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MY SWEET DARLIN'  作者: 来生尚
道標
78/85

 涙をごしごし袖口で拭って、シレルに言われたように三本目と四本目の木の間の小道へ入る。

 まるで自分の足跡を辿るように、巫女になる日に頭を悩ませた場所へと足を踏み込む。

 そこだけ切り取られたかのような小さな広場に着き、腰を下ろして空を見上げる。

 あの時は不安でいっぱいでしょうがなかったのに、今は巫女を辞めたことが寂しくてしょうがない。

 一度は捨てた水竜の神殿、神官たちだけれど、今一人になってみると心の大部分を占めていたことがわかる。

 これから私は本当にどうやって生きていけばいいのだろう。

 帰る場所は一つしかないから、故郷へ帰るけれど。明日からパンを捏ねて生きていくんだろうか。

 以前は当たり前だったのに、なんだかしっくり来ない。

 それに、帰ったら大騒ぎになるんだろうな。

 一度だけ踏み込んだ村は、私の知っている寂れた小さな村では無くなっていた。私が巫女になったから。

 村に変化をもたらした張本人の私が戻ったら、一体どんな事になるのだろう。考えると少しだけ気が重い。

 ただ「奇跡の巫女」は蒼い瞳で頬に傷があるというのが特徴だから、その全部を持っていない私を巫女として崇めたりはしないだろう。

 楽観的過ぎるかな。

 村のみんなは私が巫女だったことを知っているわけだし。

「あーあ。どうしようかな」

 空を仰ぎ見ながら溜息交じりに呟く。

 答えなんて無い。

 だってこれからは全部自分で決めていかなくてはいけないんだもの。こうしなきゃいけないとか、規則があるわけでもない。

 寝転がって見上げる空は、どこまでも抜けるように青い。それなのに私の心はどこか晴れないままでいる。

 自由に何でもしていいって言われると、意外に何も出来ないものなのね。

 ああ、でも巫女だったときにこんな事してたら神官長様に怒られたわね、間違いなく。

 神官長様、エマと上手くやっていけるかな。

 少しお小言の回数減らして、エマが萎縮しないようになってくれたらいいんだけれど。

「そんな事、私が気にしてもしょうがないか」

 思わず自嘲の笑みが零れ、今更ながらに巫女じゃないという事の意味を知る。

 もう違う世界の事なんだ。

 二度とあの場所には戻れないんだ。

 私が持っていた全ては、もうエマのものなんだもの。

 胸がぎゅっと痛くなるけれど、それは越えなくてはいけない自分の課題。

 溜息をついて目を閉じる。

 この場所から動き出す時、私はもう本当に神殿とサヨナラする時だわ。いつまでも神殿の敷地になんていられない。

 離れがたくてしょうがないけれど。

 えいっと勢いをつけて体を起こす。一瞬目眩がするけれど、しばらくじっとしていると元に戻る。

 もうすぐ傍に助手がいるわけじゃないんだから無理は出来ないな。

 こんなちょっとのことでも、今の私の身体には負担なんだもの。

 目が回った感じが抜けなくて、片手で頭を抑えて首を左右に振る。

 んー。なかなか抜けないなあ。

 助手に、目眩の時にはどんな薬が効くのかとか聞いておけばよかった。

 いつも飲んでいる薬の一覧はくれたけれど。

 立ち上がろうとすると、ぐらりと視界が揺れる。

 身体が傾いて視界が闇に覆われそうになった時、ぐいっと誰かに引っ張られる。

「何してんの」

 聞き覚えのあるその声に、ゆっくりと目を開ける。

 心臓がばくばくと大きな音を立てるのは、目眩のせいなのか、それとも全く別の理由なのか。

「……何でここに?」

「普通に神殿間の移動日数から計算すれば、今日くらいに着く事はわかるし、お前の考える事は大体わかるよ」

