みなんか感じなくなるんですよ。
その頃の女性は少々の夫の我儘くらいに耐えて最後まで仕えることが女性の美徳とされてきました。
妻は夫を支え子を産み育て、家庭の為に必死に生きる。
自分の為より家のため、家族のために働く。
だけど、おきゃんだった私はこんな男のために一生我慢するのは心底嫌だと思ったのです。
翌る日、とうとう我慢できなくなった私は、夫が仕事に出かけた留守に荷物をまとめて日本本土へ逃げ帰ることに致しました。
母が『何かあったときにお遣い。旦那様には隠しておくんだよ』とこっそり渡してくれた母のへそくりを握りしめ、南満州鉄道に飛び乗ったのです。
車窓からながめる新京の街が遠くなっていきます。
――あのひとは私が居なくなったと知ってどんな顔をするだろう?
きっとお金もちゃんと渡してくれてなかったから、私が逃げられると思ってなかっただろう。
くやしがるだろうか? 悲しむだろうか? 少しは自分がした事を後悔するだろうか?
ざまあみろという気持ちと、夫を捨てるなんてとんでもないことをしてしまったという気持ち、やっと解放されたという気持ちがくるくると入れ替わります。
夫から逃げてきたなんて、厳格な実家の父は受け入れてくれないでしょう。
逃げたとて私には帰る家はありません。
街から離れ、車窓の外は一面の草原になりました。
その草原の地平線に真っ赤な真っ赤な太陽がゆっくりと沈んでいきます。
地平線に沈む夕日なんて九州の小さな港町に育った私には見慣れぬ風景でございます。
これを見られただけでも、ここに来た甲斐があったかも知れません。
夕日を見ながらぽつんと涙がこぼれました。
電車の中で夜を明かし新京から奉天に着きました。
ここから安奉線で安東へ行き、鴨緑江を鉄橋で渡り新義州から朝鮮鉄道で釜山へとつきました。
釜山から下関までは、船に乗ります。
半年前、幸せな結婚を夢見て期待と不安でドキドキしながら海を渡った夢見がちな乙女と今の自分は、別の人間のような気さえいたします。
何時間も揺られて船が下関に着いたときは、とっぷりと日が暮れておりました。
もう下関からでる電車はなく、今日はここで泊まらないといけません。
さっそく港近くの旅館を巡りましたが、船が着いてどこの旅館も客が多かったのと、女一人旅であることを怪しまれたのか、どこの旅館も満室だと断わられました。
最後にたどり着いた小さな旅館は亭主が旅館組合の会合で留守だとかで女将さんが出てこられました。
ここも満室だと断わられましたが、ここを逃すと女一人寒空で野宿するしかありません。
「どんな部屋でも良いんです。物置だって構いません」
拝むように頼むと、
「本当にどんな部屋でも良いんですね」
しぶしぶと女将さんが二階の小さな部屋に案内してくれました。
案内された部屋は、暗い感じの部屋で壁にはいくつかのお札が貼ってあります。
信心深いご夫婦なのでしょう。
物置じゃなくてちゃんとした部屋が開いてるんじゃないか、やっぱり女一人だから敬遠されんだと少し憤慨いたしましたが、まあ、泊まれたからよしと致しましょう。
満州を発ってから寝るのはずっと鉄道や船の中でくたくたに疲れていたのでしょう。
布団に入るとすぐに寝入ってしました。
しばらくウトウトとしたでしょうか、玄関がガラガラと開く音がします。
ああ、旅館の会合に出かけていたご亭主が帰って来たのだなと、思っていると、
ミシリミシリと階段を上がってくる音がするのです。
二階に何か用事があるのだろうかと、思っていると部屋の扉が開いて誰かが入ってきた気配がするとともに、ドンと体が重くなりました。
おそるおそる目を開けると目の前に大きな男の手が見えました。
私の体ほどもある大きな手が布団の上から私を押さえつけているのです。
手の指のうぶ毛までハッキリと見えますが、どう目をこらしても手から上が見えないのです。
助けを求めて横をみると、布団の横で真っ青な顔をした女の人が私を恨めしそうに睨み付けています。
金縛りにあったように私の体は指一本動かせません。
どんどんと私を押さえる力が強くなって息をするのも苦しくなってゆきました。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
――あああ、夫を捨てた酬いでしょうか?
女は夫に暴力を振るわれても耐え忍ばなければならないのでしょうか?
いや、違うわ!
怖いのを通り越してだんだんと怒りがこみ上げて参りました。
すっーっと息を吸うと、私を押さえつけるモノをわっと脅かしました。
するとソレらは、かき消すように消えてゆきました。
――夢でも見てたのだろうか?
夫を捨てた罪悪感と疲れとで悪い夢を見たのかもしれない。
ドキドキとしながらも、私はまたまどろみ始めました。
しばらくするとまた、玄関がガラガラと開く音がします。
今度こそ、旅館の会合に出かけていたご亭主が帰って来たのだなと、思っていると、
また、ミシリミシリと階段を上がってくる音がするのです。
嫌な予感がします。
思った通り、部屋の扉が開いて誰かが入ってきた気配がするとともに、ドンと体が重くなりました。
おそるおそる目を開けるとまた目の前に大きな男の手が見えました。
私の体ほどもある大きな手が布団の上から私を押さえつけているのです。
私の体ほどもある大きな手が布団の上から私を押さえつけているのです。
手の指のうぶ毛までハッキリと見えますが、どう目をこらしても手から上が見えないのです。
助けを求めて横をみると、布団の横で真っ青な顔をした女の人がまた私を恨めしそうに睨み付けています。
私は這々(ほうほう)の体で階段を降りると女将さんのいる部屋に逃げ込みました。
どうやって階段を降りたのかすら覚えていません。
女将さんはブルブルと震えながら、
「また、出ましたか?」とおっしゃいました。
「またとは、どういうことですか? 幽霊が出る部屋とわかっていながら泊めたのですか?」と女将さんに詰め寄りました。
我ながら、どんな部屋でも良いといったことは棚に上げておりました。
その晩は女将さんの部屋に泊めてもらい夜を明かしました。
後で聞くと、あの部屋は結婚を反対された男女が心中した部屋だったそうでございます。
夫を捨てた私が、愛し合い心中した男女の幽霊に会う。
皮肉な気持ちが致します。
あれから私は時々考えるのです。
死ぬほど愛された女と、暴力を振るわれ夫から逃げ出した女、どっちが幸せなのだろうと。