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5月 3日(土) 蛇足

「女の匂いがするよ、飯野クン」

「篠山。お前もおん――」

「では言い方を変えるよ。他の女の匂いがするね、飯野クン」


 篠山はいつもより早口に喋る。

 彼女が来たのは希天が帰ってから2時間ほど後だった。通院がてら顔を出したらしい。水色のキャミソールにピンク色のパーカーを羽織り、七分丈のデニム地のパンツといった前に遊びに出かけた時に比べて活発なイメージを想起させる格好で篠山は鼻をすんすんと鳴らしていた。


「看護婦さんのとかじゃ?」

「ボロをだしたね、飯野クン。看護婦さんは基本、香水NGなんだよ。つまりキミも第三者の匂いを認めたってことさ。さぁ吐くがいい。今なら半額セールでケンカを売ってあげよう」

「いやいやケンカ買わないから。それに篠山には関係ないだろ!?」

「関係ない……。確かにそうだが」


 挙動不審、いつものような気取った仕草に扮する気配も無い。どこか頭でも打ったのだろうか、伊之助が心配して首をかしげると篠山はさらに挙動不審になっていく。


「お前を探すのに一緒に付いて来たお人好しだよ」

「ん?」

「午後に見舞いに来てた寮の住人。篠山が言ってるのはたぶんソイツのことだろ。俺の鼻には何も臭わないけど」

「しかし、この香りは姫浜椛のでは……」

「篠山、お前は犬かなんかなの?」

「キミが鈍感なだけだよ。もう少し敏感にならないとこの先、苦労する。そうだ、そうに決まっている」

「考えとく。それで怪我とかはだいじょうぶなん?」

「ああ、そちらの方はなんとも無いよ。探しに来たキミのほうが大怪我とはドン臭いね。それに眼帯。今度は左眼に付けて、本格的に目覚めたのかい?」


 篠山が指差すのは伊之助の左目に付けた眼帯。その奥には無理矢理こじ開けた霊子回路サーキットの影響で紅く光る瞳が隠れていた。それに伊之助の右手や左手も火傷が酷く、指先まで包帯でぐるぐる巻きにされている。


「ちょっと強く打っただけだよ。腫れてるから間違っても触ろうとするなよ?」

「それはフリかい?」


 篠山は伊之助が心底面倒くさそうな視線を向けてくるのに「冗談だよ」とおどけて返す。


「しかし、我ながら旧校舎の中で転んで失神とは情けない」


 少なくとも篠山にはそういうことにしてある。意識があるうちに経験した出来事も勝手に折り合いをつけて日常へ戻っていく。それが彼女にとって一番だと伊之助は思っている。


「……笑わないで聞いてくれるかな?」


 だから、その言葉にぎょっとした。篠山に何か読み取られただろうか? 不安になって知らず内に右手を胸にあて一呼吸。だいじょうぶ、上手くやれる。


「笑わない」

「そっか。約束したよ?」

「だって、何でもひとつだけ言うことを聞くって約束したじゃないか」

「そうだね。もう果たされたと思っていたけど、まだその約束は生きていたんだね」


 篠山は囁くような声で独白する。そして伊之助をじっとみた。それは真っ直ぐ、真剣で、応える伊之助も相応の覚悟を求めていて――、覚悟した。


「夢の中で私はキミとケンカをしていたんだ。夢の中のキミは木刀を持っていて、それがすごくサマになっていた。けれど、女の子に木刀を向けてる時点で格好良さは差し引き0だ」

「マイナスにならなくてよかった」

「夢の中のキミは私だけとケンカをしていたはずなのに、途中から可愛い女の子が現れる。夢の中のキミは私のことなんか忘れてソイツの名前を呼んでしまうんだ。もうありえないね」

「そんなに軽薄かね」

「夢の中のキミは途中から別の相手とケンカをし始めてしまうんだ。私なんかそっちのけでね」

「ずいぶん血の気が多いな、俺」

「その相手はなんとあの姫浜椛さ。夢の中の彼女は刀を持っていてね、痺れるくらいに格好良かった。私が男なら放っておかないね。彼女はすぐにでも誰かに貰われるべきだ」

「危なっかしいしな、誰か貰ってやって欲しいよ」

「飯野クンは立候補しないのかい?」

「釣りあう気がしない、それより話したいのは夢の話じゃないのか?」

「……おっと、そうだった。夢の中のキミは姫浜椛と互角に打ち合うんだ。それも真剣と木刀だよ。正直、イかれてるって思ったね。でもそんな無茶もキミが夢の中の私を守るためなのさ。夢の中の出来事ながら不覚にもときめいてしまったよ」