 そういう物理的な距離の問題とかじゃなくて。

 どうして今ここにいるの。あなたが。

「そうじゃなくて」

「何?」

「どうして?」

 どうしてと問われた方は、口元をふっと歪めて笑う。

「戻って来いって言ったのは俺だから」

 見上げたその人を呼ぶのは、何が一番適切なんだろう。

 今の私の立場。それと相手の立場。気安く接する事なんて、出来るわけが無い。

「あの、祭宮様」

「その呼び名、好きじゃない。ウィズでいいよ。ササ」

「でも、私はあなたと対等に話が出来るような身分ではありませんから」

 そう言って視線を逸らすと、掴まれたままの腕をぐいっと引っ張られる。

「俺が良いって言ってんだから構わない」

 にやっと笑うウィズは、確かに祭宮モードじゃないけれど。

 ここには他に誰もいないし、誰からも見られることが無いからいいのかな。

 それでも、やっぱり無理だ。

 頭の中には、戴冠式の日に見た光景が浮かぶ。

 川の向こう側で国王の横で豪奢な服を纏っていた、生粋の王族。

「私はもう巫女じゃありません。だから対等にお話する事は出来ません。祭宮様」

 至近距離でウィズの端整な顔が歪む。

 眉をひそめた苛立たしげな視線をもろにぶつかって、咄嗟に目を逸らす。

 別に間違った事を言っていないのに、責めるような視線を真っ向から受け止めるのは辛い。

「どこにでもいる村娘の事などお構いなく。今までよくしていただきありがとうございました」

 神殿で教えられたように丁寧にお辞儀をすると、するりと腕を掴んでいたウィズの手から力が抜ける。

 そっとウィズから距離を取り、心を籠めて一礼する。

「ありがとうございました。どうぞこれからもお元気で。失礼致します」

 違和感が無い程度の速さで踵を返し、早足で木々の間へと足を向ける。

 ダメだよ。

 ドキドキなんてしたらいけないんだもの。住む世界の違いすぎる人なんだもの。

 頭の中にはリンに泣きついた日が思い浮かぶ。

 レツを失って、まだそう日が経っていなかったと思う。

 ただただレツがいないことが哀しくて。凄く凄くレツの事が好きだったのに、その気持ちを奪われて、代わりに胸の中で熱を持ったウィズへの想い。

 けど、私はどうしようもなくレツが好きだったという事実も覚えているし、失った後も滾々と湧き出でる泉のようにレツへの想いはどんどん大きくなっていく。

 それなのに、ウィズの顔を見ればウィズが恋しく思える。

 本当に自分が好きなのは誰なのかを見失ってしまった。

 レツが好き。ウィズも好き。

 そんな中途半端な自分がものすごく嫌で、嫌悪感しか生まれない。

 二人とも私にとっては「手の届かない人」なのだから、二人を想う気持ちが無くなってしまえば楽になれる。

 安易過ぎる考えだとリンは笑ったけれど、それでも二つの気持ちを金平糖にして食べてくれた。

 どちらの方が甘いだとか美味しいだとかという評価は無く、当分腹は減らなそうだという色気の無い言葉だけを残して。

 空一面に広がる金平糖。

 そしてそれを食べていく竜。

 どちらも太陽の光に映えて綺麗だった。

「そんなに俺が嫌い?」

 思いがけない言葉に立ち止まって振り返ると、逆光でウィズの顔が良く見えない。

 嫌いとかじゃなくて。

「三年間避け続けてたんだし、当然だよな。今更確認するまでも無いな」

 足音が近付き、そして視線がぶつかる。

 何も映さない瞳のまま、すーっと横をウィズが通り過ぎようとするのを、思わず服を掴んで止めてしまう。

「何?」

 見下ろしてくる視線は無表情のようにも見える。

「嫌いじゃない」

 全身の血の気が引いて、寒気のようなものを感じる。

