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水竜の大祭の儀式と、それから一般の人に礼拝堂を開放してのお祈りは無事に済み、自分の部屋に戻ってこられたのは、陽が陰り、月の支配する時間になってからになってしまった。
こんなにかかるとは思っていなかった。
神官長様の話によると、去年は「巫女誕生の儀式」が優先された為、前夜祭と本祭の日は、一般の人を水竜の神殿に入れることはしなかったそうだ。
で、後夜祭の日も、新米巫女には荷が重いだろうと配慮し、礼拝堂を開放してのお祈りも一度しかしなかった。
言われてみれば確かに、私は後夜祭の午後に一度だけ、礼拝堂でお祈りをしただけだった。
その分だけ、今年は沢山の人が「水竜の神殿」に訪れてきたみたいで、予定していた回数よりも多く、お祈りをすることになった。
朝の浮かれた気持ちはどこへやら。
もうすっかりくたびれたって感じ。
喉は渇くし、立ちっぱなしで足は痛いし。
でも明日はもっと出ずっぱりのはずだから、これで弱音なんて吐いてられない。
だけど、ほんのちょっと息をつかないと、くたびれて後二日もたないよ。
あー、でもここでのんびりはしてられないんだ。祭宮のウィズと会う約束してるし。
午前中から待たせているんだから、早く行かなきゃ。
ベッドに投げ出していた足を床に下ろし、服を整え、鏡を見る。
着替えるのもめんどくさいし、どうせどっちにしたって、巫女の正装を着なきゃいけないことには変わりないんだから、このままでいいや。
儀式が始まる前に、神官長様や神官たちに寄ってたかって付けられた髪飾りや装飾品を取る気力すらなく、そのまま扉を開ける。
扉の前には、シレルともう一人の神官が立っている。
私が部屋にいる間は、こうやって交代で神官たちが扉の前にいるらしいって事を、実は最近になって知った。
特にシレルは、巫女付きの神官だから、いつもこうやっているらしい。
寝たり休んだりする時間、あるんだろうか。
「巫女様、いかがなさいましたか」
声を掛けてきたのはシレルのほうだった。
シレルの表情には、一切の疲れが見えない。
「祭宮様とお会いする約束でしたから。今、祭宮様はどちらに?」
「恐らく執務室ではないかと思われますが」
「そう。わかったわ。ありがとう」
シレルが一緒に歩き出そうとするので、その動きを手で制止する。
「今日はせっかくの大祭なんだから、ゆっくりしてください。私は一人でも大丈夫ですから」
「しかし――!」
「いいの。シレルも大祭を楽しんで」
「わたくしの事はどうでもいいのです。巫女様につつがなくお過ごし頂く事こそが、わたくしの最も優先すべきことでございます」
恐らく返ってくるだろうなと思っていた反応に、思わず苦笑を浮かべてしまう。
「私が、今日はシレルにはゆっくり休んで欲しいの」
こういう言い方をすれば、恐らくシレルが引くだろうという若干の計算も、ある。
別にシレルが嫌なわけじゃなくって、朝、ほんの少し落ち着かない様子だったシレルを見て、せめて今日だけでも、「巫女付きの神官」という肩書きから開放してあげたかったから、なんと言われても、今回だけは曲げるつもりはない。
「しかし、万が一巫女様に何かがあってからでは……」
シレルは困ったような顔で、しかし頑としてひかない声音で訴える。
「大丈夫。この神殿の中には、そんな不心得者はいないわ。そうでしょう?」
「……はい」
渋々、シレルが折れる。
横で様子を見ていた神官に目を向けると、ふっと目を逸らす。
恐らく彼も、心の中では巫女の警護という建前と、祭りを楽しみたいという本音が戦っていたのだろう。
彼とシレルの二人に微笑みかけ、そして背を向けて執務室へと歩き出す。
背後で頭を下げる衣擦れの音が聞こえるけれど、振り返らずに次の角を曲がる。
執務室へと歩いていく間も、何人もの神官とすれ違う。
立ち止まり、一礼をしてくれる神官たちの表情は、いつもよりも心なしか明るい。
もしかしたら、中にはもうお酒が入っている神官もいるのかもしれない。
幾つもの角を曲がり、一本の幅の広い廊下に出る。
神官長様の執務室へと続く、たった一本の道。
それも、奥殿へ続く渡り廊下と同じように、途中で途切れ、木々のアーチに飲み込まれる。
月明かりの下、この道を歩くのは初めてだけれど、毎日のように歩きなれた道なので、怖いとかっていうことはない。
足元が見えなくても、綺麗に整備されている道だから、躓いたりすることもないし。
立ち止まり空を見上げると、木々の間から、沢山の星と、月が見える。
水竜の神殿に来てから、こんな風に夜出歩く事はなかったので、ものすごく新鮮な感じがする。
昔はよく、こうやって夜の空を見上げたのに。
いつ以来だろう。夜の空を見るのは。
ああ、ちょうど一年前の今日以来だ。
あの日、生まれ育った村で行なわれた「水竜の巫女になる儀式」の、あの夜以来になる。
あの夜は、幼馴染のカラと二人で、巫女の事や恋人だったルアのことを話していた。
何だかそれが、遠い昔の出来事のよう。
悩んでいた一年前の自分と、こんな風に豪華な服を着て歩いている私。
たった一年なのに、ものすごく自分を取り巻く環境が変わってしまっている。
でもごく自然に、今は全てを受け入れていると、思う。
習うより慣れろとは、よく言ったものだわ。
絶対に巫女に相応しくないって思っていたのにね。
空から目を戻し、神官長様の執務室の光に目を移す。
恐らく、あそこにウィズはいて、神官長様とお話されているのかもしれない。
そうしたら、もしかして私って邪魔者?
