プロローグ
「アキ……お前との婚約を破棄させてもらう! 『土食い姫』と婚約など虫唾が走る、俺の前から消えろ!」
「……はい、わかりました」
自身のアキ・フォン・メルシィは己の婚約者であるライナス・フォン・リグラントの言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
目の前に居るのは、美しい金髪の偉丈夫。
最初に両親から紹介された時は、こんな人の婚約者が自分でいいのかと思ってしまったほどだった。
こちらに食ってかかるような態度や、自身へ向ける明らかな軽蔑の視線を感じても、アキは抵抗することなく彼の言葉を受け入れた。
無論、何も感じていないわけではない。
だが彼女は心の中でこう思ってしまったのだ。
ああ、やっぱりこの日が来てしまったか……と。
メルシィ伯爵家長女アキ・フォン・メルシィは全てを諦めていた。
『土食い姫』と呼ばれるようになった、あの時からずっと……。
♢♢♢
『土食い姫』。
それは三歳の頃から呼ばれるようになったアキのあだ名である。
小さな頃から、彼女にはある悪癖があった。
「お嬢様、お止め下さい!!」
使用人のメイドが、花壇で前傾姿勢になっているアキの元へと向かう。
慌てた様子のメイドはアキを見て……そのままスッと視線を横へと曲げた。
「……?」
きょとんとした顔をするアキの口の周りは……土で汚れていた。
――そうアキには小さな頃から、土を食べてしまう癖があったのだ。
なぜ食べてしまうのかはわからない。
けれど周囲の使用人や両親が何度も注意をして止めても、気がつけば外に出て土を食んでしまっているのだ。
もちろん物心ついてからはこんなことはおかしいと、自分でも止めようとした。
けれど土を見れば無性に食欲が湧いてしまい、その衝動を抑えきることができなかったのだ。
そんなアキを見た家族の反応は冷ややかだった。
『伯爵令嬢が土を食べる? こんな醜聞、外に漏らすわけにはいかん』
『そんなに土が好きだなんて……あなた、前世は虫か何かだったんじゃない? あだ名を『虫姫』にして、部屋にお仲間をたくさん飼えばいいんじゃないの?』
アキは外出を禁じられ、屋敷の中に幽閉されることになった。
土を見ることがなければ、ひとまず食欲は抑えることができる。
五歳の頃から、屋敷の地下にある窓一つない地下室が、彼女の居場所になった。
自分を見下す使用人、腫れ物に触れぬようこちらに感知しない両親。
自分のことを好意的に見てくれる人は誰もいなくて、アキは永遠にも思える孤独の中で一人膝を抱えていた。
そんな時に現れたのが、彼女の婚約者として現れたライナスだった。
空を思わせる澄んだ碧眼と、黄金でできているのではないかと思うほど見事な金髪。
自信に満ちていた彼との会話は、アキにとって何よりも楽しい時間であった。
だが彼女はどこかでわかっていた。
自分が幸せになどなれないことを。
世界はいつだって、アキにとって残酷なのだから。
♢♢♢
「父上に前々から言ってはいたのだ。リグラント家とメルシィ家の婚姻であれば、何もお前とする必要はないと」
「つまり、あなたの代わりに私が選ばれたってわけ。……ねぇお姉様、最愛の婚約者を奪われて、今どんな気持ち?」
「……フィリア」
ライナスの隣に立っているのは、自身にどこか似ている一人の少女。
アキの目尻を上げて性格をキツくしたような見た目をしている彼女は、妹のフィリア・フォン・メルシィ。
アキとライナスの婚約は、メルシィ家とリグラント家の繋がりを強めるための政略結婚だ。
であれば自分ではなくフィリアが結婚をしても、なんら問題はないということなのだろう。
「でも安心してお姉様、代わりに私の婚約予定だった相手をあなたに譲ってあげることになったから」
にやにやと笑うフィリアを見て、アキにはおそらくそれが碌な相手ではないことはすぐにわかった。
「カッセ帝国のシュヴァルツェンベルク辺境伯よ! 田舎で何もないくせに現地は魔物だらけでひたすら戦いに明け暮れてる野蛮な領地の領主様! 良かったわねアキ、田舎ならあなたが大好きな土も食べ放題よ!」
隣国であるカッセ帝国のことはさほど知らないアキだが、それでもシュヴァルツェンベルク辺境伯家の名は知っている。
凶悪な魔物達の巣食う魔の森と接しているために、常に地獄のような防衛戦を強いられているという家だ。
嘘か本当かはわからないが、土地の魔力が濃密すぎるあまり、その地へ向かった者は数年としないうちに死んでしまうという話だ。
だが彼らが人間達の生存圏を守ってくれているのは間違いなく、そのために彼らに嫁ぐ者達は、ババを引かされることになる。
運が悪くその役目が回ってきたフィリアが、それを自分に肩代わりさせたということなのだろう。
「それじゃあ頑張ってね、お・ね・え・さ・まっ!」
フィリアの言葉にいよいよ耐えきれなくなったアキは、スッと立ち上がり応接室を後にする。
彼女が背中を向けると、後ろからクスクスという笑い声が聞こえてくる。
部屋を出ても、自分の部屋に戻っても、その笑い声は消えることなく頭の中に響き続けていた。
ジメジメとした窓のない部屋の中で、彼女は一人布団の中にくるまった。
「やっぱり、私は幸せには……なれないのね」
悲しいが、不思議と涙は出なかった。
涙はもう涸れきってしまったのだ、とアキは諦念の籠もった笑みを浮かべる。
その日の夜、使用人から父の言葉を伝えられた。
帝国への出立は明後日からになるらしい。
馬車は内側から開けられぬように窓を木枠で打ち付け、南京錠をつけるそうだ。
まるで囚人の護送のようだ、とアキは思った。
こうして彼女は妹の代わりに帝国へと向かうことになる――。
外の景色の見えない鍵のかかった幌馬車に乗せられて、アキは帝国への旅路へ向かうことになった。
三食の食事は出るが、使用人は馬の御者の一人だけであり、彼も食事を出すとそのまま会話をすることもなく馬の世話へと戻っていく。
旅路の最中もアキは孤独だった。
彼女は馬車の中で、ぼうっとしながら時間が経つのを待ち続けていた。
外の景色もわからないが、休息の際に訪れる宿屋や仮眠ごとに羊皮紙に印をつければ、およそ今日が何日目なのかはわかる。
隣国の辺境といえど、馬車で一月半もすれば無事に着くことができるはずだ。
終わりがわかっているのであれば、長旅もまったく問題はない。
同じ場所に何十、何百時間と拘束され続ければ常人ならおかしくなってしまいかねないが、似たような環境で長年暮らし続けていたアキからすれば、この程度辛くもなんともなかった。
むしろ妹や使用人達の嫌がらせがない分、こちらの方が楽だと感じてしまうほど。
馬車が動いている時はさすがに本は読めないが、休憩時間の最中には誰に邪魔されることもなく読書に没頭できるのだから。
「ご飯です」
「ありがとう、バール」
御者のバールは寡黙な男で、アキに調子を尋ねる以外の会話を一つもしてこない。
だが旅が終わりに差し掛かった頃、彼はおそるおそるアキの方に質問をしてきた。
「怖くはないんですか?」
それが何に対しての言葉だったのかはわからない。
けれどアキは何も怖くなかった。
自分が男性と一人で旅をしているという状況も。
不慣れで、何が外で起こっているかすらわからない長旅も。
数年もしないうちに死んでしまうと言われている辺境伯領も。
もはやアキに、怖いものなど何もなかったのだ。