 唇が震えて上手く喋れないけれど、これでサヨナラも嫌なの。ずるいのはわかっているんだけれど、拒絶されて終わるなんて嫌。

 冷たい瞳のウィズを見上げて、左右に小さく首を何度も振る。

「嫌いじゃない。嫌いじゃないの」

「じゃあ何」

 掴まれたところを振り払おうともせず、ウィズが問いかける。

「だって住む世界が違うんだもの」

「それで?」

「私が巫女だったから優しくしてくれたんでしょう。守ってくれようとしたんでしょう。ただの庶民の私には何の価値も無いじゃない」

 ふっとウィズが微笑む。

 笑うような事、何も言っていないのに。

「それに、私、レツの事を好きでいたいの。だから……」

 一瞬目を丸くしたかと思うと、くくくと笑い声を上げる。

 何がそんなに面白かったんだろう。

「だから俺と距離を起きたかったのか」

「いや、あの。距離を起きたいとかっていうんじゃなくて。なんて言えばいいんだろう。後で辛くなるの嫌だし、それに最初から諦めてれば楽だし。期待なんてしたくないし」

 笑って口元を押さえている手とは反対の手で、ウィズが服の裾を掴む私の手を取る。

「ねえ。言ってもいい?」

「何を?」

「それってさ、俺の事好きで好きでどうしようもないって言っているように聞こえるけど?」

 言われてカーっと全身が熱くなる。

「そんな事無い。全然そんな事無いです。そうじゃなくて」

「そうじゃなくて?」

 じーっと目を覗き込まれ、視線を逸らす。

 手を繋いでいることさえ恥ずかしい。

「……よくわかんないよ」

 下を向いて呟くと、頭の上からふっと笑う声が聞こえる。

「そうか。よくわからないか」

 手を握る力が弱まったので、さっと手を引いてから伺うようにウィズを盗み見ると、穏やかな視線を向けられる。

 ふいにウィズの手首に光る青い石が見えたので、返さなきゃいけなかったものの事を思い出す。

「そうだ。あのね、返すの忘れてたものがあるの」

「ん?」

 視線を逸らし、両手を首の後ろに回して金具に手を掛ける。

 立派な巫女になれますようにと願いを籠めてあった石。

 巫女で無くなった今は、もう必要ないもの。

 止め具を外して、片手に細い鎖に通された見事な細工の施されている青い石を載せる。

「これ」

 手のひらの上に載せた石を見せると、ウィズが端整なその眉をひそめる。

「どういう事」

「だって、立派な巫女になれるようにってくれたから。もう巫女じゃないから、次の巫女に渡してあげて」

 はーっと盛大な溜息をつき、ウィズは片手で頭を抱える。

 何でそんな反応するの。

 だって巫女じゃなくなったなら、必要ないじゃない。

 しかもこんな高価な物を、パン屋の娘がつけるわけにはいかないよ。

「お前さ、ほんっとーに、それだけだと思ってたの?」

「それだけ?」

 言っている意味がさっぱりわからない。

 首を傾げると、がしがしとウィズが自分の頭を掻く。

「あーっ。もうまどろっこしいっ!」

 イライラとした様子で、ウィズが頭を掻き毟る。

「ったく、もうっ」

 何をそんなにイライラしているんだろう。

 ギっと睨むような視線を向けられて、どうしたらいいのかわからなくて狼狽する。

「あの……?」

「それはお前にやったの。他の誰でもなくて、お前に」

 ということは、貰っとけってことでいいのかな。

「でも、こんな高価なもの貰えないよ」

「高価とかそういうのは関係ないから。どうしてお前そんなに鈍いわけ?」

 鈍い?

 何がだろう。

「数ヶ月間、指輪身に着けてただろう。一つの石を二つに割る意味、知っててなんでわかんないの」

 指輪ってレツの指輪の事かな。そんな事まで知っているとは。祭宮情報網恐るべし。どこで知ったんだろう。

 一つの石を二つに分けて、装身具に。

 ん?

 あれ?