呼ばれもしないのに、勝手にこうやって来ちゃったんだから。
重大なこと忘れてた。
これってもしかして、巫女としてお行儀が悪いとかってことにならないのかしら。
そしたら、巫女の威厳台無し?
ここまで来るまで、そこに発想が至らないって、私バカ?
どうしよう。
これで戻って、誰かが呼びに来るのを待っていたら、シレルにまたお仕事モードに入ってもらわなきゃいけなくなっちゃうし。
うーん、どうしたらいいんだろう。
ここで待ってて、誰かが来るのを待つ?
それもなんか格好悪いような気がするし。
レツ、ごめん。私、失敗しちゃったみたい。
頭の中に、くすくすっと笑うレツの声が聴こえる。
――大丈夫だよ、そのくらいのこと失敗に入らないって。気にしなくていいから、そのまま執務室に行けばいいよ。
本当に?
――だいじょーぶ。もし失敗したって落ち込むようなら、ボクのところに帰っておいで。
奥殿に行ってもいいの?
巫女になった日から、夜は奥殿に入っちゃいけないって、レツに言われていたのに。
――いいよ、祭りの時だから特別にね。
ありがとう!
レツとの回路が切れて、心の中の霧も一緒に晴れる。
落ち込んでも、落ち込まなくっても、絶対に後で奥殿に行こう。このすごい格好もレツに見せたいし。
レツが見たら何ていうだろう。
さっきまでの「やっちゃった」っていう気分はどこかへ行ってしまって、気持ちがうきうきしてくる。
さあ、さっさと用事を済ませるか。
軽い足取りで執務室の前に立ち、コンコンと扉を叩く。
扉の向こうからは、ウィズの「どうぞ」という声が聞こえる。
もしかして一人なのかなあ。
そんな疑問を抱きながら、執務室の中に入ると、ウィズが驚いた顔で立ち上がる。
何でそんなに驚いた顔をするのかしら。
「……巫女様」
思わず出た言葉に、ウィズは慌てて右手で口元を隠す。
「失礼致しました。巫女様だとは思いませんでしたので」
じゃあ誰だと思ったのという、恐らく返ってくる言葉が想像つくような質問はしないで、ウィズの方へ歩み寄る。
「神官長様はいらっしゃらないのですか」
くるりと部屋を見渡し、ウィズが一人である事はわかっていたけれど。
「ええ、お忙しいようで」
短い返答に隠されているものの、恐らく神官長様を待っていたんだろうなというのが伺い知れた。
確かにレツが言うように、今なら来ても大丈夫だったかもしれないけれど、やっぱり招かれざる客だったみたい。
「どうぞ、おかけください」
ウィズが手前にある椅子に座るように促すので、ウィズの前の椅子に腰を降ろし、それを見ていたウィズも、元いた椅子に座りなおす。
お互いの間に、なんともいえない空気が流れる。
何となく気まずいような、そんな空気。
「すぐにご挨拶にお伺いできなくて、申し訳ありませんでした」
何か話していないと、この雰囲気に飲み込まれそうだったので、当り障りのない話を切り出す。
「いいえ、巫女もお忙しいでしょうから。お気遣い頂きまして、ありがとうございます」
そう話すウィズに笑いかけたものの、それ以上言葉が見つからない。
私もウィズも、言葉を捜すように、あちこちに目を遣ったり、お互いの顔を見たりするものの、無言のままになってしまう。
何でこうなんだろう。
レツの前では色んなことを話せるのに、ウィズの前にくると、気後れしてしまって、何を話したらいいのかすらわからなくなる。
困ったなあ、どうしよう。
挨拶は一応済ませたんだから、このまま奥殿に行ってもいいんだよね。
そういう考えが頭の中にあるはずなのに、なぜか椅子から立ち上がろうっていう気持ちが起きてこない。
「お似合いですね」
どうしようかなあと考えていると、ウィズが突然口を開くので、その意味がよくわからない。
何のことを言っているんだろう。
それが表情に出たのかもしれない。ウィズがにっこりと祭宮の笑みを浮かべる。
「そのお姿がですよ」
かあっと頬が熱くなるけれど、幸いベールの内側の顔はそんなに見えないはず。
「ありがとうございます」
社交辞令のような言葉を返し、改めて自分の来ている服を見る。
薄い布で隠されている腕が、赤く日焼けしているのが目に入って、咄嗟に腕を体のほうに引き寄せる。
こんな日焼けしている腕なんて、見られたら恥ずかしい。
「深い青が、巫女様によくお似合いです。私の見る目には間違いが無かったですね」
「え?」
満足そうな笑みを浮かべるウィズの言っている事の意味が、イマイチよくわからなかった。
何でウィズの見る目がどうこうっていう話になるの?
