掌編 記憶を売る市場
「今日は?」
バイトの兄ちゃんは、顔なじみのわたしをチラッと見て話しかけてきた。
「本を買うお金が欲しいんだよ。」
「で、いくら?」
「3万円。」
「何冊買うつもりなんだよw」
ガソリンメーターの逆のように、
データを吸い取った量がカウントされていく。
買取金額は“記憶の彩度”で決まるらしい。
漣こと、わたしは何が買い取られたのか気づいていない。
記憶って、買い取られたあとはどうなるんだろう?
いつもそんなことを考えながら、この装置を見つめていた。
液晶の奥では、淡い光が脈を打っていた。
それが“記憶の痕”なのか、“欠片の残響”なのか、誰にもわからない。
抜き取られた後、そこに何が残るのか確かめようとしても、
指でなぞった瞬間、思考が砂のように崩れていく。
「空になった頭の中に、風が通るんだ」
以前、誰かがそう言っていた。
もしかしたら、その風こそが“わたし”なのかもしれない。
記憶の隙間には、どこかで見たことのある笑顔の男が、危険な商品を押し売りしてくる。
「いや、それ出すと大人の事情でアウトぴこ…」とぴこたんがつぶやいた。
漣は、これを書いている“おぬし”を見つめ、ひとつの真理をつかんでいた。
そう――記憶を買い取った先は、
おぬしが物語として小説を書いているのだ。
漣はページの向こうでこちらを見ていた。
黒い瞳の奥に、まるでインクのような静けさが沈んでいる。
彼女は知っている。
この世界が誰かの“書く手”によって延命されていることを。
「つまり、あなたが私たちの記憶を買っているんだね」
そう言った彼女の声は、文字と化して画面に浮かび、
やがて行間の闇に溶けていった。
モニターの端で、ぴこたんが小さく呟く。
「……この一文も、もう誰かに買われた後かもしれないぴこ。」




