私の話
私は彼のことが好きだ。
同様に彼も私のことを好きでいてくれる。だから、世界一幸福でいる。
好きな相手に好きでいてもらえること以上の奇跡が存在するだろうか? 彼にそう言うと、そうだねと木漏れ日みたいな笑顔を作った。
この人に出会ったときから、私はいつかこの人と付き合うことになるのだろうと確信していた。
付き合いだしてから、いつかこの人と結婚するのだろうと予感した。
この勘は非常に優れていて今のところ私の勘通りに物事は進んでいる。
人生はもっと複雑なものだと思っていたのに、案外単純なものだと彼に抱かれたときに思った。
それを彼に言うと、そうかな、と困った顔をした。その表情のわけを私は知らない。
私たちは平凡な地方国立大学で出会い、現在に至るまで付き合い続けている。彼は広告代理店で働いていて、私も会社こそ違うが業種は同じだ。
荒れていない普遍な家庭で育ち、友達も人並みにはいる。物語の主人公にするには役不足に違いない。少しの葛藤はある。だが、私の葛藤なんてものはたった一週間足らずで消えてしまうような些細なものだ。
そう、私の人生には娯楽になり得るドラマがないのだ。
人は誰でも小説一冊ぶんを書くことのできるドラマを持っていると誰かが言っていたけれど、私は例外だろう。
受験で苦労することはなかったし、失恋だって経験をしたことがない。友達と喧嘩別れをしたことも、家族と喧嘩したこともない。
まだ二十五年しか生きていないのだから、これからぱっと華やかなドラマが起きるのかもしれない。
「どうだろうね、僕にはわからないや」
彼は決まって顔をくしゃくしゃにしてそう言った。私が自分のドラマのなさに嘆いていると、だ。
私たちが会う場合、大体は彼の自宅で集合することになる。おしゃれな飲食店や流行のカフェなんかに行くことはたまにしかない。一時期、その手の店に通いすぎて飽きてしまったのだ。
今は彼の部屋のワンルームで映画を見たり、一緒に眠ることにはまっている。友達には熟年カップルだね、と笑われるけど。
現在も彼のベッドでぴったりとくっついていた。余分な脂肪のない完璧な体に私の熱くなった乳房を寄せて、背中を抱きしめる時間の幸福さは何事にも代え難い。
ずっとこうしていたいね、と言うとそうだね、こうしていたいよ、と微笑んでくれた。好きだよ、と言うと、僕も好きだよ、とキスをしてくれる。
これ以上のなにを必要とする?
私は年収や顔に価値を置く友人たちが愚かにしか思えない。
彼女たちは恋愛を知らないのだろう。彼女たちはほんとうの恋を経験したことがないのだ。
だから、顔や年収が何よりも大事だという口振りで何よりも重要だと当然の顔をするのだ。
「香水変えた?」
彼は私の髪の毛に顔を埋めながら言った。
「気がついた? 友達にもらったんだ」
「そっか。僕は前のほうが好きだったなあ」
「ずっとあれだったもんね」
大学時代からつけていた香水は人気ブランドの一番人気の香水で、自分自身気に入っていたので付け続けていたのだ。
「あの匂い、安心するんだ」
香水なのに嫉妬してしまいそうになる。
彼はいつも私を第一に考えてくれた。
私が一番大事だと彼はいつも言ってくれる。だから、私も安心できた。今だってそうだ。
なのに、私がどうして彼の携帯をのぞき見ようと思ったのか、自分自身ですらわからない。
たぶん、出来心だろう。たぶん、もっと安心がしたかったのだろう。
時折見せる愁いを帯びた顔や、携帯ばかり触る彼の横顔が、私以外の異性に対するものじゃないという根拠がほしかっただけだ。
彼がシャワーを浴びている最中に、彼の携帯を開いた。パスワードも知っているからすぐにホーム画面にたどり着けた。
猫の壁紙にアプリがすべてフォルダわけされている。彼らしいホーム画面だった。通話アプリを開いてみたけれど怪しい女性なんていなかった。私の知っている彼の友人や知人がほとんどだ。
Twitterを開いても怪しい人はいなかった。ご飯の写真ツイートばかりの彼のタイムラインに疑う余地は何一つ無い。
よかった。やっぱり彼は私のことが一番なのだわ。
お気に入りを見たら携帯を戻そうと思って画面を開いた。Twitterのお気に入りは一つのアカウントで並んでいる。それも平凡なツイートばかりだった。
ダイレクトメッセージも見てみたら、その女性ばかりだった。「今度飲みにいきません?」「会いませんか?」そんなものばかり。
