猫をかぶった王子は幼馴染を溺愛している
水晶宮と呼ばれる離宮は、王宮の片隅にひっそりと存在していた。数代前の王が愛妾のために建てたこの場所は、豪華だった過去の記憶を微かに留めているだけで、今ではただ古びた建物でしかなかった。風雨に晒された外壁にはひびが入り、庭の木々は剪定されることなく好き勝手に枝を伸ばしている。
侍女服を着たニコレッタが長い梯子を昇り、窓の外側を布で拭いていた。薄紅色の細かくウェーブした髪が陽光を浴びて柔らかく光り、窓ガラスに反射してきらめいている。
「ニコ、そんな高いところ危ないよ!」
クリスティアンが心配そうに声をかけた。儚げな金髪と金色の瞳を持つ彼は、そわそわと彼女を見上げた。
「大丈夫よ」
ニコレッタは振り返りもせずにさらりと答えた。
「慣れてるし」
「……それでも気をつけてよ」
クリスティアンは小さくため息をつき、彼女の動きをじっと見守る。
彼女は布をひと拭きし、満足げに窓の汚れを確認すると、梯子を降り始めた。だが、その瞬間、クリスティアンの顔が引きつった。
「ちょ、ちょっと待って!僕が下から支えるから!」
慌てて梯子に駆け寄るクリスティアン。その動きがあまりにも慌ただしいので、ニコレッタは梯子の途中で止まり、笑いをこらえた。
「そんなに慌てることないってば」
彼女は冷静な声で言い、ふわりと軽やかに地面に着地する。
「ほら、大丈夫でしょ?」
クリスティアンは彼女の腕を掴むようにして、心配そうに彼女を見つめた。
「無理はしないでよ。ニコにもしものことがあったら……僕、困るんだから」
その言葉に、ニコレッタは少しだけ目を丸くしたが、すぐに笑って肩をすくめた。
「何よそれ。相変わらず可愛いんだから。」
「……君とステラがいないと、本当に僕、何もできないし」
クリスティアンは少し頬を赤らめながら俯いた。
その仕草は儚げで、どこか守ってあげたくなるようなものだった。
食堂では、乳母のステラが鍋の蓋を開け、煮込み料理をテーブルに運んでいた。ステラはクリスティアンの母の親友であり、ニコレッタの母だ。クリスティアンの母を支え、親友が儚くなった後はずっとクリスティアンを支えてきた。
夫を亡くした後は、離宮住み込みでクリスティアナ王女の守護者としての役目を果たし続けている。
ニコレッタを育てながら。
「ニコ、クリス、手を洗っておいで」
優しく穏やかな声で促すステラに、二人は素直に頷いて席についた。
「午後はどうするの?訓練するんでしょ?」
ニコレッタがスプーンを持ちながら言うと、ステラが微笑みながら頷いた。
「ええ、クリスもニコも腕が鈍らないようにしておかないとね」
「僕、ちゃんと練習してるよ」
クリスティアンが少し抗議するように言うが、その声にはどこか控えめな響きがあった。ニコレッタがすかさず笑いながら言い返す。
「クリス、前回の稽古で私に一回も触れられなかったじゃない」
「それは君の動きが早すぎるんだよ!なんか妙に間合いの取り方が上手いし」
少し拗ねたように言いながら、クリスティアンはパンを齧った。その様子を見て、ステラとニコレッタは思わず笑みを交わした。
この場所では、三人だけの時間が穏やかに流れていた。
離宮という孤立した世界の中で、クリスティアンにとって味方と呼べるのはこの親子だけだった。
昼食が終わる頃、外から硬い足音が響いた。
ステラが眉をひそめながら扉を開けると、そこには王宮の従者が立っていた。
従者は冷たい視線でぼろぼろのワンピースを着たクリスティアンを見つめると、形式的な口調で言った。
「クリスティアナ様、国王陛下がお呼びです」
その言葉に、室内の空気が一変した。クリスティアンは目を見開き、思わず硬直する。
「……ぼ、私を?」
クリスティアンの声は震えていた。
王宮に暮らしていても、国王から直接呼ばれるなど初めてのことだった。
「馬車が門の前でお待ちしております。」
