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ゴキブリになった僕  作者: 秋和翔
11/13

不幸の訪問と占いの挨拶

 そうこうしているうちにどこかにいっていたイケクソが帰ってきた。彼はビニール袋、割り箸を持っている。僕はもちろん、彼に恨みの念を抱いた。

 だが彼にとっては、たかがゴキブリを一匹潰しただけなのである。罪悪感などこれっぽちも抱いていないだろう。それどころか、殺したという考えさえもなく、抱いているのは不快なものが消えたという喜びかもしれない。

 そんな彼を僕は責めることができない。僕だって人間のときはそうであったから。ゴキブリを殺したところで罪悪感を抱いたことはない。殺したっていうのもそこまで重くは捉えていない。無意識のうちに、生命を軽く扱ってしまっていることは、意外にある。ただそれをその度々に意識していては僕なら心がもたないだろう。

 自分がそうであったのに、今そうである者を責めるというのは、どうも腑に落ちなかった。僕が今人間に戻ったって、その意識する苦しみには耐えられない。だからといって彼への恨みが消えるわけもなく、心が八つ裂きの刑のように、それぞれ反対方向に強く引っ張られ、バラバラになるように感じた。

 イケクソは、彼を割り箸で取り上げ袋に入れ、口を縛ってゴミ箱に捨てた。そのあと床を近くのティッシュなどで拭くとテレビをつけくつろぎだした。

 そうだ。なぜ今こいつがここにいるのか。どういうことだ。僕は状況がのみこめずにいた。少しすると彼女が帰ってきた。手にはコンビニのビニール袋があった。


彼女はビニール袋を机に置いて、袋からビールを取り出した。

「ねぇ、あのメールどういうこと」と彼女が聞いた。それを無視してイケクソは、ビールのプルタブに引くと、口をつけた。彼女が説明してってばっと不安と怒りが混じった声を出した。

「メールそのまんまだよ。前のベッドでのこと、録画してるんだよね」

 彼女は今にも泣きそうな顔になりながら、何が目的なのっと声を絞り出した。

「これっといった目的はないんだけど・・・。10万円でいいから、くれたら嬉しいなぁって」

「断ったら、断ったらどうするつもりなの」

「・・・・。ネットって便利だよね。色んなものが色んな人と共有できて。写真とか、それこそ動画とか」

 彼女はしばらく黙りこんだ。瞳には涙が今にも零れ落ちそうなほど溜まっている。そんな彼女を、愉快そうにあいつは見ていた。彼女は溜まった涙をついに一粒零してしまった。そして、いつまでなのと聞いた。今日中に、と即座にイケクソは返した。まるで、その返事を待っていたのではなく、その返事しか返ってくるはずがないと思っていたかのようだった。

 彼女は少し待っててというと、財布を片手にまた出かけた。


 あいつはその間ビールを飲んでいた。楽しそうに。ほんとうに楽しそうに。

「お金くれたら、データ消すって言ってないのにな」と呟いたあいつを殺してやりたいと思った。昔はこんな奴ではなかったのに。人の変化はとても恐ろしいものだ。

 彼女がお金を持って帰ってくると、あいつはサンキューと言って帰っていった。彼女はあいつが出て行った後の玄関を眺めながら、何分か魂が抜けたかのように呆然と立ち尽くしていた。しかし彼女は突然なんでなんでなんでと泣き叫んだ。

 なんでこんな悪いことばっかり。なにがいけなかったの。どうして私なの。なんでこうなるの。なんで苦しいのに彼は助けてくれないの。目を覚ましてくれないの。なんでなんでなんで。

 繰り返し繰り返し。この世界を呪う呪文のように何度も何度も呟いた。ひとしきり泣いた彼女は、考えたってどうしようもないと、そうなっているんだからと、諦めたように悲しそうに笑った。


 その日から彼女は変わった。片付けや掃除をサボり、部屋が日に日に散らかっていった。目は明るさを失い、身体はやせ細っていった。カレンダーにはお見舞いという文字があるのに出かけなくなった。

 僕の両親は心配して彼女を訪ねたが、彼女が家の扉を開けることはなかった。人の変化だった。

そんな日々が続いていくのを僕は物陰から見ることしか出来なかった。相変わらず無力のままだった。あいつがまた来るんじゃないかと僕は思っていたが、あれから1ヶ月ほど経ってもあいつは訪ねてくるどころか、彼女と連絡も取っていないようだった。


 生活が乱れていた彼女だったが、ある日、それは突然に元気になった。あの日は彼女が唯一出掛けるバイトの日だった。生活が乱れても、生きるためなのか、責任感があるのかわからないが、バイトだけは予定通りに行っていた。彼女は久しぶりにただいまと言って帰ってきた。それもとても快活に。

「今日はいいことあったんだぁー」と嬉しそうにデートの時に取った写真を手に取りながら話している。得意でもないお酒も飲んでいるようだ。彼女は、子供が親に今日あった面白い出来事を話すかのように話し始めた。

「今日はバイトが終わってぇ、そのまま帰ろうとした、んだけどね。帰り道に、ふと、占いいきたいなぁーーって思ったから、占いに行ったんだぁ。占いなんて、久しぶりに行くから、ドキドキしながらぁ、どこかなぁってフラフラしてたら、ある占いの店にすっっごく目が惹かれて、そのまま吸い込まれるように入ったの。そしたら、その占い師。貴方は今は大変だけど、今を我慢したら、すぐに幸せになれるぅって。周りの小さなこととかに気を付けて、何度も起こっていることにも意味があるから考えなさいって。そしたら新しい道が開けるって。眠っている者も目を覚まし、貴方とまたずっと一緒にいるだろうって」

 彼女はそれを何回も何回も嬉しそうに語った。そして私頑張るね、頑張るから、待っててねと、これまた何回も何回も言った。僕には、頑張らなくちゃと、切れそうな糸をさらにピンっと張るように感じた。

 そうして彼女は以前のように、僕のお見舞いにいってくれるようになったみたいだが、僕はそれを素直に喜べずにいた。占いにまで縋る彼女が悲しかった。僕が死んでしまったら彼女はどうなってしまうのだろうか。愛されている喜びも感じていたが、僕にここまで依存していたのかというような暗い感情が頭をもたげていた。

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