「え?」

「え、じゃねーよ」

 ボリボリと頭を掻くウィズを、まじまじと見つめる。

「嘘でしょ」

「何が」

「だって神官長様が婚約者なんでしょ。何で?」

「どうでもいいこと知ってるんだな」

 どうでも良くないでしょ。だって、神官長様のことを想っていると思ったから、あの時諦めたのに。

 それに婚約者だって知ったから、もう一度惹かれないようにって距離を置いていたのに。

 レツが言うように、本当に全部空回りしてたって事なの、もしかして。

「そんなこと、どうだっていい。ササは、それ、本当にいらないの」

 そういう聞き方、ずるい。

 指差された手のひらの上の石をどうする事も出来ず、ウィズの顔を見返す。

「何情けない顔してんだよ」

「だって」

 自分の感情につける名前がなんなのか、よくわからない。

 今、自分がどうしたいのかもわからない。

 何故戸惑うのかもわからない。

 ただ耳に痛いくらい、心臓の音が聞こえる。

「私、レツが好きなの」

 告げると、ウィズが目を細めて微笑む。

「知ってるよ」

「まだ私の中にはレツがいるの。でも」

 レツの魔法。リンの魔法。

 その全部がどういう風に作用しているのかわからない。

 戻されたのか、消されたのか。元からあったものなのか、新しく生まれたものなのか。

「でも、何?」

 聞き返されて俯いてしまう。

 何を言いたいのだろう。どうしたいのだろう。

 でもの後に続く言葉が見つからない。

「でも王族なのに。私はただの村娘なのに」

「それで?」

「どうして私なの? 全然そんな素振りしてなかったじゃない」

 ぶっとウィズが吹き出してむせてしまう。

「お、お前本当に全く気付いてなかったのかよ」

 驚愕の表情で見つめられ、色々思い返してみる。

 守ってやるとか、庇護者になるとか。別にそれって対巫女なら、誰にでも言いそうな言葉よね。

 あ、なんか誰にでもって考えたら、ちょっとムカっとしたかも。

 それに神官長様とは楽しそうにしゃべっていたのに、いつも私には喧嘩腰だったし。せせら笑ったりするし。

「だって、私のことを好きになる要素がまったく見つからないじゃない」

 言い返すと、ふっとウィズが皮肉っぽい笑いを浮かべる。

「俺は世間的には結構見栄えもいいほうだし、金も権力もある。こんな俺を変質者の目で見たのはお前がはじめてだ」

 ……。

 何言ってんの?

