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ひな祭り―高瀬川に託す罪と祈りの物語―

作者: 小川敦人

# ひな祭り―高瀬川に託す罪と祈りの物語―


 風が柳の枝を優しく揺らし、高瀬川の水面には薄い波紋が幾重にも広がっていた。京都の古い町並みを縫うように流れるこの細い人工の川は、何世紀もの間、人々の暮らしを見守ってきた。

 三月の終わり、まだ肌寒さを残す京都の町に、すこしずつ桜の蕾が膨らみ始める頃——。

 五十八歳の葉子は、木造の欄干に手をかけながら、流れる川面を静かに見つめていた。かつて舟運で賑わったこの川も、今は静かに町の記憶を運ぶだけだ。

 「ばあちゃん、これでいい?」

 孫の美咲が差し出したのは、和紙で作られた小さな雛人形。赤い着物の女雛と、青い装束の男雛が寄り添うように並んでいる。

 「ええ、とても上手にできたわね」

 美咲は誇らしげに微笑んだ。「学校の先生が少し手伝ってくれたんだ。明日、みんなで下鴨神社に行くんだけど、私はばあちゃんとここで流したいって思って」


 葉子は目を細めて孫の頭を撫でた。

「そう…ありがとう。三月三日のひな祭り。そして流しびなの行事ね」


 高瀬川の景色を見つめていると、葉子の意識はゆるやかに過去へと遡っていく。自分がまだ六歳だった頃、母に手を引かれてこの川辺を訪れた記憶が甦るのだ。当時はまだ、周囲には小さな町家が連なり、時折、川魚を捕る漁師の姿も見かけたものだ。

 「葉子、川に人形を流せば、厄が一緒に流れていくのよ」

 母はそう微笑みながら、丁寧に折り紙で作った人形を手渡してくれた。当時の葉子には"厄"がどんなものかはわからなかった。ただ、紙の人形を水に流す不思議な儀式に胸が躍ったこと、そして母の横顔が夕暮れの光の中で神々しく見えたことだけを覚えている。


 「ばあちゃん、どうかしたの?」

 美咲の声に、葉子は思い出の世界から引き戻された。

 「少し昔を思い出していたの。私もあなたと同じ年頃に、ここで流しびなをしたことがあるのよ。高瀬川は昔から変わらず、私たちの思い出を運んでくれるの」


 その夕方、葉子と美咲は夕食の準備をしながら、明日の流しびなの話に花を咲かせていた。葉子は本棚から古い文学全集を取り出した。

 「美咲、少し面白い話を聞かせてあげるわ。この高瀬川には悲しい物語もあるのよ」

 美咲は好奇心に目を輝かせて、椅子に腰かけた。

 「江戸時代、この川では『高瀬舟』と呼ばれる小舟が、罪人たちを島流しの地へ運んでいったの。彼らは、京の町を後にして、二度と戻れぬ遠い流刑地へと向かった。森鷗外という作家がそんな物語を書いているわ」

 「罪人って、どんな人たちだったの?」

 「さまざまね。中には『安楽死』という言葉がなかった時代に、苦しむ兄を楽にしてあげるために命を絶ってしまい、それで罪に問われた喜助という男性の物語もあるのよ」

 美咲はそっと窓の外を見やり、暮れていく高瀬川の流れに思いを馳せた。

 「その人たちも、私たちみたいに悩みを川に流したのかな?」

 葉子は遠い目をして言った。「きっとそうよ。高瀬舟に乗せられた罪人たちは、心の中でこう思ったのかもしれないわ——」


 「もうこの世とはお別れだな。二度と戻れぬ旅立ちよ」

 「ああ、我らの罪も、悲しみも、すべて川に流して行くのじゃ」

 「せめて、都の記憶だけは心に留めておきたい」

 「舟の上から見る桜が、これが最後の都の春ではないか」


 美咲は静かに聞き入っていた。

 「でも、その喜助って人は悪い人じゃなかったんじゃない?」

 「そうね。鷗外の『高瀬舟』では、罪を犯したはずの喜助がどこか穏やかで、それを護送する同心の庄兵衛が不思議に思う場面があるの。喜助は貧しさから解放されて、食べ物や寝る場所に困らない牢屋で、かえって心が安らいでいたのよ」

 「不思議な話だね…」

 「そうね。人の心や罪と罰について、考えさせられる物語なの。だから私たちが人形を流すときは、ただ厄を払うだけじゃなく、その人たちの複雑な心の内も少しだけ理解できるといいわね」

 美咲は黙ってうなずいた。小さな肩に大きな歴史の重みを感じているようだった。


 翌日。薄い朝もやの漂う高瀬川には、まだ人通りも少ない。川面からはわずかに冷たい湿気が立ち上り、京都の早春を告げていた。遠くでは三条大橋を渡る車の音がかすかに聞こえる。