私は携帯を元にあった場所に戻した。
彼が浮気していると決めつけるのは早いだろう。ただの友人の可能性の方がずっと高い。
後悔するくらいならはじめから見なければよかったのに。
シャワーからあがった彼に、私はしつこく好きかどうかを聞いた。彼はやっぱり私のことが好きだと言った。
あれから三ヶ月が経った。
あのお気に入りをみた後に彼のTwitterアカウントを時折見ているけれど、浮気しているそぶりはいっさいない。彼は当然のように私に愛の言葉をささやくし、私もそれに返す。
休日は一緒に美術館へ出かけたりお菓子を一緒に作るし、二週に一度はセックスもする。
なにも問題はない。問題はなにもないはずなのに。
今日も彼の部屋にずっといた。借りてきたブルーバレンタインという恋愛映画を観て感想を言い合った。そしてすぐにセックスをした。平凡な休日、平凡な恋人関係。
なのに、彼はまたぼーっとした顔をして宙を見ている。私はずっと彼の横顔しか見ていないのに。
いや、元々彼はそう言う人だった。私が街中を見ている間も真っ青な空に浮かぶ入道雲を眺めるような人だった。
そんなところも好きだ。なのに、どうしてだろう。そんなところが好きだと素直にいえる自信がない。
「もし、私が好きな人ができたって言ったらどうする?」
彼の背中に問いかけるとぎょっとした顔をして振り向いた。それから、目を伏せた。
「仕方ないよ。好きな人ができたなら別れるよ」
「結構、冷めてるんだね」
「冷めてるのかな、わからないけど、しつこく懇願するのは互いのためにならないよ」
そうだね。と口だけだった。
そもそも、別れるつもりなんてなかったし、彼以外の好きな人なんて考えられなかったから、少し寂しかった。
じゃあ、こんな質問をしなければいいのに。
「じゃあ、僕が好きな人ができたと言ったらどうする?」
「考えたくない」
すると、彼は餌を取り上げられた犬のような顔をした。だから私は仕方なく
「別れたくないっていうよ」
と事実を言った。
「だろうね」
どうしてそんなため息混じりに言うの。
別の週の土曜日に、私たちはゲオに行った。手をつないで歩いて行った。
映画が好きだったから、彼はゲオの近くに家を借りたんだ、といつだか話していたのを覚えている。
臆病な性格だから車は持ちたくないのだという。おっちょこちょいなところがあるから、賢明な判断だよ、と同調した。
私たちは洋画コーナーで一緒に手をつないだままでDVDを選んでいた。今度はアクションを見ようか、いや、ホラーがいい、なんて話をしていた。
「あ~、久しぶりです」
洋画コーナーのすぐ後ろの海外ドラマコーナーから見知らぬ女性が現れた。はじめ、私の知り合いかと必死に思考を巡らせていたが彼の知り合いのようで、彼女に話しかけられた途端に、私の手を離した、彼は
「久しぶり」
と言った。ぎこちなく、目線はあっちこっちに飛び回っていた。
今にも卒倒してしまいそうな気持ちになって、声に出す勇気も、逃げる根性もなく、固まっていた。
「一ヶ月ぶりですよね、彼女さんですか?」
「う、うん。DVD借りようと思って」
小柄でかわいらしい容貌をしている。けして美人ではないけど、愛嬌はある。その顔の少しだけのそばかすや頬の中心にあるほくろによって、些細な自尊心は保たれた。
はずだった。
「また、今度飲みましょうね」
その、「また」というたった一言と彼女が会釈したときに鼻に漂う、馴染みのある匂いに頭がくらくらした。
頭を下げてどこかへたったと小走りをしていった。
がらがらと私の防波堤は崩れていく。だめだ。私はもうだめだ。
「ごめんね」
彼の口元はゆるんでいた。ごめんねなんて思ってないなら口にしないでよ。
「ううん。友達なんでしょ?」
「まあね。あの子はいい子だよ」
「私より?」
「あはは。どうだろうね」
そんな風にはぐらかさないでよ。嘘でも君の方がと言ってくれたっていいじゃない。
結局その日は好きなアーティストのアルバムを一枚だけ借りて帰宅した。
そもそも、私は劣等感を感じたことがほとんどなかった。
運動も勉強もほどほどにこなせたし、容姿だって特別悪くもない。だからといって良くはない。そのためかいじめられた経験だってもちろんない。からかいの対象にすらなったことがない。
好きになった男性は私のことを好きになってくれた。浮気もされなかったし、恋のライバルだって存在しなかった。