「大祭に合わせて、巫女様のお召し物を新調するとお伺い致しましたので、私が王都の織物師に頼んだんです」
「そう、だったんですか。ありがとうございます」
シレルがいつもと変わらない調子で、大祭用ですって持ってきたので、てっきり神殿で用意してくれたものだとばかり思っていた。
「まあ、私が出来るのは布を作らせるところまででしたけれどね。それ以上は、神官長様が神殿の仕事ですからと、首を縦に振ってくださいませんでした」
それでも、嬉しそうに目を細めるので、鼓動が一段と早くなる。
ウィズが選んで、神殿で作られた、大祭のための服。
たくさんの思いが、この一枚の服にはこめられているのだと知り、今自分が来ているこの服が、とても愛しく思える。
「巫女様は、一年でお変わりになられましたね」
服を触る手を止め、ウィズの顔を見る。
「一年前の巫女様は、とても自信なさそうにしていらっしゃった。けれど、今は巫女としての自信をお持ちになっていらっしゃるように見えます」
遠い目が、ウィズが一年前のあの日を思い出しているのだとわかる。
「あの時の私は、本当に自信がなかったんですから」
「ええ、存じております」
真剣に、深刻に、巫女には相応しくないと思っていたのだから。
今は、巫女に相応しいとか相応しくないとか考えるよりも、より巫女らしく振舞う事を考えているから、もしかしたら自信があるように見えるのかもしれない。
あの日、ウィズがいなかったら、今の私はいないだろう。
あの時ウィズに出会えた事を、水竜に感謝したい。
「あの日、ウィ……いえ、祭宮様にお会いできて、本当に良かったと思っています」
くすり、とウィズが笑う。
「そんな風に感謝される事は、一つもしておりませんよ。すべては水竜の御心のままに」
ウィズと言いそうになってしまったのを、聞き流してくれたようで、ほっとする。
「だけど、あの日、俺もササに会えて良かったと思っているよ」
思いがけない言葉にはっとすると、ウィズは祭宮の仮面を外し、一年前、初めて会った時と同じようなウィズの顔をしている。
そこに、上品さなんていうものは欠片もない。
「巫女がササで良かった。ササだったから、俺もいっぱい色んなことを考えさせられた」
「それってどういう……」
「今だから言うけどさ、俺は巫女の意義だとか、水竜の意思だとかってものは、一切考えた事も無かったわけ。だけどササは、俺から見たら、そこまで考えなくてもいいだろってくらい悩んでいたわけだ」
「……普通悩むでしょ、突然巫女だなんて言われたら」
「それは比較対象がいないから、わかんないね。たださ、俺はなんとなく祭宮っていうのは、神託を国王陛下に伝えるだけの仕事って思ってたからさ、色々考えているササを見て、俺もまた色々考えたわけだよ」
足を組み、腕を組み、一人なにやら納得しているウィズに、ササとして話をしたほうがいいのか、それとも巫女として話をしたらいいのか、わからなくなる。
今目の前にいるのは「ウィズ」だけれど、私は「ササ」に戻っていいんだろうか。
「簡単に要約すると、悩みまくった結果、真面目に祭宮やるかなっていう気になったっていう、そういう話」
……ということは、村に来た時のウィズは、全然真剣に祭宮やってなかったってことになる、よね。
もしかして、そんな人の言う事に左右されてたの!?