 「美咲、準備はいい?」

 葉子が声をかけると、孫は大きくうなずく。昨日から大切そうに抱えていた紙の雛を両手に持ったまま、やや緊張した面持ちだ。

 「学校では、流しびなは厄を払うって習ったんだ。私の厄って、どんなのがあるのかな…」

 小さな唇をぎゅっと結びながら、彼女は葉子を見上げる。


 葉子は笑みを浮かべ、そっと手を重ねてやった。

 「大人から見れば小さな悩みでも、あなたにとっては大きな山かもしれないわ。大事なのは、心を込めて人形に託すこと。悩みや不安が少しでも軽くなるなら、それで十分じゃない?高瀬川はね、昔から人々の思いを海まで運んできたのよ」


 静かな水面を見つめながら、葉子は昨夜美咲に語った高瀬舟の罪人たちのことを思い出していた。自分の悩みを川に流す行為が、何百年も前の人々とつながっているような不思議な感覚。

 「ねえ、美咲。あなたが人形に悩みを託すとき、昔の人たちも同じように、自分の思いを川に委ねたのね。『もう二度と戻れぬ旅路に出る前に、せめて悲しみだけは川に流していきたい』そんな気持ちだったのかもしれない」

 「私たちの人形も、遠い海まで行くんだよね」美咲がつぶやいた。

 「ええ、きっとそうよ」


 美咲はこくんとうなずき、人形の背に書きつけた小さな文字をそっとなぞった。

「算数で満点が取れなかったこと、友達の誕生日をうっかり忘れちゃったこと……あとは、夜ひとりで寝るのが、やっぱりちょっと怖いんだ」

 幼い声で打ち明けられる悩みに、葉子は自分の幼少期を重ねずにはいられない。似たような思いを抱いていた自分を思い出し、胸が温かくなる。


 「大丈夫。それをすべてこの子たちに託して、川に流してあげましょう」

 葉子はかつて母に教わった手順を思い起こす。三度お辞儀をして、人形を両の手の平で支えるようにしながら、「わたしの厄を持っていってください」と心の中で念じる——その一つひとつが、幼い頃の自分を救ってくれたように思えるからだ。


 川の岸辺に座り込み、二人は足を揃えた。葉子は西陣織の風呂敷から取り出した自分の雛人形を手に取った。母から教わった型どおりに作られた素朴な和紙の形。何十年も変わらぬ形が、時の流れを超えて今ここにある。


 美咲は真剣な表情で深く頭を下げ、そっと水面に人形を置いた。葉子も同じように自分の人形を水に浮かべる。

 「さようなら、ありがとう」

 その小さな声は、かつて葉子が同じ年齢のときに呟いた言葉と同じだった。教えたわけではないのに、まるで血の繋がりが言葉を通じて続いているように感じられる。


 人形を水に浮かべた後、美咲は小さな声で言った。

 「ばあちゃん、昨日話してくれた高瀬舟の人たちみたいに、私もお別れの言葉を言っていい?」

 葉子は少し驚きながらも、優しくうなずいた。

 美咲は手を合わせ、静かに言った。「私の悩みよ、遠い海へ行ってください。もう振り返らないで。でも私のことは、ちょっとだけ覚えていてね」

 葉子は思わず目を潤ませた。昔の流人たちの別れの言葉が、時を超えて美咲の口から紡がれる不思議。高瀬川に宿る長い記憶の連なりを感じた瞬間だった。


 人形は四つ並んでゆらゆらと揺れながら、やがて川の流れに乗って遠ざかっていった。短い歴史の中で一番美しい瞬間だ。

 「ねえばあちゃん、人形はどこまで行くんだろう?」

 「きっと鴨川に合流して、宇治川へ、そして淀川を通って大阪湾へ流れていくわ。高瀬川が掘られたのは、京都と大阪を結ぶ水運のため。昔、高瀬舟で運ばれた罪人たちも、きっと同じ道を辿ったのよ」


 帰り道、二人は高瀬川に沿って歩いた。江戸時代に掘られたこの川沿いには、かつて材木商が軒を連ね、今でも古い町家が残る。美咲は何か思い出したように「あっ!」と声をあげる。

 「どうしたの?」と葉子が尋ねると、彼女は気まずそうに言った。

 「学校で流すはずの人形まで、全部流しちゃったかも……」

 その途端、葉子は思わず吹き出した。

 「あらあら、新しいのを作りましょう。今度は一緒に作ってみる?昔ながらの方法で教えてあげるわ」

 美咲は恥ずかしそうに笑う。


 「ばあちゃん、昨日話してくれた高瀬舟の喜助さんって、本当に罪人だったの?」

 葉子は遠くを見るような目で言った。「物語の中では、彼は確かに法律の上では罪を犯した。でも、心の中は清らかだったのかもしれない。庄兵衛という役人が喜助を護送しながら、彼の心の穏やかさに驚くんだけど、実は喜助は兄を安楽死させた後、自分も死のうとしたのに失敗したの。そして生きていくうちに、牢屋の中でかえって安らぎを見つけたという複雑な人物なのよ」