「あとで高越こうつに謝っておこーなー」

「……。まぁ、夢の中のキミは結局、姫浜椛に負けてしまうんだけどね」


 相づちを求めるように篠山が沈黙するがそれに伊之助は応えない。何を言っても間違えそうで迂闊に口を開くことも出来ず、ただ真っ直ぐ横に口を結ぶ。


「……夢の中の私とキミは再びケンカするんだ。不思議なことに私の方が劣勢でね、いつになく狼狽していた。現実のキミに遅れを取った事なんか無い筈なのに不思議だね」

「夢の中でくらい勝たせてやれよ」

「夢の中のキミはとても必死だったよ。現実じゃあんな顔を見せてくれないのにね、不思議な感じだよ。そして夢の中の私は負けてしまうのだけど――」


 篠山はゆっくりと伊之助の顔に右手を伸ばす。


「夢の中のキミは左の瞳を紅く腫らして泣いていたんだ。一矢報いてやれたつもりさ」


 篠山の右手が伊之助の眼帯にかかる。


「ねぇ、キミの瞳はいま何色なのかな?」

「……」


 篠山の手を払うのは簡単だった。彼女の手を払えば夢は夢のまま終わる。しかし、このまま眼帯を取られてその奥にある瞳の色を確かめてしまえば――、


「……なんてね。夢の中でもケンカするほど私はキミのことをよく思ってないらしいぜ?」


 気をつけなよ、なんて付け加えて篠山は伸ばした手を引っ込める。茶化した台詞はこの話はおしまいだと告げるようで、伊之助はどんな顔をすれば正しいか判断出来なかった。ただ、まぁ、なんとなく笑おうと、篠山がするように笑っておこうとぎこちなく口の端を吊り上げた。


「なぁ、篠山。今度のことで思ったんだけどさ」


 篠山が首を傾げる。次の言葉を待つ間、彼女はじれったそうに足をぱたぱたと揺らした。


「……アドレス交換してくれないか?」

「ふーん」

「便利だろ?」

「ふーん」

「電話番号だけでもいいからさ」

「ふーん」

「また、ダメか?」

「……いいよ。私だってキミに恩義を感じてないわけではないしね。それにキミのような奴でも男がそこまで頼み込むっていうのは女冥利に尽きるというものさ」


 篠山は思い存分伊之助の表情を堪能し、にやけそうな口許を必死に支えながら携帯を取り出す。


「ほら、こちらは準備OKだよ」

「おう、病室だけど……まぁ、問題ないよな」


 伊之助も携帯を操作して互いにアドレス交換を完了する。


「っし」

「ん、なんかミスでもあったか?」


 篠山の漏れた声に首をかしげると相手は慌てて「なんでもない」と繰り返した。

 伊之助は特に気にも留めず新しく増えたアドレスを確認する。


篠山ささやま彩加あやか


 そういえば、彼女の下の名前など覚えてなかったな、と伊之助は何気なく思う。


 ――最後に彼女が死んでいればもっと酷いことが起きていただろう。――


 不意に脳裏に浮かんだ汐江の言葉。


(最後に死……。言霊……。彩加……あやか……死?)


 手元にあった汐江のメモ帳をくしゃりと握り潰す。

 もし、言霊が力を持っているとするなら……。伊之助が今回の霊災の予兆に惹かれたのが言霊のチカラだと言うのなら……。

 最後に篠山が死ぬことで新しく"あやかし"が産まれていた?

 自分の取った薄氷を踏むような行動にぞっとした。やりあった篠山は本来の霊災じゃなく予兆で、霊災は彼女が死ぬことで成立して……、もっと出鱈目な怪異――あやかしが産まれてた?


「飯野クン? 人のアドレスを見てトリップされるのは心底気持ち悪いのでやめてくれないか?」

「いや、たぶん顔面ブルースクリーンだったと思うぞ? 病人だし気遣ってくれないか」

「そうかい? 青ざめると言うよりは興奮していたように見えたけどね?」

「ん……。それじゃ篠山のアドレスは俺の中の評価以上に嬉しかったんだなー」

「ば、馬鹿じゃないのか? キミはそんな風に軽々しく浮ついた台詞を言うやつじゃなかった筈だ」


 言葉とは裏腹に篠山は顔を真っ赤にして口許を緩めている。言葉と態度に極端な開きがあって、伊之助もこれをフォローする気は起きない。


「嬉しい時は嬉しいっていうもんだ」

「生憎、私はそこいらのちょろい奴とは違うんだ。アドレス交換くらいでいい気になるんじゃない」

「そーかい。まぁ、いつも通り頼むわ」

「それはキミの心がけ次第だね」


 適わない。飯野伊之助は篠山彩加には適わない。

 伊之助はその事実を素直に受け止め、同時にため息もついた。何故か篠山も一緒にため息をついて機せずそれは2人同時に重なった。


「それじゃ私は帰るよ。母を待たせているしね」

「じゃ、また学校で」

「そういえば、キミはいつまで入院生活を送るんだい?」

「GW終了日までだよ」

「なるほど、なら暇だろう。暇ならば、時々ならメールを送ってきても構わないよ」


 篠山は伊之助の言葉を待つことなく病室を去った。いつになく饒舌だった彼女に釣られて病室はとても賑やかだった。だから、その後に襲ってくる寂寥感はより際立った。


「サスケ。お前が相棒でよかった。俺もお前と過ごした時間、結構楽しかった。たのしかったなぁ」


 もう返ってこない相棒の声を勝手に期待して、勝手に失望して、伊之助は篠山の代わりに喪失したものをやっと受け止めて独りで泣いた。


ヒロインはサスケ。

以上をもって完結します。

最後まで読んでくださった方々、本当にほんとうにありがとうございました。


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