「意味わかんない。ウィズって変質者に見られたら誰でも好きになるの?」

「アホか」

 ポコっと軽く頭を叩かれ見上げると、ウィズが笑う。

「そうじゃないだろ。王族っていう色眼鏡なしで接してくれるのは、お前が初めてだったんだ。しかも超不器用で真面目で、ほっとけるかって思ったんだよ」

 ドキっと音を立てて胸が跳ねる。

 一度鳴り出した音は、どんどん大きくなっていく。

「精一杯頑張ろうとして傷ついてる姿を見るたびに、守りたいと思ったんだ。それじゃダメか?」

「でも、私はもう巫女じゃないよ」

「巫女だったら、こんな事できないだろ」

 言って腕の中に引き込まれる。

 ドキドキが大きすぎて伝わってしまうんじゃないだろうか。頬が熱いの、ばれちゃうんじゃないかな。

「ずっと好きだった。ササ」

 ドキっと一際大きく心臓が音を立てる。

「今すぐ俺だけを見てなんて言わない。心の中に水竜がいてもいい。それも全部ひっくるめて好きだよ」

 思わずごくっと唾を飲み込んでしまう。

 その音さえ聞かれてしまうような距離で、頭一つ上に見えるウィズの瞳を見つめ続ける。

 視線が絡み合って、その視線から逃れる事が出来ない。

 どんなに色々手を尽くしても、私は結局この人から逃げるなんて出来ないんだろうか。

 巫女になる儀式をした日、村でウィズに出会ったから一つの恋を終わらせた。

 幾度か、ここまで密着はしていないけれど触れる機会があった時に拒絶する気が無かったのはウィズだったから。

 長い沈黙の後、ウィズの腕が緩む。

「逃げてもいいよ。逃がさないけど」

 イタズラたっぷりに告げるウィズに首を横に振る。

「私、祭宮のウィズはあんまり好きじゃない」

「へ?」

 拍子抜けしたような顔をして、ウィズが間抜けな声を出す。

「だって生きる世界が違いすぎるんだもの。私とは身分が違うし、婚約者もいるし」

「あー。そういう事ね」

 ぶつぶつ文句を言う私の言葉を遮る。

「この国で俺の思い通りにならないことは無いから平気。それに奇跡の巫女を娶るっていうなら、誰も文句は言わないよ」

 奇跡の巫女って言葉に思わず眉をひそめる。

「私、そうやって呼ばれるの嫌い」

 ぷいっと顔を背けると、ウィズがくすくす笑う。

 笑われたのがまた癇に障る。

「別に私は奇跡なんて起こそうと思ったわけじゃないもの。ただ人よりも少しだけ竜との相性が良かったに過ぎないもん」

 ずっと心の中にくすぶっていた気持ちが噴き出す。

 どうしていつもこういう事を言う相手はウィズなんだろう。

「何もしてない。私は何も出来ない。神官たちや竜たちが力を貸してくれただけで、私は何にもしてないのに」

 口を噤んで自分の中のイライラした気持ちと対峙していると、ウィズに鼻をつままれる。

「子供じゃないんだから、口尖らすなよ」

 カチン。

 なんか、来た。

「子供で結構っ。どーせ精神年齢低いですよ。ええ、もうこれが私の素なんだからしょうがないじゃない」

 あははっと陽気にウィズが笑い飛ばす。

 何でそこで笑うかな。別に面白い事何も言ってないじゃない。

「ササ言ってる事めちゃくちゃ。拗ねんなよ」

 拗ねる?