従者はそう告げると、無表情のまま頭を下げた。
「私もついていきます」
ニコレッタがすかさず口を開く。
その声には迷いがなく、クリスティアンを守るという決意が込められていた。
ステラも静かに頷き、ニコレッタの肩を軽く叩いた。
「しっかりクリスティアナ様をお守りするのよ」
「ええ。もちろんですわ。お母さま。さ、支度を手伝いますわ。クリスティアナ王女殿下」
ニコレッタが真面目な顔で返す。
クリスティアンは深く息を吐き、ゆっくりとうなずいた。
広間は重厚な静けさに包まれていた。
高くそびえる柱と、荘厳なステンドグラスから差し込む光が、部屋全体に冷たい神聖さを漂わせている。
クリスティアンはゆっくりと歩みを進めながら、心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。
目の前には、金色の王冠を戴き、王座に座る国王――彼の父の姿があった。
その背筋はどこか疲れたように曲がり、鋭い瞳はクリスティアンを見ているようで見ていない。
彼にとって、国王は父親ではなく、この宮廷の冷たい支配者に過ぎなかった。
「陛下、クリスティアナ様をお連れしました」
従者の声が広間に響き、クリスティアンは静かに跪き、頭を下げた。
「顔を上げよ」
国王の声は低く、淡々としている。その冷たさは、まるで彼に対する無関心そのものを象徴していた。
クリスティアンは顔を上げ、国王を見据えた。
その瞬間、彼は心の中で確信する。
この男――自分の父は、自分をまだクリスティアナという名の王女だと信じて疑っていない、と。
「お前をここに呼んだのは、隣国の皇子――アラン殿下からの申し出についてだ」
国王は口調を変えることなく話し始めた。その視線には親しみも温かさもなく、ただ形式的なものだけが宿っている。
「申し出、ですか?」
クリスティアンは冷静を装って尋ねたが、心の奥では嫌な予感が広がっていた。
「そうだ。彼が、お前を第四妃として迎えたいと申し出てきた」
国王の言葉はまるで他人事のようで、その態度にクリスティアンの胸は冷たく締め付けられた。
「……なぜ、私にそのような申し出を?」
クリスティアンはあえて問いかけた。
その声は静かだが、その裏には怒りが隠されていた。
「先日王家の庭園を散策している際、たまたま遠くからお前を見て、気に入ったらしい。」
国王は何の感情もこめずに続けた。
「皇子はすでに三人の妃を持っているが、外交上、彼の望みを無視するわけにはいかない。」
「……外交上……。」
クリスティアンは心の中でその言葉を繰り返した。それが王としての言葉であることは理解できるが、父親としての温かみは一切感じられなかった。
「お前も、王家の者としての役目を理解しているだろう」
国王は冷ややかに言葉を続ける。
「これは、我が国と隣国の関係を強化するための重要な一歩だ」
その言葉に、クリスティアンの胸には複雑な感情が渦巻いた。この男は自分を娘として扱い、さらに国益の道具としてしか見ていない。
クリスティアンの心に母の顔が浮かんだ。
優しく微笑む彼女の姿、そして病に倒れたあの日。
彼女はクリスティアンに最後にこう言った。
「あなたは絶対に生き延びて、自由になりなさい。」
この国王の側妃である母は、クリスティアンが男であることを隠し、命を守るために女として育てる道を選んだ。
王妃の子は女児一人。ここで側妃が男児を産めば、跡取りは側妃の子に決まる。
それは下級貴族から嫁ぎ、後ろ盾のない母親にとっては望まないことだった。
何度も王妃から嫌がらせと刺客を送られていたことで、身の危険をずっと感じる生活をしてきたことが大きい。
そして、その決断は、国王から守られることがなくても自分自身で子どもを守るという覚悟を表していた。
クリスティアンは金色の瞳を静かに伏せた。
「……本当にそれが、この国の利益になるのでしょうか。」
