#1 五月の休日
咲き乱れていたはずの桜は葉桜となり、少し暑いと感じる日々も多くなってきた春の後半とも言える五月。長期休暇だと言うのに外に出なければならないことに溜め息が出てくる。隣に住む女の子に勉強を教えてほしいと頼まれたからだ。
昔からの付き合いもあるし、断るのも何か悪い。かと言ってわざわざ休日に外に出させるのだからそれなりにしっかりと勉強してもらわなきゃならない。
……とは言え、今思い返せばほとんどの休日がそいつに奪われていたのだが。
高一という思春期真っ盛りの青少年にとっては、一大イベントだ―――なんてことはない。
別に女の子であるそいつに勉強を教えてほしいと頼まれても、まったくもってドギマギしない。強がりでも何でもなく、そいつ自信が訳アリなのだから。とはいえ、長い付き合いのため知音の仲ではあると思う。
「とは言っても、朝っぱら……しかも七時って、いくらなんでも早すぎるだろ」
再び溜め息が溢れる。時計を見ればそろそろその時間になるので、身支度を済ませる。両親は共働きだ。しかもこんな七時という早朝よりも前に出勤しているのだから、感謝しなければならない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」という言葉がないのは寂しいが、慣れっこだ。しっかりと戸締まりを確認し、件の家へと向かう。
歩いて数秒。本当に真横にあるのだからこんなもんだ。
チャイムを鳴らすとあいつの母親が出て来る。ちょうど仕事に向かうところだったのだろう。
「いらっしゃい、今日もありがとね」
にこやかに話しかけてくれると、こちらも自然と笑みが溢れるものだ。あいつの母親は昔からこんな感じで変わらない。安心感がある。
「こちらこそ、お邪魔します」
「……本当に、ありがとう」
悲しそうな顔をされてしまえば、心が苦しくなる。二ヶ月経っても自分だってそれは忘れられないのだ。母親にしてみればそれ以上の苦痛だろう。
「いや、本当に大丈夫ですから。お任せください」
努めて笑顔を浮かべてみると、彼女も安心したのだろうか。先程のにこやかな笑みが戻った。
「ええ。それじゃあ私はこれから仕事だから……お願いね」
「はい。行ってらっしゃい」
手を振り、見送った後に上がらせてもらう。さて、あいつは部屋にいるのだろう。出迎えがあってもいいのではないか、と思ったがそれは酷かと思い直す。
失礼なことかもしれないが、そいつの家は幼い頃から遊びに来たりしていたので感覚的には第二の家という感じだ。だから部屋の配置をほとんど覚えてしまっている。そいつの両親からも好きにして構わないと許可は降りているが。
そいつの部屋の前に辿り着くと、その名前が書かれている。以前とは違って可愛らしい看板と共に。……心底嫌がる様が目に浮かんだが、恐らく母親にしてやられたのだろう。
「おーい、来たぞ」
「はーい」
ノックとともに挨拶をすると、可愛らしい声が聞こえてくる。ようやく慣れてきた声だ。
「いらっしゃい! やっぱり隼人は時間ぴったりに来るね!」
「あのなあ、朝七時ってどうなんだよ。早すぎるだろ」
「隼人なら来てくれるって信じてたよ!」
「はぁ」
どうにも調子を狂わされる。彼女のこのマイペースぶりはどうにかならないのだろうか。昔からこいつに振り回され続けているから、もはや苦笑で済ませてしまえるのだが。
部屋から出てきた少女、葉白凛と自分、峰塚隼人は幼馴染だ。その理由は、今まで言ってきた通りだ。
彼女を見ると、腰まで伸びる黒髪のストレート、無邪気そうなその表情には幼さが映る。こいつの身長は自己申告では百六十センチと言っているが、どう見ても百五十センチくらいしかない。自分の身長が百七十はあるから、ちんまい。思わず頭をなでてしまうこともしばしばあり、そのたびに不服そうに頬を膨らませるのだから殊更可愛らしい。その時に顔を一緒に赤らめるのだから器用なやつだ。嫌がっているのかもわからない。
服装も可愛らしいもので、それも彼女自身の可愛らしさをプラスさせる要因になっている。こいつ自身は自分からこういった服装をしたがらないのだから、恐らくこいつの母親が着させるようにしたのだろう。
だが、こいつがこの姿になったのは二ヶ月前からである。理由は、とある事故だ。
「ん? どうしたの、僕を見つめちゃって。はっ! …もしかして……見惚れた?」
「馬鹿な事言ってないで早く始めるぞ」
なんてぼうっとしている間に彼女に声を掛けられる。おちょくってくるのも前から変わりやしない。
調子乗った風な顔にデコピンをしつつ、部屋に上がらせてもらう。「あうぅ」とか呻いて蹲ってるが自業自得ってことで。
***
「あー! 疲れた! ちょっと休憩しようよ」
「ん、そうだな。ちょうどいいか」
時計を見ると始めてから二時間程度が過ぎていた。ここらで区切りも良かったしちょうどいいだろう。
「うん! じゃあ飲み物取ってくるね!」
ゆっくりと立ち上がる彼女を見て、一安心する。身体が弱いがために立ち上がる動作すら激しい立ちくらみに襲われるらしいから気を抜けない。
「ああ、手伝うよ」
この二ヶ月間彼女を見てきたが、色々な動作がたどたどしい。言わずもがな、身体に慣れていないのだろう。そうなってしまった原因が自分にもある。それの贖罪のつもりなのかは自分でもわからないが、二ヶ月間できる限りは廉につきっきりでいるようにしている。休日が潰されてるなんて言ったが、それは自分で言い出したことだしどうってことはない。
「―――い。おーいってば」
「あ? ……ああ、悪い」
「ん。大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ」
どうやら考え込んでしまっていたようで、目の前に心配そうに覗き込む彼女の顔が認識されていなかった。しかし、近い。無防備にも程があるだろうに。ましてや顔を赤らめるくらいならやるんじゃない。
「えへへ、なんか恥ずかしいね」
言わんこっちゃない。恥ずかしいならやらなきゃいいのに。恥じらう姿もなんというか、とても可愛らしく一瞬意識してしまうことがある。何ともまあ、罪深いやつめ。
「ならやるんじゃない。ほら、全部持ってくぞ」
「むっ、僕だってそこまでしてもらわなくても……」
頬を膨らませて抗議してくる。さすがにこれは過保護過ぎたか。本人ができると言いはるのならそれはそれで構わない。彼女にできることは、彼女にさせるべきだ。
「そっか。だけど片方は持っていかせてくれ」
しかし両腕いっぱいに飲み物を抱えてるのを見るとさすがにおっかない。全部寄越せとは言わないが、もし抱えたまま躓いたら怖い。
「むぅ……わかった。お願い」
「ああ」
なんとなしに頭を撫でるとそっぽ向かれてしまった。これは昔からの癖で、こいつを妹のように思っているせいだろう。
「あのさ、頭撫でるのはその……」
「なんだ、嫌だったらやめるが」
なんというか、こいつの髪の毛はさらさらしてて撫でていると心地良い。だから撫でてしまうのは仕方のないことだと思う。ほぼ無意識にやってるが……セクハラになってないと信じたい。
「嫌じゃ、ないけど……」
「じゃあもっと撫でなきゃな」
「うぅ……」
部屋に戻るまでの間、恥ずかしがる彼女を面白がりながら弄りまくってやった。
リビドーを抑えきれなかったよ……