9話
ヨアンナの操る馬車は、穏やかに揺れながら街道を進んでいた。
荷台の上、俺とエリシアは腰を下ろし、時折吹く風を浴びながら無言で揺られている。
ふと、御者台からヨアンナの陽気な声が響いた。
「お二人さん、荷台の果物、好きに食べていいよ」
俺とエリシアは同時にそちらを見た。
「本当ですか? ありがとうございます!」
エリシアは嬉しそうに目を輝かせ、すぐに近くの袋に手を伸ばした。
俺は一瞬、その行動を止めようかと迷う。
(不用意に他人からもらった食べ物を口にするのは……)
だが、ヨアンナの厚意を疑うのも失礼だ。
ましてや、馬車に乗せてもらっている以上、恩を仇で返すわけにもいかない。
俺は結局、心の中に留めることにした。
エリシアは袋の中から赤い果実を取り出す。
まるでリンゴのような丸みを帯びた形をしているが、色はより鮮やかで、表面に細かい斑点がある。
「わぁ……美味しそう……」
エリシアは一度その果実を愛おしそうに眺めた後、シャクッと一口かじった。
「ん~~! 美味しいです!」
頬に手を当て、幸せそうな表情を浮かべるエリシア。
その様子にヨアンナが得意げに笑う。
「だろう? そのリンガは、この辺りじゃ最高級品さ」
「すごく甘くて、ジューシーですね!」
「リンガ……?」
俺は小さく呟く。
どこかリンゴに似た響きだ。
果実の形状も近いし、もしかすると俺のいた世界と共通した食べ物なのかもしれない。
そんなことを考えていると、エリシアが俺の方にリンガを差し出してきた。
「ゼロさんも食べてみてください!」
俺は手を軽く上げ、首を振る。
「俺はいい」
「えぇ~? こんなに美味しいのに、もったいないですよ!」
「ヨアンナさんのリンガ、食べないと損ですよ?」
エリシアは頬を膨らませながら、荷台にもたれかかるように俺を見る。
それでも俺は、気が進まなかった。
(異世界の食べ物に慣れるのは、もう少し情報を集めてからだな)
「ゼロさん、ほら!」
エリシアは俺の拒否を気にせず、さらにぐいっと手を伸ばしてくる。
しかし、距離が足りないと感じたのか──
エリシアは俺にリンガを直接手渡そうと、揺れる馬車の中で立ち上がった。
俺はすかさず声をかける。
「おい。危ないぞ」
「平気です!」
そう言いながら、エリシアは俺の方へと一歩踏み出した。
──だが、その瞬間だった。
ガタンッ!!
車輪が大きな石を踏み、馬車が激しく跳ねる。
「きゃっ!」
今までで一番大きな揺れ。
座っていた俺でさえバランスを崩しそうになるほどだ。
当然、立ち上がっていたエリシアは耐えられなかった。
「わっ、わっ……!」
エリシアは必死にリンガを落とさないようにしながら、バランスを取ろうとする。
だが、体勢を立て直すよりも先に──
彼女の体が、俺の方に傾いた。
(嫌な予感がする)
そんな思考が脳裏をよぎった次の瞬間──
ドンッ!!
エリシアの体が前のめりに倒れ込み、俺の顔面に直撃した。
しかも、彼女の豊かな胸当て部分が、俺の額を直撃する形で。
「ぐっ……!」
鋼鉄の鎧が直撃し、鈍い痛みが走る。
金属製の胸当てとはいえ、密着すると彼女の柔らかさが伝わる……。
が、それどころではない。
「うぅ……」
エリシアは顔を上げ、俺を見つめた。
「あ……」
気まずそうに、ほんのりと頬を染めている。
俺は彼女の体を支えながら、少し冷めた顔で言った。
「……痛いんだけど」
額に手を当てると、少しだけ鼻血が滲んでいた。
エリシアはそれに気付き、慌てて体を起こし、俺から距離を取った。
「ご、ごめんなさい!!」
焦ったように何度も頭を下げるエリシア。
俺はため息をつきつつ、鼻血を拭いながら「大丈夫だ」と軽く手を振った。
しかし、そのやり取りを見ていたヨアンナは──
「二人とも、お熱いねぇ!」
御者台からニヤニヤした顔でこちらを見ていた。
「な、何を言ってるんですかっ!?」
エリシアの顔が一気に真っ赤に染まる。
「いや、だってさぁ。普通あんな倒れ方する? まるで運命みたいじゃないかい?」
「う、運命なんて、そんな……!」
「いいねぇ、若いって!」
ヨアンナは楽しそうに笑いながら、馬を軽くあおった。
馬車は再び緩やかに進み、俺たちは町へと向かっていく。
(……とんだ旅の始まりだな)