クリスティアンは意を決して問いかけた。
その声には、父への失望と、どこか挑戦的な響きがあった。
国王はわずかに眉を動かし、冷たく彼を見下ろした。
「お前がそれを考える必要はない。お前の役目は、王家の一員としてこの国に尽くすことだ」
「王家の一員として、ですか」
クリスティアンは静かに言葉を返した。その金色の瞳は父をまっすぐに見据えている。
「そうだ」
国王は短く答えた。その態度には、父親としての情など微塵も感じられない。
「お前がその役目を果たすことが、この国の安定に繋がる」
(役目……僕を政略に使うしか能のない王女だと世話役も満足に付けずに離宮に放置していたくせに。いまさら王族の役目って)
クリスティアンの胸には怒りが渦巻いた。だが、その感情を表に出すことはしなかった。
「これ以上の議論は無意味だ」
国王は話を終わらせるように言った。
「アラン殿下が再びお前に会いたいと言っている。準備を整え、彼の望みに応えるように」
「承知いたしました」
クリスティアンは静かに頭を下げた。その声は従順な娘のように聞こえたが、その胸の中には反抗心と怒りが燃え上がっていた。
「下がれ」と国王は短く言い放ち、再び彼を視界から外した。
クリスティアンは広間を後にしながら、心の中で決意を固めた。自分はこの王宮に囚われ続けるつもりはない。
廊下に出ると、ニコレッタが心配そうに声をかけた。
「クリス、大丈夫?」
「……大丈夫だよ。」
クリスティアンは小さく微笑んだ。
水晶宮の庭は、かつての豪奢な雰囲気をかすかに感じさせるが、見た目は遺跡のようだった。
古びた噴水は枯れ果て、苔むした石畳が敷き詰められたその場所は、静寂の中に忘れられた時間を漂わせている。
薄曇りの空の下、10歳のクリスティアン・ナルチスは庭で遊んでいた――いや、遊ぼうとしていた、というほうが正しい。
彼は細い腕で木の枝を握り、剣のように振り回している。
しかし、その動きにはどこか頼りなさがあり、枝はすぐに石畳にぶつかって飛び散った。
「……あ!」
小さな声とともに、クリスティアンは足元の石につまずき、そのまま地面に崩れ落ちた。膝に擦り傷を負い、汚れた手で顔を覆うと、すぐに涙が頬を伝った。
「痛いよ……」
その場に駆け寄る影があった。
薄紅色のウェーブした髪を揺らし、幼いニコレッタ・フローリンが走り込んできた。
彼女の小さな顔には焦りが浮かんでいる。
「クリス、大丈夫?」
彼女は膝をつき、涙を浮かべた彼の顔を覗き込む。
「……痛い……痛いよ……」
クリスティアンは涙声で呟いた。
その膝には、ほんの小さな擦り傷ができているだけだったが、彼にとっては大事件だった。
ニコレッタは小さなため息をつき、ポケットから取り出したハンカチで彼の膝を優しく拭いた。
「こんなの、痛いうちに入らないわよ。ほら、立ちなさい。」
だが、クリスティアンは首を横に振り、膝を抱え込んだままだった。
「……無理だよ。僕、痛くて歩けない」
「まったく、泣き虫なんだから」
ニコレッタはそう呟きながら立ち上がり、クリスティアンに手を差し出した。
「ほら、私が手を引いてあげるから。大丈夫」
彼女の真剣な瞳に押されるようにして、クリスティアンは恐る恐るその手を取った。
彼女の手は小さかったが、不思議と力強さを感じた。
「ねえ、クリス」
彼の手を引きながら、ニコレッタが静かに言った。
「私、これからずっと、あなたを守るわ」
クリスティアンは目を丸くして彼女を見上げた。
「僕を……守る?」
「そうよ。だって私、騎士だったお父様の子どもだもの。お母様だって騎士家系の出身よ。絶対に強くなって、クリスを守れるようになるわ」
彼女はそう言いながら微笑んだ。
その笑顔は幼いながらも凛としていて、どこか頼もしさを感じさせた。
クリスティアンは涙をぬぐいながら、微かに笑みを浮かべた。
「……ありがとう、ニコ」
