4月28日(火) 昼 跳梁跋扈3
椛を先頭に天野ビルへ入ると、伊之助は目の前に広がる光景に思わず声を漏らしそうになる。
そこらじゅうの空間に亀裂が走り、まるで現実性を感じさせない。CG加工された風景をリアルタイムで見せられていると言われれば納得してしまいそうになるほど酷い。
「姫浜先輩。昨日の旧校舎の不意打ち覚えてますか?」
「突然、幽世の輩が出現した奴だね。覚えてるよ、まだ少し腫れが残ってるし」
「……驚かないで聞いてください」
伊之助はそこで一旦言葉を区切った。椛に話しかけているはずなのに、どうしても視線は眼前に広がる空間の亀裂に吸い寄せられる。彼女達も伊之助の行動を不審に思ったのか視線の先を追うがそこには何も無い。
「――いま、ここにあの時と同じ状況が再現されています」
賢明な彼女達は伊之助の言葉が終わらぬうちに戦闘態勢に入る。しかし、発言主が微動だにしないことに不審を覚えたのかその警戒を緩め始めた。
「すぐに何か起きるって訳じゃないと思います。空間に亀裂みたいなのがありますけど、どれも小さい。それだけが理由なので確証には程遠いですけど」
「そう……。でも飯野君、アナタの見ている亀裂は本当に存在するの?」
「昨日の夜、関谷はそれを破壊しただろ。見えなくても手応えみたいなのはあったんじゃないのか?」
希天は昨日の事を思い出したようにあごに手を添えて目を伏せて黙る。
「つ、ま、り。幽世と繋がる可能性のある場所がイノ先輩に見えてるってことですか?」
「まぁ、そうなる」
「亀裂にも大小が存在するの?」
「昨日は亀裂が広がって最終的には2m近くになりました」
「……どう思う?」
前例がないのか、伊之助がもたらす情報に困惑したように椛が残る2人の表情を窺う。2人とも聞き覚えが無いようで反応はよくない。
「そこで提案ですけど、無闇に探索するより俺の目を信じてみませんか?」
「それは君の言っている亀裂を探すということ?」
「はい、入る前に目星付けるって言ったじゃないですか。一応、これが視えたのが根拠だったり……」
何も無い場所を指差す伊之助を胡乱な目で見つめる女性陣に気圧されるも、何とか踏みとどまって「どうかな」という感じで愛想笑いを浮かべる。
「よし、その方針で行こうか。私は経験則で厄介な場所に陣取ろうと思ってたけど、現状を追える人がいるならそっちの方がよさそうだし、ね?」
椛が2人の意思を確認するように視線を向けると、どちらも勢いに釣られて頷く。
「じゃ、決まり。フロアの鍵は君に預けておくから怪しそうなところをじゃんじゃん探していって」
押し付けられた鍵束に目を落とす。自ら申し出たとはいえ、いきなり責任ある立場に立つとは思わなかった。昨夜の司令塔役の委譲といい、椛はスキあらば現場指揮権を伊之助に押し付けてきているように思える。
元より、そういう役回りが苦手なのかもしれない。いつかの夜、椛が堰を切ったように吐き出した愚痴。アレをすべて本音だと受け取るほど伊之助は性格は歪んでいない。けれど、椛なりに悩んでいたのだ。前回の霊災における被害。先輩としての在り方。家のしがらみ。最善手を模索した結果、白羽の矢が立ったのなら――、それでいくらか彼女の負担が減るのなら応えるのが筋だ。
「じゃ、1階から順に回っていきますね。エレベータ付近は亀裂が多いので出来るなら迂回してください」
「ちょっと、そういうことは先に言ってくださいよー。うっわ、視えないのが気持ち悪い……」
丁度、エレベータの壁にもたれかかっていた藍が飛び跳ねるようにその場を離れ、依存先を壁から希天へと移動させた。希天は藍にブレザーの袖を引っ張られる状況にいくらかの戸惑いを見せている。
「鹿島さん、動き辛い……」
「えっと……すみません。関谷先輩」
「いえ、別に……。邪魔にならなければ――」