あの女性に出会ったときから、胸のあたりがもぞもぞと痛む。彼がいなくなったらどうしよう、彼が私と別れたいと言い出したらどうしよう。
そんなことで頭がいっぱいになる。
これを俗に独占欲というらしい。嫉妬や恋心とも呼ぶのだという。インターネット検索エンジンは何でも知っている。
なるほど、私は世の女性が当たり前に抱いていた普遍の感情を抱いたことがなかったのか。
「あいつが浮気? ないないありえない」
友人のエー子と居酒屋の個室で話していた。高校から今までずっと仲良くしている親友だ。月に一度ほどこうして飲みにいくのだ。
エー子は生ビールを飲み干してから、ジョッキを机に置いた。
「大体証拠ないでしょ? キスマークがあったとか、メールがあったとか、ハメ撮り写真を見てしまったとか」
「それがなきゃ浮気じゃないの?」
「そりゃそうよ。心の浮気なんて言葉があるけど、あんなの証明のしようがないし。男が感情を押し殺していれば丸く収まるもの」
そんなものなの、とつぶやいた。カシスオレンジを一口だけ含んだ。
「あんたらは長いんだから、ちょっとの浮ついた感情くらいは許容してもいいと思うけどね。お互いにずっと一番なんてありえないんだから。子供ができればそっちが最優先になるんだし」
「そんなものなのかな」
「そんなものよ。何、夢見てんのよ」
ゲラゲラと大きな口を開けて下品に笑った。
私は彼以外の異性に対して「ちょっとの浮ついた感情」を抱いたことがなかった。
むしろ、彼に対してのみ常に愛情を抱いていたし、何よりも彼が一番でいた。
恋人としてそれが正しいと信じている。だから彼にも同じように思っていてほしかった。
それがわがままだと言われてしまったら、私は何も反論をすることができない。私自身、それはわがままだと自覚しているからだ。
けれど、少しのわがままくらいあったって良いじゃないか、と思う。恋人同士だもの、少しのわがままくらい。
今の彼は浮ついた感情を持っているのかもしれないが、私に対する愛情は何も変わっていない。
だから、少しの気持ちくらいは許すべきなのかもしれない。かも、しれない。
彼は前より飲みの回数が徐々に増えていった。
それに比例するように、セックスの回数が徐々に減っていった。
土曜の昼間に一緒にゲームをしようと電話口で彼は聞いた。その後すぐに私の暮らしている1LDKのマンションに彼はやってきた。
彼の持っていないテレビゲーム機をいくつか持っているので、こうして時々ゲームをしにやってくることがある。
ゲームオタクと言うほどゲームが好きなわけじゃないのだけど、流行の新作ゲームや話題のゲームを見るとつい購入してしまうのだ。父がゲーム好きだったから、ゲームをすることに抵抗もない。
すぐに彼は私の部屋にやってきて、どすんと座椅子に座り込んだ。小さな鞄からコントローラーを取り出す。
「どのゲームがしたいの?」
「マリオパーティー」
「わかった」
質素な会話の後、私はあらかじめ出しておいた任天堂のWiiにマリオパーティーのソフトをセットして電源を入れた。
「なんだか、こういう時間は久々だね」
「そうかな」
「そうだよ。最近ずっと飲み会や遊びに行ってばかりだったでしょ?」
「あんまり行ってないよ」
「そうかなあ」
「そうだよ」
液晶テレビにゲーム画面が映り、陽気な音楽がひたすら流れ続けた。そもそも、このゲームは二人でするものではない。ただ、彼はこのゲームがとても好きなのだ。
「今日も夕方から飲みだから」
彼はしたり顔で言った。
「一昨日もだったじゃん」
「うん。ごめんね」
ごめんね。その一言で許してしまう自分が嫌だった。今日はその一言を許さないことにした。
「しかたないね」
これは口だけだ。
「ごめんね、ほんとうに」
一つの計画を試みようとしていた。
単純なことだ。私が、自身の目で彼の浮気現場を確認するのだ。つまりは尾行を思案していた。
個人としてはこのような卑劣な行動はできる限り避けたかった。だけど、あまりにも彼の飲み会が増えるから、耐えきれなくなったのだ。
私の家を出た彼はエレベーターで一階まで下り、最寄り駅まで歩いた。地下鉄で繁華街まで乗っていくことは予想できている。
大きめのマスクをつけ、ベレー帽を深くかぶり、隣の車両からスマホをいじる彼の背中を凝視した。
正しい行為ではない。このことが彼にばれたら幻滅されるに違いない。その考えが頭に浮かぶたびに歯ぎしりをした。
こんな行動をさせた彼が悪いのに!
