読書体験における奇跡(ハーマン・メルヴィル『白鯨』を読んで)
桂川緑地公園に行ってきました。
さすがに昨日の雨で花は散り、葉桜になってましたが、これはこれでという感じ。桜色の絨毯が綺麗なのと、人の少ないのが何よりです。
私は桜並木のある土手からJRの鉄橋を背に、北の方角を望むのが好きです。正面は桜の回廊。左手に桂川の川辺ヘと下っていく菜の花の遊歩道、はるか遠くには嵐山と愛宕山の峰々。そして右手には散った花びらを水面に浮かべ、その色を映しとどめる天神川の流れ。
どちらかというと京都っぽくない、山陰・北陸地方の趣きのある雄大な景色は、とてもカメラに収まりきれるものではありません。
2組のカップルが別々のエージェントに伴われて結婚写真を撮っていました。菜の花の遊歩道には純白のウェディングドレスを着た花嫁が、3メートルはあろうかという裾を垂らしており、桜の回廊には中国系のカップルとエージェント。国際的な名所になったものです。
さて、メルヴィルの『白鯨』ですが、最初は阿部知二訳の岩波旧版で読みました。博物的記述が多く、ずいぶん骨が折れました。瀬戸内寂聴の「小説とは男女の愛を描くもの」という定義によれば、果たしてこれは小説か、といったところですが、イシュメイル(私)とクィークェグの微妙にホモセクシャルな関係が、かろうじて小説として成り立たせているのは理解できました。
真髄を喝破した気になり、文庫本3冊を処分しました。ところがそれから2、3年経ち、突如としてこの作品が私の意識に浮上してきたのです。ディテールなどとうに忘れているはずなのに、ある一節が私の心を捉えて離さないのでした。それは98章の「積み込みと片づけ」のくだりです。捕獲した鯨をどうやって処理していくかを描いたこの短い章で、メルヴィルは『白鯨』の要諦をさりげなく吐露しています。八木敏雄による岩波文庫新訳から。
「ところで、このくだりの記述をしめくくるために最後の一章までもうけて、わたしが語りたい――いや、歌いあげたい――ことというのは、この油を樽づめにして船艙に収納するロマンティックな過程なのである。」
『白鯨』が鯨をめぐる叙事詩であることを、主人公イシュメイルの言葉を借り、作者自らが表明している部分です。
鯨とは何ぞや。それは単なる嘱目ではない、我々が意識の底深く沈潜すれば、赤ずきんちゃんや眠れる森の美女と同様、人類の集合的無意識に組み込まれた属性としてリアルに出会える。
なので読後2、3年経って、ふいに白鯨が深海から海上に浮上するごとく意識の表層に出現したとき、私は心底驚嘆したのでした。