藍は希天の言葉が終わらぬうちに手放したその手を彼女のブレザーの裾へと移す。希天もその様子を見て少し目を泳がせ、安堵したように息を吐いた。
「ちなみに姫浜先輩。1階はどんな会社が入居してるんですか?」
「……そうだね、物流関連らしいよ」
伊之助は受け取った鍵束から1階のプレートが付いたものを摘むと、扉の上下にある鍵穴に差しこみ解錠する。元より電子ロックによって制御されている扉だが、椛があえてゲスト用の入館証を用意しなかった意図は何だろうかと思う。
「飯野君は随分慣れた様子だね。普通は扉の取っ手に鍵穴があるかどうか探すものでしょ?」
「この手の扉に触れる機会に恵まれたので」
かつての寮を脱走するために頻繁に利用したので覚えたとは口が裂けても言えない。曖昧に答えて扉を押すとバスケットコートほどの広さのフロアが姿を現す。伊之助の目に映る空間の亀裂はビルの入口よりも数が少ない。
「イノ先輩、どんな感じですかねぇ?」
「鹿島は結構余裕あるんだなー」
「めっちゃテンパってるじゃないですかー」
「そうだよ、藍ちゃん、怖がってるでしょ」
恐々と後に続いて1階のフロアへ足を踏み入れた藍が繕った声で問いかける。
心底図太い性格をしていると伊之助が呆れると、藍の抗議とそれを擁護する椛の声が続く。伊之助が藍を一瞥すると少し居心地が悪そうに彼女は視線を逸らした。それらしい振りをしてアピールはするが、心底心配する上級生を騙して平気でいられるほどの器量は備えていないらしい。
「――そうですね。ここはビルの入口よりはぜんぜん安全っぽいです。最悪の場合はここに逃げ込めるように扉を開けっ放しにしておきましょうか」
「予め、その亀裂を破壊しておくことは?」
「現在進行形で増えてるし、その時間は元凶を探す方に使った方が建設的だよ。関谷」
伊之助は手近にあるダンボール箱を引きずってドアストッパーの代わりにすると、アラーム音を鳴らし続ける入口の機械を無視してフロアを出た。
「階段を使った方がいいですよね? 姫浜先輩」
「そう……だけど、いいのかな。アレ」
椛が、そして残りの2人も躊躇いがちにアラーム音の鳴り続ける扉に視線を向けている。伊之助は頭をかくと上手い言い訳を考えようとして――、止めた。
「姫浜先輩、俺達に求められてることって霊災を鎮めることですよね?」
「まぁ、そうだね」
「大事の前の小事。この際、そういうのは気にするのやめましょう」
「……君は何というか――、変わってるって言われた事ないかな?」
2階への非常階段を探す伊之助の背を眺めながら、椛は言葉を慎重に選んで異常性を諭す。彼の言っていることは正論だ。しかし、そんな風に割り切れる人間など普通ではない。言い方を変えれば狂っている。
「――ジェットコースターみたいって友達に言われたことはありますね」
「……飯野君。アナタ、そのお友達を大切にしなさい」
「なんだ、突然?」
希天はその友人のこれ以上無い例えに感動すら覚える。彼の行動――、ゴール地点が定まったら経路――、この場合は手段がどうであれ躊躇無く振る舞う傍若無人っぷりは、ジェットコースターそのものだ。そして彼の本性を知ってなお、近しい立ち位置でいることを選んだのは……。
「いいえ、深い意味はないわ。それに少ないお友達なのでしょう?」
「一言多いよ。少なくなんかねーし……」
「イノ先輩、よっ友も友達のうちですしね」
「鹿島、ちょっと可哀想な子を見るような目でこっちを見るな。おい、やめろ」
気が付けば藍が希天の傍を離れて伊之助の隣を陣取っていた。椛はところてん方式で居場所を失い、彼に対して似たような感想を覚えたと思わしき希天の隣へ近づき軽く袖を引っ張る。
「飯野君は――、本当に偶然だったんでしょうか?」
意外なことに希天から口を開いた。彼女の台詞には省略された言葉がある。『あの夜、旧校舎にに迷い込んだのは』という状況語。
