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ササ、元気にしてる?
あたしは相変わらずよー。あんたのお母さんも、相変わらず元気にパン作ってるわ。
そうそう、シュウのところに女の子が生まれたの。何て名前にしたと思う?
サーシャって名前にしたんだって。
ご利益があるようにって。
水竜に愛されるようにって事らしいけれど、そのうち、村中の女の子の名前はサーシャになりそうよ。
戻ってきたら、びっくりするわよ、きっと。
「それ、何?」
「手紙」
読みかけの手紙を膝に置いて、声のするほうを振り返る。
不思議そうな顔をして、レツが手元を覗き込む。
「手紙って?」
「そっか、手紙なんて貰った事ないもんね。会えない人とお話する為に使うの。」
「じゃあ、ササが巫女辞めた後は、ボクに手紙出してね」
「うん。約束ね。その代わり、レツもちゃんとお返事ちょうだいね」
人間の小さな子供のような姿をしてる水竜が、目の前で嬉しそうな顔をして笑う。
普通の人の何倍も生きているのに、まだ子供の水竜。
小さな弟のような、可愛い水竜。
くるくると表情の変わる瞳が、興味深げに手紙を見下ろしている。
宙に浮かび、肩越しに手紙を見るレツを振り返ると、レツが首をかしげる。
「手紙、ボクも書けるかな」
レツがペンを持って、机に向かって手紙を書いているところなんて、想像がつかない。
それより、ちゃんと読み書きが出来るかどうかが問題だわ。
「レツは字を読むのは出来るの?」
「読めるよ! 本当にサーシャは失礼だな。ボクは水竜だよ。出来ない事なんてないよ」
頬を膨らませて、大きな声で抗議する。
レツが水竜だって事はわかっていても、一つ一つ確認しないと、レツの出来ること、出来ない事、わかる事、わからない事を知ることが出来ないので、いつもこうやってレツの機嫌を損ねてしまう。
「字だって書けるよ。嘘だと思うなら、紙とペン持ってきて」
じゃあ何で書けるかななんて言ったのと質問する間も無く、レツは怒った顔で腕を奥殿の入り口の扉へ向ける。
腕の動きに合わせて、奥殿の扉が大きく音を立てて開く。
扉が開くのと同時に、ふわっと風が入ってきて、膝の上に乗せていた手紙がパラパラと宙に舞う。
すぐに落ちてくるのかと思っていたのに、数枚の紙がまるで飛ぶ鳥のように空を舞う。
手紙を掴もうと宙に手を伸ばすけれど、逃げるように舞うので、触れることすら出来ない。
レツのほうを向くと、面白そうな、いじわるそうな顔で笑っている。
やっぱりレツの力だったのね。
苦笑いを浮かべると、レツが嬉しそうな顔をする。
「ね、ボクに出来ないことなんて無いんだよ。紙とペンは、祭宮に会った後持ってきて」
祭宮?