三つ目先の駅で下車し、東出口に向かう彼を人混みをかき分けながら追いかけた。
彼が改札を出た後、名前を呼ぶ女の声がした。やはり、レンタルビデオ屋で出くわしたあの女だった。
「待った?」
いつも私には言うことのない思いやりのある言葉をかけた。改札の向こうからじっと二人の様子を観察した。私は人からどんな風に見えてるのだろう。きっと、彼の彼女にふさわしいのはあの女で、私こそ彼のストーカーのように見えるのだろう。
「少しだけ待ったかも」
「予約してくれてるんだっけ」
「うん! おいしそうなイタリアンの店見つけたから、あなたと行きたいなあって」
彼は鼻の下をのばしている。
二人は私より恋人としてふさわしいなりをしているのに、二人の間には少しの距離があった。手をつなぐことも、腕を組むこともしない。
だから、彼が浮気していると言い切ることができない。
地下鉄の東出口の階段を上っていく二人を見届けた後、私も改札をくぐって、いつもより何倍も遅い速度で歩きながら追いかけた。
二人がイタリアンレストランで食事をしている間、私はその真横にある全国チェーンの喫茶店でお茶をした。窓際の席がちょうど空いていたので、そこで座り込んで二人が出てくるのを待つ。おそらく一時間か二時間で出てくるだろう。
予想通り、二人は一時間半ほど経った頃に出てきた。私はすぐに会計をすませ、砂糖が溶けきらずに沈んだカップを捨てた。
それからも、二人は触れ合うことはなかった。
ただ、彼の目は、恋をしているそれだった。
彼女はその目から極力目をそらしているように思える。そんなぎこちない二人の関係が、たった三十センチの空白なのかもしれない。
あの彼女が眼中にないなら、私が心配することなんて何も無いじゃないか。いや、そりゃあ、私以外の女性に恋をしていることが不快だけれど、でも、二人が肉体的もしくは精神的に別の方向を向いているならば、彼が私から離れることなんてないだろう。
そうはわかっていても、心は落ち着かなかった。その感情をうまく消化できずにもやもやとした不快感は増した。二人の複雑そうな表情やたった数センチの距離が余計に腹立たしい。
「あなたは私のことが好きなの?」
信号待ちのとき、彼女は聞いた。
「そんなわけないよ。俺には彼女だっているし」
「うん。そうだよね。私のことが好きなわけ無いよね」
彼女は目を伏せた。
「君はどうなの?」
「わたし?」
「そう。僕のこと、どう思ってる?」
「そりゃあ……今は内緒」
「なんだよそれ」
彼女の顔は赤らんでいて、物語のヒロインのようだった。そうか、彼女も彼のことが好きなのだ。
私は愕然とした。信号が青になったのを確認して、二人の向かう反対方向へ歩いた。
恋愛経験の少なさを恨んだ。
私は彼がはじめてで、彼のことしか知らなかった。でも、あんな表情をした彼を見たことはなかった。だから、悔しさと悲しさと、ささいな独占欲が胸の内をぐるぐると気味悪いリズムで巡りまわった。
地下鉄のホームで電車を待つ。少し足を踏み出せば自分の息の根を止めることができる。なんて考えるばかばかしさ。
「黄色い線の内側までお下がりください」
アナウンスがホーム中に響いたから、小心者の私はいつも通り内側に下がった。
生ぬるい風が髪をなびかせた。百合の香水の香りが鼻をくすぐる。彼が前から好きだと言っていたあの香水の香りがした。あの女と同じ香り。
あんな女の前じゃ、この香水の意味なんて微塵もないのだろう。
私がどれほど努力したって……あの女と重ねられるだけなのだろう。
恋の寿命なんていうものがあると、ネットサーフィンをしていると見つけた。
人間の脳の構造上、恋の状態が続くのは三、四年ほどしかないらしい。その後も、恋愛ホルモンらしきものの分泌は続いてはいるが、恋のはじまりの絶頂期ほどではないらしい。