 またそうやって子供扱いして。そんなこと無いもん。どちらかというと、結婚適齢期を逃したいき遅れよ。

「素の自分を見て欲しいんだろ。でも俺にはずっとそういう態度だったじゃないか。ああ、直近の三年間は除いてな」

 ウィズの指が頬に触れ、そこが熱をもったような気がして、心臓が激しくまた音を立て始める。

 指から瞳へと視線を移すと、ウィズが微笑む。

「祭宮だろうがなんだろうが、俺は俺。別に俺は奇跡の巫女だからササが好きなわけじゃないよ」

「ウィズ」

「なーに? 俺、ササがウィズって呼ぶ声好きだな」

 極甘な発言と瞳に、それだけで十二分にウィズの気持ちが伝わってくる。

 本当にいいのかな。身分も何もかも違いすぎるのに。それに心の中にはレツへの想いが燃え続ける炭のように、いつまでも燻っているのに。

「そうやって俺の前では拗ねたり泣いたりするくせに、どうして紅竜の巫女になってから俺の事避けまくってたの」

 どうしても自分の心の中の均衡が取れなくて、自分の気持ちを持て余してしまった。

 レツとウィズ。どちらも求めて苦しくて仕方なかった。

 レツはいない。ウィズはいる。

 目の前にウィズがいたら、レツの事が薄れてしまいそうで怖かった。だから。

「だって、ずっとレツの事を好きでいたいんだもの。また会える時まで、ずっとずっと好きでいたいの」

「とりあえず、今のところは俺で我慢しとけって」

「我慢とかそういうの嫌。私は私が一番好きな人と一緒にいたいの。中途半端にレツの事もウィズの事も好きな自分が嫌なの」

「……そこで生真面目さを発揮しなくてもいいだろ」

 ウィズのぼやきを無視して、ポンと両腕でウィズの身体を押しのけようとすると、ぎゅっと背中に回された腕に力が篭る。

「逃げないの? 嫌ならお前が逃げろよ」

 にやりとウィズが笑う。

 ずっと前にも同じような事無かったっけ。そうだ、祭宮の宮城でだわ。あの時はレツがいた。

 ぎゅっと締め付けられるような想いが湧き上がってきて、何故か泣きたい気持ちになる。

 三年間拒絶し続けたのに、それでもずっと守ろうとしてくれたウィズ。

 その気持ちにこたえたくても、今の私には出来ない。だってまだ心の中にいるレツが鮮明すぎるから。

 知らず知らずのうちに、涙がポロポロと零れだす。

「好き。でもレツも好きなの」

「うん」

「だから一緒にはいられない。ごめんなさい」

「嫌だ」

 ぎゅーっと抱きしめられ、腕の中で窒息しちゃうんじゃないかってくらい息苦しい。

「七年待った。もう待たない」

 空気を求めて顔を上げると、ウィズの唇がそっと重なる。

 一瞬で離れていったウィズは、腕の力を緩めて微笑む。

「逃げないの? ササ」

 立ち尽くしていた私の顔をイタズラ顔で覗き込むウィズを押しのける。

「逃げるわっ。全力で」

 ウィズから距離を取って涙を拭う。そうだ、泣いている場合じゃない。

「私は自分の足で歩いていきたいの。だから祭宮のウィズとは一緒にはいられない。王族になんて私にはなれないもの」

「巫女の経験あれば、全然問題ないけどな」

 対峙しつつも、ちょっとずつ後ずさる。するとウィズが距離を詰めてくる。堂々巡りだ。

 ふいに頭の中にある考えが浮かぶ。

「だから、ウィズが王族辞めるなら考えてもいいわ」

「本気で言ってる?」

「本気よ。超本気。一緒にこの国を出て、他の国に竜でも探しに行かない? それなら考えてもいいわ」

 目をまんまるにしたウィズに捲くし立てる。

「それにね、私一度全部リセットしたいの。レツの事もそうだけど、ウィズの事も。全部もう一度最初から始めたいから」

 ポンっとウィズの体を両手で押し、その瞳を見つめ返す。

「だから、これ、返すね」

 手の中の石をウィズへと差し出すと、ウィズは微笑んだままで受け取ろうとはしない。

「それは俺の気持ちだから、持っとけ。いらなくなったら、お前が返しに来いよ」

 にやっと意地の悪い顔をしてウィズが笑う。

 返しに来いってどうやってよ。王都まで来いってこと?