「私たち、ずっと一緒よ。クリス。だから泣かないで。なにも寂しくないわ」
ニコレッタのその言葉は、庭の静けさに吸い込まれるように響いた。
もっと小さな頃に父親を亡くしたニコレッタは、唯一の味方である母親を亡くしたばかりのクリスが寂しさと不安でいっぱいなことを心のどこかでわかっていた。
その夜、クリスティアンの傷が乾く頃、彼は部屋の隅に座り、遠くを見つめていた。
母親が亡くなって数か月が過ぎても、その心の痛みは癒えないままだった。
「クリス、まだ寝ていないの?」
ステラがそっと声をかけた。
クリスティアンにとって彼女は乳母であり、今となっては母親代わりでもあった。
彼は顔を伏せたまま、小さな声で呟いた。
「……お父様はどうして、お母様を助けてくれなかったんだろう。あんなに辛そうに魘されてたのに、会いにも来てくれなかった」
ステラはそっと彼の隣に座り、その背中に手を置いた。
「あなたのお母様はね。あなたを守るためにたくさん戦ってこられたのよ」
「……でも、お母様は……王妃殿下には勝てなかった」
クリスティアンの声は震えていた。その小さな手は膝の上で固く握られている。
ステラはしばらく黙っていたが、やがて優しく語り始めた。
「あなたのお母様はね、クリスが生き延びられるように全てをかけたの。だから、あなたのお母様は勝利したのよ。誇りなさい」
「……勝利?」
「そうよ。あなたがこうして生きている。それは、お母様がどんなに頑張ったかの証なの」
ステラの言葉は優しく、それでいて確かな力を持っていた。
「あなたはその命を大切にしないといけないのよ。そして、いつかお母様ができなかったことを成し遂げてね」
クリスティアンはその言葉に目を見開き、静かに頷いた。
水晶宮の一室に、柔らかな陽光が差し込んでいた。
古びた家具と長年使われた絨毯が部屋の歴史を語っているが、そこにはどこか温かみがあった。部屋の中央にはクリスティアンが立ち、長い金髪を整えながら鏡に映る自分を見つめている。その手には、刺繍の施されたドレスが握られていた。
「……これ、本当に着るの?」
クリスティアンはドレスを手に取り、ため息混じりに呟いた。
それは以前、王家は強制参加の夜会で使ったお古のドレスで、袖口や裾に新しい刺繍が施されている。全体的に控えめなデザインだが、その刺繍には細やかな工夫が見られた。
「もちろんよ」
後ろからニコレッタの明るい声が響いた。薄紅色の髪が光を受けて揺れる。
「いいかんじでしょう?皇子殿下が簡単に手出しできないくらいにクリスの美しさを演出してやるんだから」
彼女は手に針箱を持ち、ドレスの仕上がりをもう一度確認するように眺めた。
「君が刺繍してくれたのは感謝してるけど……ちょっと可愛すぎない?僕は殿下に見初められに行くわけじゃないんだけれど」
「もう見染められてるでしょ」
「まあ、うん。そうなんだけど」
クリスティアンは不満そうに言いながら、もう一度ドレスを眺めた。
「皇子殿下になめられないようにしないといけないでしょ?だったら人一倍きれいにしないとね」
ニコレッタは小さく笑いながら彼に歩み寄った。
「私もちゃんとフォローするわ」
「フォロー?」
クリスティアンは眉を上げて彼女を見つめた。
「そう。あなたが男だとバレないように、私がしっかり隣でサポートするってこと」
ニコレッタは任せとけとでもいうように自分の胸を叩いた。
「だから心配しないで、堂々としていればいいの」
クリスティアンは渋々ドレスに袖を通し、鏡の前に立った。
ふんわりとしたシルエットのドレスが彼の体を包み、華奢な体つきを巧妙に隠している。
その姿は、誰が見ても王家の気品を漂わせた王女そのものだった。
「髪を整えましょう」
ニコレッタが手を差し伸べ、彼の金髪を丁寧にすくう。
その指先が慎重に髪に触れるたびに、クリスティアンは妙な緊張感を覚えた。
「似合っているわ」
ニコレッタは微笑みながら言った。