だいたいのカップルは三年以内に別れるというし、あながち間違ってもいないのかもしれない。
しかし、だとしたらたった三年を超えたらみな倦怠期ということになる。惰性だということだ。そんなのってあんまりじゃないか。
そもそも、現代の一夫一妻制が生物に非合理的なのかもしれないけど、先進国の法律が整った国に生きている以上、どうすることもできない。
待てよ。私はいちばん重要なことを忘れている。
恋の定義を私は知らない。
皆、恋と言う言葉を意味を考えもせずふわふわとした意味のまま、使っているが、実際の理想的な恋というものはなんなのだろう。
なんなのか、結論なんて出ないだろう。
でも、言い切ることはできる。
私は彼に恋をしているということ。
休日にエー子と喫茶店で話した。
「そんなに嫌なら別れたらいいじゃない。また次があるわよ」
さばさばと割り切ってしまえる彼女を尊敬した。腕と足を組み、ブラックコーヒーを啜る彼女の赤い唇を一瞥して俯いた。
「でも、私はまだ彼のことが好きなんだもの」
「相思相愛じゃない恋人関係なんてむなしいだけでしょうに」
「でも、彼が私と別れないってことは、やっぱ一番は私なんだと思う」
「あのねえ」
きれいに巻かれた茶髪に指を通した。
「男って単純なの。あなたがそうやって我慢してるのを平気なのだと勘違いしてるんだよ。いい加減わかりなよ。都合の良い女になってるだけなんだよ」
私はフラペチーノを一口飲んだ。
カフェインのせいか、それとも緊張のせいか手が震えていた。その震えを自分の左手で抑えることで精いっぱいだ。隣り合わせに座らなくてよかったと安堵した。
「でもさ、本当に決まったわけじゃないし。もう少し様子見てみるよ」
「そっか」
「うん。そうする」
「あなたが良い方向へ進むことを祈ってるよ」
うん。と答えた声が、自分の声じゃないようだった。
自宅に向かう地下鉄のホームに立っていると、背後から声をかけられた。その声は、いつか聞いた可愛らしい声。振り向くとやはり予想していた相手がいた。彼女だった。
「いつもお世話になってます」
その台詞は私が言うべき言葉なんじゃないか、と眉をひそめた。
「そんなに言うほど一緒に遊んでいるんですか」
「彼、何も言ってないんですか」
「飲みに行くとしか言ってませんよ」
「ああ。そうなんですか」
唇に指を当てたまま、誰もいない向こう側のホームを呆然と見ていた。
「飲みに行っているだけですから、本当に安心してください」
その棒読みに安心できる恋人がいるなら私は一度話してみたい。
「あなたは、彼のことをどう思ってるんですか」
「どうって」
「人として、一人の男性として」
ぎこちない表情だ。目をおどおどとさせて、落ち着きのない彼女を、私ははじめてみた。
そんなに話してもいないけど、彼女は常に余裕があったのだ。
「そりゃあ、尊敬していますよ。仕事もできますし、上司として優秀です。男性としてって好意を抱いてるか否かの話ですか? 私は彼女のいる男性を寝取るようなことはしませんよ。彼はどうか知りませんが」
そうか、この人は彼の部下だったのか。
「そうなんですか」
言及するのもどうかと思った。ただ、この言い方じゃあ、まんざらでもないのだろう。いくら上司とはいえ、男が気があるのに頻繁に飲みに付き合ってるということは、彼女も気があるということだ。
寝取りはしない。と理性ではブレーキをかけていたとしても、それはあくまで理性の問題だ。それとは別に本能が存在する。
「黄色い線の内側にお下がりください」
彼女は黄色い線の一歩前に立っていた。でも下がろうとはしなかった。自分が落下することはないという根拠のない自信があるのだろう。
一歩下がる私とは違うのだ。彼女は。
