4月25日(土) 昼 少年覚醒3
伊之助は指示されるがままに検査という名の作業を淡々とこなしていく。
始めは身体計測、視力、聴力などの何の変哲もないものでスムーズに済ませる。
次にスポーツテスト、診療所内にあるスポーツジムに似た場所で50m走や持久走、握力、立ち幅跳び、ソフトボール投げといった学校で年1回は行うので体験はあるが割と珍しいもの、すべてを要領良くとはいかず、持久走だけは息が上がって伊之助はしばらくの休憩を懇願した。
そして最後にESPテストというまるで聞いた事のない検査。蓋を開ければ、そう面倒な内容ではなく、カラーホイールから当てずっぽうで色を選ぶだとか、裏返しのままのカードから指定されたものと同じものを選ぶ、みたいな伊之助でも聞いた事のあるいわゆる超能力の証明を行うものだった。
一通り検査を終える頃には昼を少し過ぎたくらいになっていて、伊之助はスポーツテストの時に用意されたジャージ姿のまま診療所のロビーへ向かう。係員の人が言うには昼食を用意してくれているらしい。
伊之助がロビーに着くと長椅子に仰向けに横になってぐったりしている小さな影を見つけた。
「鹿島、調子でも崩したのか?」
遠目から声をかけてみるが返事はない。ただ反応はあり、藍の体が僅かに震えた。
伊之助は藍に近づくかどうか悩み、結局は近づくことに決めた。受付で弁当とペットボトルを貰うと、長椅子の空いている部分に腰を下ろす。
「なぁ、鹿島が抱えてる問題を解決出来るつもりはないけど愚痴なら付き合うぞ?」
「……そうやって、誰彼構わず優しくするのは点数低いですね」
「別に稼ぐつもりないし。もう昼は済ませたのか?」
藍は大きく息を吐くと、意を決して上半身を起こし足を床へ下ろす。伊之助はその動作を眺めているだけで何も聞こうとはしない。ただ視線を彼の膝元にある弁当に視線を向けていると、黙ってペットボトルを突き出された。
「ありがとうございます」
「礼はいいよ。それより何かあったんだな。別に話す必要はないぞ、一緒に悩むほど余裕はないし」
「さっきは愚痴くらい聞いてくれるって言ったじゃないですかー」
藍の手元にある新品のペットボトルの蓋は一度開けられていて、特に力を必要としなかった。そのまま勢いが続くまで飲み続け、結局3分の1ほど飲み干したところでペットボトルから口を離す。
「……まぁ、ちょっと色々言われてへこまされていたところなんですよぉ」
「あるある。大抵は最初のきっかけと関係ない言葉でへこまされるよな。その癖、時間切り取ったみたいに話題が切り替わるから、論理立てて聞いてると余計に混乱して建て直しもままならない」
「後半はイノ先輩の愚痴ですよね?」
藍が伊之助をジト目で下から覗くと、彼は言葉に詰まって視線を逸らす。彼はあまりに正直過ぎる。こうやってそれを逆手にとって遊ぶ自分が罪悪感を覚えるほどだ。
「まぁ、いいですけどねー。確かに先生は全然関係ない事に文句つけてくるんですよ。レポートの書き直しだけで午前中が過ぎちゃいましたし」
「災難だったな。まぁ、アドバイスにしちゃへっぽこだけど、そういう時はきちんと相手のことを観察するといいぞ」
「顔色を窺って媚びるんですか?」
「ちげーよ。それはそれで楽だけど、薄っぺらいからな。簡単に見抜かれる、そして揚げ足取られた挙句、楽してきた分の帳尻合わせをきっちり貰う」
「はー。さすがはイノ先輩ですねー」
伊之助は食事を進めながら藍の問いかけに適当に相づちを打つ。そして時折、冗談に混ざった本音を拾い上げては蓄積、ある程度たまったところで自分の失敗談を回答例代わりにお披露目し、見下された。
「……でも、ちょっと元気が出てきました。もう少し頑張ってみます」
藍はちっとも格好良くない伊之助の言動に感化され、安堵した。先ほどまで抱いていた「どうして自分だけ……」というネガティブのな思考もいつの間にかどこかに吹き飛んで、午前の雪辱を晴らそうという気概が湧いてくる。
「そりゃよかった。ついでだから、このきなこ餅食べてってくれない? 甘いもの苦手なんだ」
「女の子には甘いものって短絡的思考は点数低いですねぇ。嫌いじゃないんで頂きますけど」