「あなたの髪は本当に綺麗だもの。きちんと整えれば、誰だって見惚れるわ」
「見惚れてほしい相手がいないんだけどね」
クリスティアンは苦笑いを浮かべながら答えた。
「でも、皇子殿下には好評だったみたいじゃない」
ニコレッタは軽口を叩きながら髪を結っている。
「だから嫌なんだよ」
クリスティアンは不満げに言った。
「あの男、女ったらしなんだろう?隣国中で有名なくらいの」
「まあ、噂には聞くわね」
ニコレッタは少し笑いながら答えた。
「でも、あなたは大丈夫よ。私が守るから」
「僕は君のほうが心配だよ」
クリスティアンがぼそりと言ったその言葉に、ニコレッタは手を止めた。
「……私?」
「君の赤い髪も、月のような透き通った黄色い目も、本当に綺麗だ。君だってあの男に目をつけられるんじゃないかって、それが嫌なんだよ」
クリスティアンは視線を伏せながら呟いた。
ニコレッタはその言葉に驚き、そして少し頬を染めた。
「何言ってるのよ、急に。あなたのほうがずっと可愛いじゃない」
「君こそ、自分がどれだけ可愛いか分かってないだろう」
「もうクリスったら。どこでそんなお世辞覚えてきたの?私を褒めてもなにも出ないわよ」
「そんなんじゃないよ!」
クリスティアンは少しだけ口調を強めて言った。
「君がそんなだから、余計に心配なんだ」
その言葉に、ニコレッタは一瞬何も言えなくなった。
彼の真剣な表情を見ていると、軽く流すことができなかったのだ。
着替えと髪結いを終えたクリスティアンは、再び姿見の前に立った。
ドレスと髪型が完璧に整えられたその姿は、気品そのものであり、誰が見ても王女として申し分のない装いだった。
「……これでいいかな」
クリスティアンは静かに呟き、鏡の中の自分を見つめた。
「完璧よ」
ニコレッタは満足げに頷きながら答えた。
「誰が見ても美しい王女様ね」
馬車の準備が整い、二人は廊下へ向かう。古びた水晶宮の廊下を歩きながら、クリスティアンはふと立ち止まった。
「ニコ、お願いがある」
彼は真剣な表情でニコレッタを見つめた。
「何?」
ニコレッタは足を止めて振り返った。
「今日は、君は前に出ないでほしい」
クリスティアンは静かに言った。
「……分かったわ。でも何かあったらすぐにフォローするから、安心してね」
「ありがとう」
クリスティアンは少し笑みを浮かべ、馬車へと乗り込んだ。
貴賓室の扉を開けた瞬間、豪奢な装飾と、漂う重厚な空気が二人を迎えた。
室内には柔らかな光が差し込み、青と金の絨毯が部屋の中心へと導いている。
その中央に立つのは、隣国の第三皇子アラン。
青と金を基調とした高貴な衣装に身を包み、その瞳は鋭くも楽しげに細められている。
アラン皇子は外交の場では抜群の切れ者として知られていた。
口説き文句が滑らかに出る舌は、交渉の場でも敵を翻弄する武器となっている。
だが、その目はいつでも相手を値踏みするような冷静さを失わない。
今、その視線がクリスティアンに注がれていた。
「お噂はかねがね伺っていましたが、実際にお目にかかるとその美しさは想像以上ですね」
アラン皇子の声は低く滑らかだった。
その口調には品があるが、どこか油断のならない鋭さが隠されている。
「ありがとうございます、皇子殿下」
クリスティアンは柔らかく微笑みながら礼をした。
その金色の瞳は涼しげで、相手を観察する視線を巧妙に隠している。
アランは満足げに頷き、軽く手を差し出した。
「どうぞ、お座りください」
クリスティアンはわずかに逡巡しつつも、その場の礼儀を守るため、レースに手袋に覆われた女性にしては少し大きな手を伸ばし軽く指先を添えた。
その瞬間、アランが彼の手を包み込むように握る。
「……!」
クリスティアンが身を引こうとした瞬間、横から鋭い声が響いた。
「クリスティアナ様に不用意に触れるのはおやめください」
ニコレッタ・フローリンがすばやく間に立ち、クリスティアンの手をそっと後ろに庇った。