今日、神殿に来るなんて聞いてなかったけれど。
神官長様も、何も言っていなかったと思うし、神官からも何も聞いていない。
今日は一日レツといられると思ったのに。
レツは背を向けて、それ以上話そうともしない。
扉を外に続く、前殿へと続く道を見て、それからもう一度レツのほうへと向き直る。
「神官長様に御用かしら」
「知らない」
祭宮のことなんて興味がないといった感じで、レツは宙に舞う手紙を手に取り、カラから届いた手紙を眺めている。
ふわふわと空に浮かび、レツは手紙を折りたたんだり、広げたりしている。
「早く行きなよ。ササが私服のままじゃ、ボクが格好つかないだろ」
レツが背を向けたまま、呟く。
戸惑いがないわけではないけれど、こういう時のレツは何を言っても耳を貸さない。
「うん。行ってきます」
レツの返事はない。
水竜の奥殿にいるとき、私は水竜の巫女じゃなく、サーシャでいられる。
そこにはレツと私しかいなくて、水竜の巫女を演じなくてもいいから。
一緒にいる時間が極端に長いせいもあるし、水竜自身が「水竜の巫女」の形式にはこだわっていないからでもあると思う。
だから、奥殿から前殿にくると、体中に緊張感が走る。
敬われ、かしずかれている存在で、不用意な行動や発言はすることができないので、どうしても構えてしまって、失敗しないようにと今でも緊張する。
神官長様は、普通にしていればいいのにと苦笑されるけれど、巫女になって半年、見習期間をいれてもやっと一年という私には、巫女らしく振舞うには最大限の努力をしなくてはいけない。
ウィズみたいに、祭宮の顔と本来の自分の顔を簡単に切り替えられたら、そんなに苦労はしないのに。
あの切り替えの早さは尊敬に値する。
ぜひその極意を教えて欲しいと思っているけれど、巫女らしく振舞う事に精一杯で、巫女になった日以来踏み込んだ話をすることもなく、聞くことが出来ていない。
もし、あの日のように話をしてみようなんて思ったら、きっと巫女の仮面はあっという間にどこかにいってしまうだろうし。
今日こそは聞いてみようか。
それよりも、今日は一体何の用なんだろう。
巫女になってからというもの、大体半月に一度、祭宮殿下は神殿を訪れる。
神官長様のお話から推測すると、先の巫女である神官長様と、子供の頃からの付き合いらしい。
でも、半月に一度は来すぎじゃない?
それに私はぜんっぜん話なんてしてないんだけれど。一応巫女なのに。
何をそんなに話すことがあるんだろう。
別に、気にしているわけじゃないけれど、でも神官長様が巫女だった時にはそんなに来ていなかったのに。
いつも二人で楽しそうに、色々話しているみたいだし。
もしかしたら、神官長様と幼馴染みたいなものかもしれないけれど。
祭宮の仕事そっちのけで、神官長様と何時間も話し込んでいるのは、一体なんなのかしら。
なんか、むかむかしてきた。
考えると、なんとなく腹立たしい。
私が巫女なのに、巫女とは全然話もしない祭宮ってどうなのよ。
それとなく嫌味でも言ってみようかしら。
もうちょっと巫女を敬いなさいって。
あ、でもそんな事言ったら、私は偉いのよって言っているみたいで嫌だわ。
もう! なんて言ってやろう。
とりあえず突然何なのよ、くらいはアリかしら?
突然何なのよ、を礼儀正しく言うと何になるのかな。
……浮かばない。
とりあえず祭宮に会う前までに考えておこう。
どうせ神官長様と話していて、私に会いに来るのは顔を見るくらいの短い時間だけだろうし。
会うまでたーーーっぷり時間もあるでしょうし!
奥殿と前殿を繋ぐ渡り廊下を抜け、巫女候補として来た時から使っている部屋へ足を向ける。
入り組んでいて迷路のようで、一つ曲がるところを間違えると、永久に辿り着けないような気がしてくるから、慎重に迷わないように角を指差しながら曲がる。
こんなところ神官に見られたら、巫女のイメージ台無しね、きっと。
幾つもの角を曲がり、自分の部屋のある廊下へ辿り着くと、部屋の前に顔馴染の神官が立っている。
巫女になる儀式の為に村に戻った時に付き添ってくれた神官で、今は巫女付きの神官として、神官長様との連絡や、様々な面倒を引き受けてくれている。
