イプシロン・エリダニの小猫
雨降りの交差点で、私はその小猫に出会いました。
「子猫」じゃなくて、「小猫」なのは、本当に小さな猫だったからです。大人の猫をそのまま縮小したような姿で、大きさは頭の先から尻尾の先までが人差し指と同じくらいしかありません。短いめの毛のサバ虎で、細かい文字のようなものを刻んだ銀色の指輪みたいな首輪をしています。
小猫は雨に濡れて震えていました。頼るような目をする小猫を私は家に連れて帰り、体を拭いてあげました。
小さめのハンカチをかけてあげると、気持ち良さそうにすやすやと眠り始めました。その様子は普通の猫そのものです。
その日から、私の小猫との暮らしが始まりました。私は前に猫を飼っていたことがあったので、大きさは違うけれど世話の仕方に困ることはありませんでした。
私はまあまあ器用な方なので、安売り店の雑貨を利用して、キャットハウスや猫用トイレを作りました。普通の猫用なら費用もかかるし場所もとりそうな、豪華なキャットタワーも作ってあげました。
えさは普通のカリカリを細かく砕いてあげたら、おいしそうに食べてくれます。おやつには小さいめのシラスを一匹、それでも小猫にとっては結構なボリュームみたいです。
ひとつ驚いたことがあって、それはその小猫が人間の言葉を使うことです。
「うちに帰りたい。イプシロン・エリダニ」
会話らしい会話はできないのですが、最初に会ったときからその言葉をしきりに繰り返します。
調べてみると、エリダヌス座のイプシロンという星のことを言っているようでした。
地球の猫ではありえない大きさなので、きっと小猫は宇宙人のペットの宇宙猫で、飼い主とはぐれたのか捨てられたのかしたのでしょう。
地球の人間の落とし物ではないから警察に届けるのも違う気がするし、保健所に届けてもかわいそうなことになりそうだし、とりあえず私が飼うことにしました。
小猫は時々テレパシーで私に危険を知らせてくれました。
最初に知らせてくれたのは、特製の巾着に小猫を入れて散歩していたときで、「危ない!」と声がして青信号なのに立ち止まったら、暴走車が交差点に突っ込んできました。
それからも、「雨だよ」という声がして、晴れの予報でも傘を持って出かけると本当に雨が降ったりするのです。
テレパシーのおかげで言葉巧みな悪徳商法を見破れたこともありましたし、仕事のミスを事前に防げたこともありました。
小猫には危険予知能力があるのでしょう。宇宙人は、危険予知のために小猫を飼っていたのかもしれません。
おかげで、日々安心して生活できるようになりました。
「うちに帰りたい。イプシロン・エリダニ」
ときどきその言葉は出てくるのですが、普通の猫と同じように、私になついてくれました。
小猫の予知能力はもちろん助けになるのですが、それ以上に私にとっては小猫が生きがいになりました。
疲れているときや落ち込んでいるとき、小猫のつぶらな瞳をみるだけでとても癒されます。
極小の猫じゃらしをつくって遊んであげると、いくらでも付き合ってくれます。遊んであげているというより、私の方が遊んでもらっていると言うべきなのかもしれません。
遊び疲れて眠る姿は、どれだけ眺めていても飽きることはありません。
そんな中でも、やはりお決まりの台詞だけは時々出てきます。
「うちに帰りたい。イプシロン・エリダニ」
小猫にとって幸せなのは、きっと故郷の星に帰ることなのでしょう。
「きっと飼い主さんが迎えに来てくれるよ。いっしょにお祈りしようね」
小猫の見上げる空に向かって、私はお祈りの仕草をしました。心からのお祈りだったかどうか自信はありませんが。
そんなある日の夜中、私の部屋の窓の外にUFOらしい光が浮かんでいるのが見えました。
私は恐ろしくて、布団から出ることができませんでした。
危険は小猫のテレパシーで予知できるのが当たり前になってしまっていました。なので、一瞬なぜ教えてもらえなかったのか不審に思いましたが、小猫にお迎えが来たのだろうとすぐに理解しました。
小猫にとっては飼い主でも、人間に対しては攻撃的な宇宙人ということもあるかもしれません。そう思うと、恐ろしくてなりません。
しばらくすると、鍵をかけたはずの窓が勝手に開いて、青白い肌の宇宙人らしい人物が現れました。宇宙人はテレパシーで私の頭の中に直接話しかけてきました。
「ミューシィを預かってくれて、ありがとう」
敵意の無さも伝わってきたので、私は少し落ち着きを取り戻しました。
「いいえ、どういたしまして」
私は頭の中で返事をしました。ミューシィというのは、小猫のことなのだと思いました。
「返してください。お礼はあげます」
ずいぶんとそっけない言い方ですが、私のものではないので、返さないわけにはいかないでしょう。
私はそばで寝ていた小猫を抱き上げて、少しためらいながらも宇宙人に手渡しました。小猫は素直にじっとしていました。
ところが宇宙人は小猫の首から首輪を外すと、小猫を私に返しました。
「え?」
私は思わず声を出しました。宇宙人は小猫を返して欲しかったのではなかったようです。宇宙人はテレパシーで説明しました。
「私は星々を回って生物の調査をしています。この地球という星に来たとき、危険予知指輪の手入れをしようと外したところ、いたずらな小猫が首を突っ込んで、持っていってしまったのです。ミューシィの微弱な電波をたどって、ようやくここにたどり着きました」
私は宇宙人に尋ねました。
「では、この小猫はあなたの飼い猫ではないのですか。エリダヌス座のイプシロンという星に帰りたがっているみたいだし、宇宙猫だと思うんですが」
「私は生物学者ですし、その小猫が地球の猫ではなく、地球人のいうイプシロン・エリダニ、正確にはその惑星の一つの猫であることはわかります。でも、私は地球人には全く知られていない星から来た者で、イプシロン・エリダニとはなんの関係もありません」
「この小猫を、故郷の星に帰してやってはもらえませんか」
「それは無理です。宇宙船に予定外の生き物を乗せることはできません。それに、イプシロン・エリダニに行く予定も余裕もありません。調査日程に遅れが出てしまっていますし、ミューシィが戻った今、急いで次の目的地に出発しなければなりません」
「では、どうすればいいのでしょう」
「さあ、イプシロン・エリダニの人たちは、よく地球に観光旅行に来ているらしいです。だから、旅行者の誰かに託すといいんじゃないでしょうか。たぶんその小猫も、ペット連れの旅行ではぐれたかなんかでしょう」
関係ない星の人に小猫のことを押し付けるわけにはいきません。
宇宙人は改めてミューシィのお礼をいうと、宇宙連邦の一千ピリカ金貨だと称するものをくれて去っていきました。
私のところには、小猫だけが残されました。
ミューシィが無くなったことで、危険予知のテレパシーも無くなりました。これからは自力で危険を予測して行動しなければなりませんが、それは仕方ありません。
いまも小猫は時々こう言います。
「うちに帰りたい。イプシロン・エリダニ」
地球に来ているイプシロン・エリダニ星人は、見た目で地球人と区別するのはまず無理だろうとミューシィの持ち主の宇宙人から聞きました。
会う人ごとに尋ねるしかないのでしょうが、それでは私が不審人物みたいになってしまいます。
「ごめんね。帰らせてあげられそうにないよ」
そう私が言うと、小猫は不思議そうに私を見つめます。その小猫の目がいとおしくて、本当は帰らせてあげたくないんだと、私は心の中でだけ告白するのです。