「そうなのか。女子は甘いものと可愛いものがあれば上機嫌になってくれるって幻想を抱いていた」
「……イノ先輩は本当に残念なヒトですねぇ」
藍がきなこ餅を食べ終えると、伊之助は言葉とは裏腹に驚いた表情ではなく納得した表情を浮かべていた。この言い表すことの出来ない気持ちを込めて、藍は伊之助に対して精一杯の悪態をついた。
「ごちそうさまっと。じゃ、俺も残りの検査済ませてくる。どうせ時間かかるから待ってる必要ないぞ」
「せっかくだから待っててあげますよ」
「え、マジでいらないけど……?」
「うわ、それ酷くないですか? 本気、冗談、え、ほんき?」
「じゃ、後でな」
伊之助は藍が混乱しているうちにロビーを後にした。
係員に従い、部屋に通されると今度は座学という形で幽世のあらましを簡単に説明される。残念ながら既に実戦を通して椛や希天、サスケから教わったことが殆んどで目新しいものはなかった。
伊之助は話題に上がらなかった霊子回路についての説明も要求したが、情報開示レベルが足りない等というお役所的な台詞で一蹴された。続いて、簡単な心理テストのようなものを受けさせられ、ジャージから制服に着替え終えると、最後に汐江のところへ行くよう言い渡された。
(霊子回路が霊装よりも秘匿されているっていうのが謎だなー)
伊之助は係員に退出を促されながら、説明時の内容を振り返る。
幽世の存在が出自に応じて、鬼やドラゴンのように物理的な存在に近い心力型、火や雷のような自然現象に近い魔力型、そして怨霊や亡霊のように怒りや恐怖といった感情を煽る呪力型、係員はこの分類を集合的無意識がそういう風に決め付けたと言っていた。
集合的無意識については携帯で調べはしたが、いまいちピンと来ない内容ばかりでしっくりしない。ただ、無意識が決め付けるというのは言葉として矛盾しているように思えて、伊之助は納得することが出来ずにいた。
「どうぞ、入りなさい」
「……失礼します」
汐江の部屋の前で立ち止まりノックをしてからドアを開けると、汐江が柔和な顔を浮かべていた。普通の人であれば良い印象を抱くはずのそれは伊之助には警戒色に映った。
「随分、怖い顔をしているね。誰かに何か吹き込まれたのかな?」
「いえ、疲れただけです。検査も楽じゃなかったので」
「そうかね。少し休憩するかい?」
「いえ、続けてください。人を待たせているので」
伊之助は汐江の前にある椅子に座ると、ノートPCで作業を続けている彼がこちらに体を向けるまでしばらく待つ。
「……そうかい。では、手身近に行こうか。飯野伊之助君、今から君の霊子回路を1つ繋げよう」
「そうですか……って、午前中は時間がかかるような事を言ってませんでしたか?」
「午前中は、ね。その時の回答は確かにボクの中でも一番正しい判断だった。
しかし、君は検査を受けただろう。あまりに顕著に結果が出てしまってね、午前の判断を覆すのには十分だったという訳さ」
汐江はノートPCをこつこつと指先で叩きながらにやっと笑う。その悪戯を成功させたような子供を連想させる幼い行為は伊之助の警戒心をいくらかゆるめる。
「詳しい事を聞いても理解できないと思うので、汐江さんを信じます」
「ボクが心変わりした理由なんかを語らせてくれないのかな。最近は誰かに教える事がたまらなく好きでね。出来れば、君のような説明し甲斐のある子に披露したかったんだ」
「説明し甲斐のあると、理解出来るは別の意味ですよね? 若者から貴重な時間を奪わないで下さいよ」
汐江は眉根を寄せ残念そうにしてから、既に用意してあった注射器を手に取る。
「……注射?」
「苦手かね?」
「人並みには」
「ボクの腕を信じなさい。これでも今まで食べた食パンの数より多くの注射器を扱っている」
「朝食は?」
「無論、和食派だよ。高度成長期の西洋かぶれに乗り遅れたロートルな家庭だったからね」
伊之助は汐江の言葉に何の信用もないことを知り身を強張らせるが、相手も既に差し出した伊之助の右手を手放すつもりはない。伊之助が睨んで無言の抗議に打って出るが、汐江はどこ吹く風といった様子で狙いを定めている。
「この注射剤には『自若』と呼ばれる集合的無意識の中にある1つの意識を強く呼び起こす作用を持っている。