声をかけようとする前に、神官が頭を下げる。
「巫女様、お待ち申しておりました」
そんな風に畏まらなくてもいいのに、と前に言ったけれど、決して首を縦には振ってくれなかった。
名前で呼ぶことを許してくれたのも、ついこの間で、それまでは頑なに名前も教えてくれなかった。
神官が何人もいるところで呼びたい時に、困るからと言っても、先に自分が気がつきますから大丈夫です、と言って、がんとして譲ろうとしなかった。
それでも言い続けていたら、最近になってやっと名前を教えてくれた。
シレルとお呼び下さい、と無表情で突然告げた。
根気勝負で、どうやら勝ったらしい。
堅苦しいほどの丁寧さに、思わず苦笑する。けれど、それが視界に入れば彼を傷つけることになってしまうので、苦笑を微笑に変えて、神官の方へと歩き出す。
「何かありましたか?」
レツに聞いて祭宮が来たという事は知っているけれど、敢えて知らないフリで問い掛ける。
もしかしたら、祭宮は私に用事があるわけじゃなくて、神官長様にご用があるのかもしれないし。
「祭宮様がお越しです。巫女様のご用意が整い次第お会いしたいそうですが、いかが致しましょう」
神官シレルの表情からは、何も読み取れない。
ただ淡々と事実を伝えるだけで。
シレルの顔から目を逸らし、溜息をつく。
本当に用事が「珍しく」私にあるというのかしら。でも、それにしたって事前に連絡位してもいいのに。
今まで一度もこんな事は無かった。
もしかしたら「水竜の巫女の神託」が必要な事態が何かあるのかもしれない。
それ以外に、こんな風に訪れるなんて考えられない。
しばらく考え込んでから、シレルの方へ向き直る。
「……わかりました。では、祭宮様に神官長様の執務室でお待ち頂くようお伝えして下さい」
「畏まりました。ご用意が出来次第お伺いすると申し伝えます」
一礼をし、シレルが奥殿とは反対側へと向かう。
足音が遠ざかるのを確認してから、部屋の中に入る。
以前、巫女候補としてこの部屋を使っていた時と部屋の中は何一つ変わらない。
ただ、巫女の正装が増えただけで。
部屋の中に入ると、窓の向こうに見える奥殿に目を向ける。
レツ……。
普段はすぐに返事が返ってくるのに、返答がない。
レツが何も言わないのが、また不安を誘う。
こんな風に返答が無かったことは、今まで一度も無いのに。
レツ、どうして返事をしてくれないの。
どんなに強く思っても、レツは何にも答えてくれない。
しばらく窓の外の奥殿へと呼びかけてみたけれど、ただ自分の声だけが虚しく心に響くだけ。
溜息をつき、窓のカーテンを閉める。
言いようのない不安を押し隠して、巫女の正装に着替える。
腕が重たくて、ウィズが待っているとわかっているのに、どうしてもゆっくりとした動作になってしまう。
着替えてからも、なかなか部屋の外に踏み出す勇気が出てこない。
突然訪問してくるウィズ。
何も答えないレツ。
何があるのか不安で、部屋を出る気にはならず、ベッドに腰掛ける。
ウィズに会いたくない。
奥殿に戻りたい。
ううん、私は水竜の巫女なんだから、そんな我儘は許されない。
わかっているのに、それでも踏み出せない。
でも、行かなきゃいけない。
大きく深呼吸をして、思い切って立ち上がる。
どんな事態が待っていても、私は水竜の巫女を演じることしか出来ないのだから、行かなきゃ。
自分を奮い立たせ、意を決してウィズに会うために部屋の扉を開く。
執務室につくと、神官長様とウィズが和やかに話をしている。
私の緊張なんて、関係ないように。
笑顔のまま、神官長様とウィズが振り返り、神官長様が手招きをする。
「巫女、ごめんなさいね、急に」
小首を傾げ、にっこりと神官長様が笑い、ウィズが神官長様を見て笑みを浮かべる。
穏やかな空気が神官長様とウィズを包んでいる。
私の持っている雰囲気とはまるで違う、上質な空気が二人の周りにあって、近寄ることを躊躇ってしまう。
毎回のことなんだけれど、この二人が一緒にいるところを見ると、本当に自分が邪魔者のような気がしてしまって、気が引ける。