 美咲は首をかしげた。「難しいなあ…」

 「そうね。善と悪の境界って、時に曖昧なこともあるのよ。高瀬舟に乗せられた人々は、外からは罪人と見られていても、それぞれの物語と心の葛藤を抱えていたのね」


 午後、二人はテーブルいっぱいに色とりどりの和紙を広げ、糊やハサミを用意した。葉子が京都の古い民謡を口ずさむと、美咲は「その歌、教えて!」と身を乗り出してくる。まるで時間が円を描くように、世代を超えて繋がっていく瞬間だった。

 ゆったりとした調べが家の中に満ちると、遠い昔に母と二人で過ごした光景が葉子の脳裏に蘇った。母の手元を食い入るように見つめ、和紙の扱い方を覚えた日のこと。あのときと同じ匂いが、部屋の中に漂っている気がする。


 「ねえ、ばあちゃん、喜助さんのことで思ったんだけど、悪いことをしても、心が穏やかでいられるって、どういうことだろう?」

 葉子はしばらく手を止めて考えた。

 「そうね…鷗外の『高瀬舟』では、喜助は苦しむ兄を楽にしてあげたいという思いから行動したの。自分のしたことが正しかったとは言わないけれど、後悔もしていない。そして貧しさから解放されて、牢屋の中でかえって心が安らいだというの。人の心というのは、複雑なものね」

 美咲は真剣な眼差しで葉子を見つめていた。

 「だから昔、高瀬舟に乗せられた人たちの中には、喜助のように、罰を受けながらも心の平安を見つけた人もいたのかもしれないわね」


 一週間後、学校での流しびな行事が終わり、美咲は家に帰るなりその様子を報告してくれた。

 「先生が言ってた。平安時代からある行事で、人形を身代わりにして川に流すんだって。だけど私ね、ばあちゃんとやった高瀬川での流しびなのほうが"本物"って気がするんだ。私、すごく心を込めたもん」

 葉子はうれしそうに微笑んだ。

 「そうね、何事も心がこもっていれば、それがいちばん本当の形かもしれないわ。高瀬川は静かだけれど、きっとあなたの気持ちをしっかり受け止めてくれたはずよ」


 「ねえ、ばあちゃん、高瀬舟の喜助さんのことも学校で発表してもいい?」

 葉子は少し考えてから答えた。「ええ、いいわよ。『高瀬舟』は難しい物語だけど、人間の心の複雑さを描いた大切な作品なの。歴史の中の悲しい出来事も、私たちが忘れずに伝えていくことに意味があるわ。高瀬川は喜びも悲しみも、すべてを包み込んで流れているのだから」


 季節は巡り、また春が訪れる。葉子は相変わらず三月になると、母との思い出を胸に、高瀬川を訪れるのが習慣だ。夫の転勤で東京へ移り住んだ時も、三月三日には京都へ戻ってきた。その儀式が、葉子にとって、母を感じる大切な手段だったからだ。同時に、この細い水路に自分自身の過去を見る時間でもあった。

 今では美咲だけでなく、彼女の友達も集まって一緒に紙人形を作り、川に流すようになった。古い習わしが、また新しい形で若い世代に引き継がれていく。

 「ばあちゃん、本当の流しびなってどんな気持ちでやるの?」と美咲の友達が純粋な瞳で尋ねると、葉子は優しく答える。

 「心が軽くなるように、そして春を迎える準備をするようにやるのよ。大切なのは、それぞれの思いを込めること。神社だろうと、この高瀬川だろうと、気持ちがあればどこだって素敵な場所になるの」


 一人の少年が「高瀬舟の物語も教えてください」と言うと、葉子は微笑んだ。

 「いいわよ。昔、この川を舟で下っていった人々のことを伝えることも、私たちの役目かもしれないわね」

 子どもたちは、葉子の周りに輪になって座った。そして彼女は、鷗外の「高瀬舟」の物語を、子どもたちにもわかるように優しく語り始めた。罪と赦し、悲しみと安らぎ、そして人間の心の複雑さについて。


 川面に浮かべられた無数の小さな紙の人形。春の陽射しがキラキラと水面に反射しながら、それらを静かに運んでいく。京都の町に流れる高瀬川は、数百年の時を経てなお、人々の思いを運び続けている。

 葉子は川の流れを見つめながら、そっと目を閉じた。

 「お母さん、今年も来たわ。あなたが教えてくれたものを、次の世代にちゃんと伝えています。この川が流れる限り、私たちの記憶も続いていくでしょう」

 そう心の中で呼びかけると、不思議と胸が温かくなる。柳の枝を撫でる風とともに、まるで母の笑顔が返ってきたような気がした。

 高瀬川は今日も淡々と、けれど確かに多くの人々の記憶を運んでいる。そこには母の思い出も、葉子の思い出も、高瀬舟で運ばれた罪人たちの複雑な心の内も、そして新しく刻まれつつある美咲やその友達の思い出も——すべてが音もなく溶け込んでいくのだ。



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