「あー、そういうことなんだ。それじゃ、色々言ってみたのも、口からでまかせ? その場しのぎ?」
なんか腹立つなあ。
せっかく恩人くらいに思っていたのに、この人適当に流してたってことでしょ。
同じ目線で、とかカッコイイこと言ってたけれど、それも本気でそう思っていたってわけじゃないってことにならない?
「何でいきなり怒り出すんだよ。わっけわかんないなあ、お前」
「お前とか言わないで下さい。真剣に話してくれてると思っていた私がバカでした」
「はあ? 何言ってんの?」
あからさまに呆れたような顔するな。
普通怒るでしょ。相談に乗ってくれた相手が、実は適当に聞き流してたりとかしたら。
「だってそうでしょ。私は真剣にウィズに感謝してたのに、あの時全然真面目に考えて無かったってことでしょ。もう、ウィズなんて嫌い!」
「嫌いって、お前子供かよ」
溜息交じりの声が、本当にあきれ返っているんだってことを伝えてきて、それがまた腹立たしい。
「だから、お前って言わないでってば」
「わかったから。じゃあ、なーに。何で怒ってるの」
「ほらまた聞き流してた。もういい!」
はあっと聞こえよがしな、溜息が聞こえる。
何なのよ、人の話聞いてなかったのはそっちじゃない。
この先迷う事があったり、悩む事があったりしても、絶対ウィズにだけは相談なんてしない。
またこうやって聞き流されたりするの嫌だし。
どうせ真剣に私のことなんて考えてくれたりしないし。
私にはレツがいるからいい。何かあってもレツがいれば、私は大丈夫なんだから。
「……気分悪いから、帰る」
「あっそ。勝手にすれば」
むっ。
悪いのはそっちじゃないの。何逆ギレしてんのよ。
立ち上がりウィズに背を向け、扉に手を掛けようとすると自然と扉が開く。
「あら、巫女。こちらにいらっしゃったのね」
その優雅な声に、慌てて巫女の顔を作り直す。
「はい。昼間に神官から祭宮様がいらっしゃってるとお伺い致しましたので、ご挨拶をと思いまして。でも、もう済みましたので、奥殿に参ります」
かたん、と背後で席を立つ音が聞こえる。
悔しいし、むかつくから絶対に振り返ってなるものか。
「奥殿へ?」
「奥殿?」
神官長様の声と、背後からのウィズの声が重なるように耳に届く。
「はい。水竜が大祭の間は、夜でも奥殿に入っていいとお許し下さいましたので」
神官長様は考え込むように、目線を宙に泳がせる。
何を考えていらっしゃるのかわからず、神官長様の様子をただ見ていると、小さく溜息をつかれるのがわかる。
「……わかりました。明日は朝から儀式がありますから、あまり遅くならないようにして下さいね」
「はい」
溜息が嘘だったかのように微笑まれるので、ほっとする。
溜息じゃなくて、ふっと息を吐かれただけだったのかもしれない。
神官長様に一礼をし、扉に手をかけ、一応、執務室の中のウィズにも頭を下げる。
「どうぞ、祭りの夜をお楽しみ下さい」
ウィズを不快な気持ちにさせて、ちょっとは悪かったかなあと思うから、そう付け足して、執務室の外に出る。
もしかしたら、ものすごく厭味に聞こえたかなあ。
でも、言い直すなんてこと出来ないし。
今戻ったら、それこそ邪魔者だろうし。
大体、ウィズがいけないのよ。
一年前もちゃんと話を聞いてくれてたわけじゃなかったみたいだし、今も人の話を聞き流したりするし。
お前とか言うし。
レツにだって、お前なんて言われたことないのに。
――サーシャ、ご神託は?
あ。朝、ご神託を伝えるように言われていたのに、忘れてた。
すっかり頭に血が上って、大切なこと忘れていた。
ちゃんと自分の役割を話すようにって、朝言われたのに。
ごめんなさい。
――で、どうするの?
大祭の間に絶対に伝えます。今日はちょっと無理です。
今またウィズの顔見たら、多分うまく巫女の顔が作れないような気がするし、それに二人っきりの時間を邪魔することになっちゃう。
――わかった。次からは忘れないでね。
はい。気をつけます。
そう、言うしかない。だって、巫女としてやってはいけないことをしてしまったんだもの。
水竜のご神託を伝え忘れるなんて。
早くレツに顔見て謝ろう。
後悔と腹立たしさでいっぱいで、私には祭りの夜を楽しむ余裕なんてこれっぽっちも無い。