飛び立った影
僕がゴキブリになって6ヶ月が経とうとしていた。例のゴキブリとはすっかり仲良しになってしまっていた。仲良しといっても姿を見かけたら話をする程度だ。
僕は自分のこと話すか迷っていた。話したところで良い方向にいくとも思っていないが、ただ話したいそう思っていた。自分の苦しみを吐露したい。ただそれだけだった。自分一人で抱えるのには疲れた。
ゴキブリ君はいつものように楽しそうに話している。前向きで良い奴だ。
「前から聞きたかったんだけど、どうして自分から危険な目に遭おうするんだ。死にたいからでもなさそうだし」
僕は返す言葉に困る。理由は明確にある。だがそれを話すべきなのか、話していいのか、何かよからぬ影響はでないだろうか。そんな考えが頭のなかをぐるぐると回る。僕は昔から何かと理由をつけては、一歩踏み出すことを躊躇ってきた。今のように。
そんな僕を見ながら、ゴキブリ君はもういいよといった。その言葉には苛立ちも呆れもなく、無理していわなくてもいいよというような温かさがあった。
今、言うタイミングを逃したらもう言えなくなるような気がする。そう感じた。だからなのか、待って、ちゃんと話すからと口走ってしまってしまった。ゴキブリ君は、その言葉に何も答えず、僕の次の言葉を待ってくれた。
「僕、実は人間だったんだ」
彼は驚いたような素振りをみせず、そうかとだけつぶやいた。彼がまた口を開くまでに長い間があった。
「で、人間ってなんだ」
僕は呆れてしまった。そうか、通じないのか。彼に人間というものを説明しようと思ったが、自分でも訳が分からなくなってしまって、なんだか可笑しくなって笑ってしまった。
「だな。人間ってなんだろうな。わっかんないや」
そう言いながら笑う僕を見ながら、ゴキブリ君も一緒に笑ってくれた。ここに今流れている可笑しくて温かい空気は人間のときと同じものだった。
「でも僕が危険なことをするのは、その人間だったからで、愛するものに振り向いて欲しいからなのさ」笑いながらも本当のことをいった。ゴキブリ君も笑い続けながら、よく分からないけど良いことで大事なことのような気がするよ、と言ってくれた。僕たちはその後も笑いが止まらなかった。何が可笑しいのか、互いに分からないのがこれまた可笑しい。
笑いも一段落したあと、玄関の扉が開く音がした。彼女が帰ってきた。僕はそろそろ彼女に接触しなければならないことを思い出した。いつものように彼女が近づいたらアピールをしよう。
棚の下から足がこちらに向かってくるのが見えた。このときに気が付けば良かった。彼女がいつも履いているスリッパと、向かってくる足が履いているスリッパが違うことに。
僕が姿を現して、目にしたものはイケメン糞野郎の姿であった。僕はイケクソがどうしてここにいるのかという驚きと、先日のことが頭によぎり、僕の体は凍てついてしまったかのように、どこも動かすことが出来なかった。
イケクソは大きく足を上げると、僕にめがけ足を下ろしてきた。動けと心が叫んでも、凍てついた体が溶けることも、動くこともなく、今度は死への悪寒がさらに僕を凍えさせた。
「あぶないっっ」そう叫びながら僕のほうへ飛んできたのは、先ほどまで一緒にいたゴキブリ君であった。ゴキブリ君は僕をイケクソの足の外へと突き飛ばしてくれた。僕は突き飛ばされながら、ゴキブリ君が足と床に押しつぶされていく様をみた。僕が車に轢かれる様を彼女はこんな感じでみていたのかなと思った。
イケクソは振り下ろした足に力を込めて押しつぶした。ゆっくりと足をあげ、床にこびり付いたものにきもちわるっと一言言うと、そばにいた僕には気づかずにどこかに去っていった。
僕の体に熱いものこみあげて、凍てついた体は溶けだした。すぐに彼をどこかに移動させようと彼に近づいた。するとゆっくりと彼が動いた。まだ生きている。彼はまだ生きているんだ。僕は大丈夫だと根拠のないことを呟いた。彼は僕の言葉が聞こえていない様子で、細々とした声を途切れ途切れに絞り出していた。
「前に・・・助けてもらっ・・・たから・・。感謝は・・・こと・・ばじゃ・・なくて・・・行動・・・でしめす・・・んだ。でも・・・しなきゃ・・よかった・・。ちゃんと・・・お前が・・果たそうとしたこと・・果たせよ。俺だって・・・もう・・・そうしてもらわないと・・・死にきれないから・・・さ」
彼はそうそう言うと動かなくなってしまった。何回問いかけても、体も揺らしても反応がない。彼は僕の言葉も聞かず、自分の言いたいことを言っていなくなった。最後までおしゃべりな奴だった。もう少し話しておけばよかった。聞くだけではないコミュニケーションをすればよかった。
そんな風に目の前の彼をみて、また動けないでいた僕だった。