そして、彼女の揺らぐ瞳が仄めかすのは狂人であるがゆえに誘われたのではないか、はたまた自我を持つ霊装にその身を侵されきってしまったのではないかという予想。
「それは無いと思うよ。お友達曰く、前々からああいう性格だったみたいだし……。心配なら希天ちゃんがブレーキ役になってあげれば?」
「え、いや――!?」
「私じゃ止められそうにないし、藍ちゃんは懐いちゃってるし、入院している2人も私と似たようなところあるし……ね?」
希天は完全に逃げ道を失った。椛の言葉は正しい、己への評価は過小評価しているように思えるが、それ以外に関しては希天の見立てと概ね合っている。
だとしても、ブレーキ役……。
希天の視線の先には非常階段を見つけたらしい伊之助の後ろ姿。椛の目論見によって着々と素人であるはずの彼が部活の中心人物に納まりつつある。それ自体に不満はない、彼の一歩間違えれば狂人ともとれる判断力に基づいた的確な指示は心強い。司令塔である椛を欠いた戦闘での実績もある。
それと同時に――
「まぁ、片隅に留めておいてよ。希天ちゃんの真面目なところを頼りにしてるからさ」
「椛先輩」
椛は思いに耽った希天の背中を軽く押すと、彼女を置いて非常階段へと向かう。希天に言い訳をさせる余地など与えない椛の行動は横暴ともいえた。背中に感じる視線を気にかけながら非常階段を上る。先頭を行く伊之助の行動に戸惑いはなくその足取りもしっかりしている。
「2階に入居している会社は何でしょうか?」
「保険の営業所が入居してるよ」
「姫浜先輩が渋い顔した奴ですね……」
非常階段からドアを開け、1階の時と同じ手順を踏んで2階のフロアへ入る。伊之助の前に広がるのは予想とは異なり綺麗だった。亀裂塗れかと思ったがそんな様子もない。フロアにはオフィス用デスクが整然とならんでおり、何箇所かに人影が残るだけだ。
「……どうですか、イノ先輩?」
「いや、別になんとも……。人影が見えるくらい――」
「は? ビルは避難済みで誰もいませんよ? どこを見てるんですか?」
藍が伊之助の背中を睨むと、彼も彼女の言葉にそう言えばと人影の存在に疑問を抱く。伊之助は3人にその場で待機するよう言うと人影の1つに近寄り、その正体に呻いた。人影と思ったものは亀裂が幾重にも重なっているだけだった。それが線が実像をなすほど大量に隙間無く犇めき合っている。
亀裂の正体が何であれ、密集したソレは生理的嫌悪感を抱かせるには十分で、伊之助はこれ以上正視することを諦める。
「人影じゃなくて小さな亀裂の塊だった……」
「うわっ、きもい。よかったです。あたし、視る能力なくて」
「もう少し、労わってくれんもんかね。精神的にクるものがあるぞ……」
「飯野君。それって特定の場所……。誰かの席に集中していたりする? そうだなぁ、傾向としてはデスクの上が片付いていて、そこにいるイメージが希薄なトコとか」
椛に言われて改めて人影のあるデスクを見直すと、だいたい彼女の言うとおりの傾向がある。
「その通りですけど、姫浜先輩はどうして分かったんですか?」
「なんでだろうねー。気が向いたらそのうちゆっくり」
「気になる言い回しですね」
「……大きな亀裂が無いのなら先に行こうか。出来ればここには居たくないし」
椛は追求を避けて真っ先にフロアから出る。
保険の営業所、集中する亀裂、片付いたデスク、材料はこの3つのみ。伊之助は亀裂の正体が掴めたような気がした。要するに亀裂は日々のストレスのはけ口先を表しているのだ。エレベータの周辺に集まっていたのはビル利用者が集中しているから、先程の人影は会社で偉い人の座席だから。
そういう場所に亀裂が生まれるのなら、もう少し効率的に探索が出来る。ただ、亀裂が浮かぶ条件は分かったが、肝心の亀裂が大きくなる要因が掴めていない。残る3フロアでそこまで解析出来るだろうか? 伊之助は多少の不安を覚えながら2階のフロアを後にした。