彼女は一駅先で下車した。私は真っ暗に染まった窓の外の風景を眺めていた。時々疲労しきった女の顔が見えたが、それからは目を逸らした。
なんて酷い顔をしているのだろう。この世の絶望を見たような、そんなありふれた文句がお似合いの顔だ。
別れたくなんかない。
でも、相思相愛じゃない関係なんて健全じゃない。
わかっているのだ。私が彼にすがってるだけだということくらい。
彼がほしい。彼のすべてがほしい。恋愛は、そういうものじゃないのか。
欠けているものを求めるものじゃないのだろうか。何が不健全なのだ。何が依存だ。
ふざけている。ふざけているわ。人ことをそうやって決めつけて、彼だって愛情があるに違いないもの。
そう、だから別れないに違いない。そう、信じなきゃ、壊れちゃう。
たった三駅先の距離がいつもより長く感じた。
うちに帰って、私はテレビをつけた。くだらない番組を見て、くだらないから笑った。
こうしているときのほうが、気持ちが楽だ。何も考えない時間はなんて愛しいのだろうか。
晩御飯はコンビニで購入したお弁当で、チューハイを一杯だけ開けた。桃の味の安い缶チューハイ。
ぷしゅ、と音と香る人工的な桃の香りはどこか懐かしさを感じた。そういえば、彼も桃の味が好きだったなと思い出す。
座椅子に胡坐をかいて弁当を食べながら、Twitterのタイムラインとテレビを交互にみる。
チューハイが半分くらい減った頃、彼から着信があった。
「今何してる?」
優しい彼の声だ。思わず顔がほころんでしまう。
「今晩御飯食べてる。コンビニで買ったの」
「珍しいね。いつも自炊するのに」
「たまにはね」
「そういえば、今日会ったらしいじゃん」
うん。とつぶやいた。
知ってる。その話を聞くために電話をしたんでしょ?
「聞いたの?」
「うん。さっきラインしてたんだ。教えてくれてさ」
「仲がいいんだね。もしかして、彼女のこと好きだったりする?」
彼は黙った。
私は黙ることを許せない。だから、口を開いた。
「正直に言ってよ。本当はどう思っているの」
聞きたいのは「一番は君だよ」の台詞だけだ。
「僕は」
「もったいぶらずに言ってよ」
「何もしてないよ。あの子とは」
「私は、気持ちの話をしてるの。セックスとかキスとかそんな話はしてないよ」
「うん……ごめん。僕はあの子のことが好きだよ」
「そっか」
「あの子も、きっと僕のこと嫌いじゃないんだと思う。でも、あの子は彼女がいる俺とは何もしたくないって」
「何で私と付き合ってるの」
もう、この際どうでもよかった。
「君とは長い付き合いだし、今更別れられないし、情もあるから。君のことが嫌いなわけでもないし。僕のこと、すごく好きなことが伝わってくるから」
「別れられなかったの」
「うん。別れるつもりもないよ。あの子と会うのが嫌なら、もう会わないようにするから」
ぜったいに、誓って言える。会わないで済むわけがない。だいいち、会社の部下ならば会わずにすむ方法
なんてないだろう。
「じゃあ、転職してくれるの?」
「どうして」
彼はあの子が自分の部下だと知らないと思い込んでいたのか。
「会社の部下なんでしょ」
絶句したような息遣いと沈黙。なんて憎らしいほどにわかりやすいの。
「そうだよ。知ってるんだね」
「転職してくれるの?」
「それは難しいよ。今の会社は給料も良いし、条件も良い」
「じゃあ、無理じゃない」
私が責めるたびに萎縮していく彼を目前にしなくて良かったと思った。そうしたら、これまでの思い出まで灰色に染まってしまいそうだったから。
さっきまでの独占欲は一体なんだったのだろう。そもそも、あの感情は恋だったのだろうか。それすら怪しい。
「ごめんね。今度何かプレゼントするから」
続けようとする言葉を無視して私はこういった。
「別れようか」
鼻をすする音が聞こえたような気がしたけど、無視して電話を切った。