霊子回路とは人の素質、素養、可能性を引き出す手段だと説明したが、より正確に言うならば集合的無意識の中の1つを個人の力として扱えるようするんだ」
「難解になっただけで説明になってませんよ」
「霊子回路が繋ぐ力の根源が個人から別のものにシフトしたことは理解しているかい?」
「個人の素質から集合的無意識ってものに変わった事くらいは文字を追えば分かりますけど、集合的無意識自体に説得材料が弱くて……」
「集合的無意識というのは、ある心理学者が提唱した言葉だよ。70億の人類が共通して持つものだ、それだけで個人とは比較にならないほどの規模の力になるとは思わないかい? さぁ、いくよ」
汐江は淡々と喋りながら注射針を伊之助の肘裏に刺すとそのまま注射器の押子を押し込む。
思いのほか痛みはなく伊之助はその様子を他人事のように傍観し、あっという間に注射針が引き抜かれ、僅かににじんだ赤みの上に汐江がアルコールで浸した脱脂綿を乗せた。
「意外と痛くなかった……」
「医者の腕は信用するものだよ。まぁ、単なる皮下注射だったから、ボクの方にもアドバンテージはいくらかあったけれどね」
「それで『自若』って何ですか? 霊子回路の種類が『自若』っていうのは理解しました。具体的に何が出来るようになるんです?」
「目に見えて出る変化は霊視と霊触だね。繋がりが一番細い状態でもそのくらいの力は保証されているよ。他には若干だけど身体能力の向上も見受けられる。……不満そうだね?」
「もうちょっと格好いい能力がよかったなーと。例えば火が出せたり、物を動かせたり、瞬間移動とか」
伊之助は脱脂綿で注射痕を軽く押さえながら、よくある漫画の主人公が持っている能力を並べていく。
汐江はその滑稽さに思わず声を出して笑った。
「ははは、君はいい意味で子供だね。しかし、そういった突飛な能力が顕在する事はあり得ないよ。何しろ力の根源は人類の集合的無意識だ。君が挙げたような現象を人間が出来ると思うかな?」
「いや、思いませんけど……。でも、火とか念力みたいなのは0じゃないかなーと思ったり」
「だろうね。この業界にはそういった能力を持つ人間は確かに存在する。
しかし、瞬間移動だけはないな。荒唐無稽過ぎる。しかし、可能性が0という訳でもない。どこかで人類に意識改革がされれば、いずれその能力を持つ者も現れるだろう」
「出来る、出来ないの定義が曖昧ですね。集合的無意識ってもっと磐石したものじゃないんですか?」
「70億人を舵取り出来るような何かがあればもう少し磐石になるのだろうけど、残念ながら難しいだろう。もっともそんな事が可能になればボク等のような存在も不要になってしまうけれどね。
さて、効果が現れるには丸一日くらい時間がかかるだろう、暇なら日曜の夜にでも学校へ行って霊子回路の効果を確認してくるといい」
汐江は使用済みの注射器の始末をし、用事はおしまいだと言わんばかりにノートPCへと体を向ける。それでも伊之助は納得がいかず、しがみつくように口を開いた。
「……集合的無意識って結局何なんですか?」
「君は……人類が火を扱っている事を不思議に思った事はあるかい?」
「唐突ですね、ありませんけど」
汐江の意外な問いかけに伊之助は困惑し、特に深く考えずに返答する。
「あれこそが集合的無意識の仕業の最たる例だよ。
人類は世界中で火を扱うという情報を集合的無意識を通じて共有したんだ。
そんな馬鹿なと、君は思うかもしれない。しかし、古代の人類が世界各地で火を扱うという情報の共有を他にどうやって成し得た? 反証出来ないだろう。だから集合的無意識は確かに存在し、現在も単純な起源となる情報をボク等に与え、人類全体へ影響を及ぼしている」
「……哲学ですね」
「提唱したのは心理学者だよ。智の探求と人の心理へ対象を絞ったものは似て非なるものだ」
「そういうものですか。回答ありがとうございました。じゃ、俺は帰りますね」
「ああ、検査結果は今後の君のサポートに利用させてもらうよ。ご苦労様」
伊之助は一礼すると荷物を回収し汐江の部屋を後にする。
伊之助が診療所のロビーに戻ると藍の姿があった。律儀に待っていてくれたらしい。
向こうはいまだ気付いておらず、伊之助はどう声をかけたものかと考えあぐねた。