でもそんな気持ちを悟られたくなくて、顔を見られないように、神官長様とウィズに一礼をする。
そして巫女の仮面を被って、二人に笑みを向ける。
「いいえ、神官長様。何か急ぎの御用なのでしょうから」
ウィズもまた、祭宮の顔で申し訳なさそうに頭を下げる。
そんなウィズの様子を見て、神官長様は苦笑される。
「二人とも、もう少し打ち解けてもいいでしょうに」
その言葉に、頭を下げていたウィズと一瞬目が合うけれど、すぐに神官長様の方に目を向ける。
呆れたような顔をして、神官長様が席を立つ。
立ちながら、ウィズの耳元に神官長様が何か囁かれて、ウィズが苦笑いを浮かべたけれど、何をお話になられたのかは聞き取れない。
ウィズもまた、神官長様に何かを耳打ちして、神官長様が微笑みを浮かべる。
目の前の遣り取りは、まるで恋人同士みたいで、胸の奥がチクリと痛む。
ウィズと神官長様が例え恋人であったって、私には関係ないのに。
何も言えず、何も言わず、少し離れたところで立っていると、神官長様にもう一度手招きされる。
「こちらにいらっしゃい。私は席を外しますので、あとは祭宮殿下からお聞きになって」
口を挟む暇を与えず、神官長様は優雅に裾をさばき、背を向けて背を向けて扉のほうへと歩いていってしまうので、ただ神官長様を目で追うしかない。
いつも神官長様が同席されているのに、どうして行ってしまうんですか、という疑問を投げかける間もなく、神官長様は扉に手をかけ、外に出てしまう。
控えていた神官たちも、神官長様に続いて部屋を後にしてしまう。
パタン、という扉の閉まる音が部屋に響き、さっきまでの柔らかい空気が一変して、張り詰めた空気が部屋を満たす。
凍りついたような空気で、ウィズのほうを振り返ることもなかなか出来ない。
半年前は、本当に近くにいたような気がしたのに、いつの間にこんな風に距離が開いたんだろう。
水竜の巫女と祭宮っていう立場がそうさせているのだろうか。
ううん、きっと違う。
あの時感じた、ウィズとの距離感は錯覚でしかなくて、あくまでも私を巫女にさせるためのウィズの態度を、私が勝手に親しい人のように勘違いしてしまったんだわ。
そう、最初から私とウィズは違う世界の人なんだもの。
「巫女、お掛けになったらどうですか」
あの時と同じような声なのに、どうしてこんなに近寄り難いのだろう。
気持ちを押し殺して、「巫女の笑み」を浮かべてウィズを振り返る。
「そうですね。ありがとうございます」
ウィズの言葉に促され、神官長様がお掛けになっていた椅子に浅く腰掛け、膝の上で手を組む。
綺麗に見えるようにと教わった、計算された座り方で、心の隙を見せないように笑顔という鎧を被る。
巫女らしいと思わせるように、水竜の神秘性を守るために。
「今日はいかがなさいました? こんな風に急にいらっしゃるなんて」
「近くに用事がございましたので、巫女のお顔を拝見していこうと思いまして」
「まあ、お忙しいのにありがとうございます」
にっこりと微笑むと、ウィズが微笑み返す。
なんか、心が無い。
巫女という仮面、祭宮と言う仮面、お互いの仮面の中の顔がわからない。
でもそれで巫女らしいと思ってもらえるなら、精一杯それを演じとおすしかないのかもしれない。
巫女とは、水竜の威厳と神秘性の象徴なのだから。
私、頑張ってるでしょう、ウィズ。
でも、本当は会いたいよ。あの時のウィズに。
もう一度、私を見て。神官長様に笑いかけるみたいに。
「本当は巫女にお渡ししたいものがあって、今日はこちらに参りました」
笑顔を崩さず、ウィズが一通の封書を取り出す。
目の前に差し出されたそれは、何の飾り気もない封筒で、ウィズの顔を封筒を見比べる。
誰かからの手紙?
でも、ママからの手紙も、カラからの手紙も、普通に神殿に届いているのに、ウィズを介して送られる手紙は、一体……。
「どなたからでしょう」
「ご覧になればおわかりになりますよ」
そっけなく告げる言葉に促され、ウィズの手にある封筒を取り、近くにあるテーブルからペーパーナイフを取り出す。
銀色のペーパーナイフで、ゆっくりと封筒を開くと、中に入っているのは誰かからの手紙らしかった。