「嫌よ。一緒にいたいなら、ウィズが村に来ればいいじゃない。私は王都には行かないわ」

 にっこり笑って返すと、一瞬きょとんとした顔をして、それからウィズが大声で笑う。

「わかったわかった。じゃあ今は行けよ。その代わり、覚悟しとけよ」

「何をよ」

「自分で考えな」

 何よそれ。全然意味わかんない。

「じゃあ、ごきげんよう。さようなら」

 またねと言いそうになって慌てて口を閉じる。

 ペコリと勢いよく頭を下げて、背を向けて一気に木々の間を走り抜けると、後ろから豪快な笑い声が聞こえてくる。

 とりあえず逃げ切れた? 今は、だろうけれど。

 今は、でもいい。

 この道を歩いて村に着くまでの間だけでいい。

 今はレツの事を思い出して歩きたい。レツと過ごした時間は、私にとってかけがえの無い時間だった。

 何もかも不出来な私だったのに、レツが巫女に選んでくれたから沢山の温かい人たちに出会えた。貴重な時間を過ごせた。

 それに何よりも、レツが私のことを特別な一人に選んでくれた。

 ありがとう。レツ。いつか目覚めた時、また巡り会えますように。

 あなたが眠っている間、私は私らしく生きる道を探すから。






「これはこれは、本日はいかがなさいましたかな」

「修繕工事の状況確認をと思いまして。お忙しいのにお時間を取らせてしまい申し訳ありません」

 好々爺の風情たっぷりの腰の曲がった老人に、笑顔を讃えて挨拶をすると、好々爺は豪快に笑い飛ばす。

「若いのがわしには仕事を寄越してくれんから暇なんじゃよ。どれ、案内させていただきますかな」

 おもむろにソファから立ち上がり、杖を突きながら老人が一歩一歩扉へと進む。

「中の構造はわかりますから、一人でも大丈夫です。どうぞご無理をなさいませんよう」

「いやいや。お一人で歩かれては神官たちが不審に思われるでしょう。わしがご案内致しましょう」

 杖を突く老人に案内され、改築の為に人のいなくなった区画をゆっくりと歩いて回る。

 元々の水竜の神殿の規模を維持するのは、元来の半分以下の人員では難しくなってしまったのと、建立からかなりの年数が経って痛みも目立つのが理由になる。

 この改築が終わると、水竜の神殿は迷宮と呼ばれることは無くなる。

 誰もが入る事が叶うわけではないが、誰もが迷う事の無いように。

 幾つもの角を曲がり、細い回廊や隠し扉を抜けると、現在も使用されている区画に辿り着く。

「ここからが奥殿へ繋がる回廊じゃ」

 指差された先は緑の木々がアーチを作り、奥のほうは鬱蒼とした緑で見えなくなっている。

「この先は一切手をつけないつもりじゃ」

「水竜の眠る地ですしね」

「そうじゃな」

 老人は笑みを浮かべ、通りかかった神官に声を掛ける。

 何やら壁際で小声で話していた二人が、視線をこちらへと向ける。

「わしはちょっと野暮用で他所へ行きますが、もし宜しければこの辺りをご覧になられてくだされ。後程お迎えの者を寄越しますゆえ」

 にっこりと微笑み返すと老人は深く頷き、神官と肩を並べてどこかへと消えていく。

 遠まわしに、奥殿へ行っても良いと許可を貰ったようだ。

 周囲の気配が無くなった後、一歩一歩緑の回廊へと歩みを進める。

 さほど長くないように見せかけ、かなりの距離がある緑のアーチを抜けると、水竜の元の生息地である湖が眼前に姿を現す。

 湖畔を半周すると、中央の浮島に作られた奥殿へと続く橋がある。

 よく手入れされた橋を渡り、重たい扉によって遮られた奥殿の前に立つ。

 胸は早鐘のように高鳴り、興奮と緊張から何とも言えない高揚感に包まれる。

 意を決して扉を開くと、そこは磨きぬかれた柱と床が輝いている。

 中に足を踏み入れゆっくり歩くと、カツンカツンと足音が奥殿中に響き渡る。

 真っ直ぐに入り口から歩いた先には、とても人の手では届かないようなところに取っ手のある巨大な扉が、この建物の果てである事を告げている。

 一応押してみたりもしたけれど、全くびくともしない。

 巨大な扉に背を向け、教えられたように歩く。

 床のタイルとよく見て。

「右に5、北に16、左に10、それからまた北に5……」

 建国王の残した古文書に書かれていた通りに床のタイルの数を数えながら歩くと、壁にぶつかる。

 この壁が隠し扉になっているはず。

 壁を軽く押すと、くるっと反転してレバーのようなものが出てくる。

 それを力の限りぐっと押すと、ゴゴっという音がして巨大な扉の前に地下へと繋がる階段が姿を現す。

「本当の奥殿」

 隠し持ってきた蝋燭に灯を灯し、地下深くへと繋がる階段を降りる。

 誰もここを降りた形跡は無いから、やはり一度も封印は説かれていないという事か。

 静かな暗闇の中に、生き物の寝息だけが規則的に流れている。

 すーすーという深い眠りは、とても人の手では起こす事は出来ないように思える。

 本当にこんな古ぼけた鍵で巨大な鎖を外せるのか不安が過ぎる。しかし他に方法は無い。

 建国王の遺した、唯一の水竜を解放する事の出来る鍵。

「水竜に自由を」

 カチャという金属音がして、戒めの鎖は解けた。




 いつの日か、また水竜は目を覚ます。

 その時こそ彼に幸せが訪れますように。そう願いながら幾世代が通り過ぎていく。

 時の流れのその向こう。遠い未来なのか近い未来なのか。

 今度こそは彼の願いが叶いますように。彼に真の自由が訪れますように。

 大空に紅と蒼の二頭の竜が飛び交う世界が見られますように。


 人々は彼の眠る神殿に祈りを捧げ続ける。

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