第九話 弟の甘い囁き
硬く密度が高く食べごたえがありそうな真っ黒な楕円のパンに塗られた緑のソース、肉汁が溢れ出しそうな牛肉を薄くスライスしたものとシャキシャキとした青いレタスもどき、輪切りにされた紫の薄い皮の内側にショッキングピンクのゼリー状物質が満たされたトマトもどきに挟まれたサンドイッチ。
その見た目に気後れした斎鹿だったが、半分に切られた楕円のパンの片方を両手で持ち、思い切って一口齧ると派手な見かけによらず、緑のソースはなめらかな食感にコクのあるクリーミーな味で野菜そのものの味と相まって懐かしい素朴な味がした。
「 見た目によらず、味はサンドイッチなのね」
斎鹿が目を丸くしていると、サリルトは右手でカップの取っ手を優雅に持ちそのまま自分の口まで運ぶ。温かいトゥイートティーのコクもありながら、なおかつすっきりとした味わいがサリルトの口内に広がる。
「 それはジアだ」
「 ジア?」
サリルトが口をつけていたカップをソーサーの上に置くと長く細い指を互い違いに組む。
「 手が汚れにくく食べやすい。忙しく食事のとれない時には重宝している」
「 利点としてはサンドイッチと変わらないのね」
サリルトの言葉に斎鹿は食べる手を一時止め、もう一度サンドイッチ改めジアを見詰めるが、それはどう見ても配色を間違えたサンドイッチ。だが、味は美味しいので問題なしと早くも斎鹿はこの世界の食文化に適応しジアを食べ進めた。緑のソースを口元につけ美味しそうに大口を開けてジアを頬張る斎鹿に、サリルトは今日何度目かも知れない大きなため息を吐き、自分もジアへと手を伸ばした。
「で?」
満足いくまでジアを食した斎鹿が紙ナプキンで口元を優雅とは言えない拭き方で拭うと、温くなったトゥイートティーの入ったカップの取っ手に指を入れ口元まで持ち上げ、くんくんと香りを嗅ぐと首を傾けトゥイートティーを口に運んだ。それはアールグレイに似た味がしたが、温くなってしまったからかそれよりも渋みがあり、あまり美味しいとは言い難い味だった。
「 で、とは何だ」
「 だから、これからどうするかってことよ。 元の世界に帰るまでどうするかとか、結婚しなくて済む方法とか」
サリルトはティーポットに手を伸ばし、自分のカップに白い湯気を上げながら注ぎ込む。
「 異世界から来たのが本当だとわかった今、城を出て働くすべがないのだから放り出すことはしない。帰れるまでここで過ごせばいい」
斎鹿はサリルトの斎鹿の意思を無視する言葉に口を尖らせる。
「 別にいいよ。 働いてれば何とかなるもんだし、帰れる方法だって自分で調べるし考える」
「姉上も言っていたと思うが、常識も知識もないのに働くのは無理だと思うが。 それに、元の世界に帰る方法もここに居れば色んな手立てが出来る。街で働き、合間を見て調べるのでは碌に情報も集まらん。 帰るのが遠退くだけだ」
サリルトは当を得ている。
だが、実利のみを追求する言葉に斎鹿はさらに口を尖らせ、怒気を帯びた顔付きになる。
「それに、」
「それに、何よ」
サリエルはますます真剣な顔でその緑の宝石のような瞳を真っ直ぐ斎鹿に向ける。
斎鹿はその真摯な眼差しに不覚にも胸が高鳴った。
「 斎鹿」
サリルトは斎鹿へと向き直り、その口から初めて斎鹿の名前が呼ばれる。
それは、魔法のように斎鹿の荒れていた心へと届き、心の中を優しい風のように吹き抜ける。
「 な、なによ」
斎鹿は、サリルトの瞳を直視出来ず視線を下にそらし、頬を赤く染めながらも素直な言葉は出てこない。
「 ここにいて欲しい」
突然のサリルトの告白に斎鹿はそらしていた視線をあげその緑の瞳を見上げる。
「 ここまで結婚の話が進んでしまったからにはここにいて協力して欲しい招待状が出されてしまったからには、私ひとりの力で姉上を説得するのは困難だ」
身も蓋もない、その実利のみを追求する言葉。サリルトに一瞬でも胸の高鳴りを感じてしまった斎鹿は顔を引き攣らせた。
右手の拳を胸元で握りしめ、そして、感情の赴くがままサリルトの顔めがけてその拳を放つ。
「 何をする」
難なくサリルトの左手に捕えられた斎鹿の渾身の右手。
椅子から立ち上がりながら斎鹿は前のめりになりさらに力を込め押す。
「 自分に嫌気が差した…その澄ました顔、殴らせろ‼︎」
「 自分に嫌気が差してなぜ私が殴られなければならない」
「 それは、私があんたのせいで自分に嫌気が差したからだー‼︎」
サリルトは斎鹿がなぜ怒っているのか理解し難いという表情で、斎鹿が懸命に押している右手を難なく押し返すと、斎鹿は次に左手の拳をサリエルの顔めがけて振り下ろす。
パシッという音と共に斎鹿の左手もサリエルに捕えられた。
両手を捕らわれ、尚も身体を斜めにし両手に自身の全体重をかける斎鹿とそれを何とも思わず顔の前で平然と受け止めているサリルト。戦いはしばらく続き、サリルトが突然捕えていた両手を後ろにひく。
「わぁっ‼︎」
ひかれた手に引っ張られるように斎鹿の身体はサリルトの胸へと倒れ込んでしまう。
鼻をサリルトの肩で打ってしまい痛んだが、それでもサリルトの胸に飛び込んでしまったことの方が斎鹿にとっては重大なことだった。
「斎鹿、協力してくれるな」
それは、悪魔の甘い囁きのように斎鹿の耳をくすぐる。
「斎鹿」
今日、三度目の名前の囁きは、最早斎鹿に抵抗する気さえ起こさせなかった。
「…はい」
斎鹿はがっくりと肩を落とし、サリルトの胸の中で今日一番の大きなため息を吐いた。
姉が悪魔なら弟は大魔王。
ありがとうございました。
2014/10/24 編集致しました。