その動きは侍女としてのものではなく、訓練された戦士のような鋭さを持っていた。
アランの目が驚きの色を浮かべ、次に興味深そうな光を帯びる。
「君は?」
「侍女のニコレッタ・フローリンと申します。クリスティアナ様はまだ嫁入り前の身。男性に触れられたことなど一度もないお立場の方でございます」
彼女は頭を下げながらも、毅然とした態度を崩さない。
「それはまた、ずいぶんと大切にされた箱入り王女様だな。それに、これまたずいぶんと勝気な侍女だ」
アランの口元には笑みが浮かんでいるが、その目は冷静に彼女を値踏みしていた。
「君もまた、なかなかの魅力を持っているようだ。夕暮れの色の髪に、薄そうな肌。一番は……」
その視線がニコレッタの腰に止まり、すっと手が細い腰に絡んだ。
その動きは自然で、だれも止めることはできなかった。
「ふむ、やはり、腰がよくくびれている。筋肉の付き方も良い。よくトレーニングされているね。……ああ、でも全体的には女性らしい体つきだよね」
しげしげと観察している皇子に視線がニコレッタの胸元に届いたとき、急にざわりと背中が泡立ったニコレッタは思わず後ずさり、その拍子に壁に手を打ち付けた。
それでもまだ、アラン皇子の手はニコレッタの腰に巻き付いたままだ。
「おや。ごめんね。驚かせたかな。なかなか初心な方のようだね」
「……失礼いたしました」
「皇子殿下」
クリスティアンの声が穏やかに響いた。
その声は柔らかく、しかしどこか背筋を凍らせるような冷たさを帯びていた。
すいと伸びてきた手が、アランの腕をたしなめるように、優雅に押し戻した。
ニコレッタの腰に回っていた蛇のような手は、するりと解かれる。
手袋をしているとはいえ、最近骨ばってきた手はよく見ると男のものだと気づいてしまいそうで、ニコレッタはひやりとした。
「私の侍女に、そのように手を伸ばすのは控えていただけませんか?」
クリスティアンは微笑みながら言った。
その表情は優雅だが、金色の瞳に鋭い光が宿り、アランをまっすぐに見据えている。
アランは一瞬目を細め、その視線の奥に潜む何かに気づいたようだった。
違和感を覚える。
クリスティアンの目には、普通の女性が持つ柔らかさではなく、鋭い意志と覚悟が宿っている。
アランは気づかないふりをしつつ、頭の中で考えを巡らせる。
だが、クリスティアンは微笑みを崩さず、さらりと言葉を続ける。
「殿下は外交の場ではどんな相手も翻弄するお方と伺っていますが、この場で私の侍女にその技術を使うのは少々場違いではないでしょうか?」
扇で口元を隠しながら、ニコレッタを背中にかばうと、クリスティアンはにこりと美しい笑みを浮かべた。
後ろにいるニコレッタからはクリスティアンの顔は見えないが華奢な背中から立ち上る不穏な雰囲気からして、めずらしく怒っているように思える。
後ろは侍女の正しい立ち位置だが、この場合は自分が前のほうがよいのにと思いながら、ニコレッタはいつでも対応できるように足の位置を動かした。
戦闘準備万全。
「おや、これは失礼」
ニコレッタのわずかな態勢の変更に気付いたわけではないだろうが、アランは笑いを浮かべながら一歩下がり、降参というように両手を挙げた。
「美しいものと面白いものには目がなくてね。敬意を示したまでですよ」
「敬意を示すといのなら、触れるよりも、遠くから愛でる方がよろしいかと思います。花は触れると萎れてしまいますから」
クリスティアンは変わらず微笑を保ちながら、淡々と答えた。
その声音からは一切の怒りを感じさせないというのに、どこか空恐ろしいような気配だけが部屋を支配していく。
アランは目を細め、クリスティアンをじっと見つめた。
その目には興味と警戒心が混ざり合っている。
彼は一瞬、クリスティアンの言葉を吟味するように黙り込んだが、次に目を向けたのはニコレッタだった。
「君の侍女、なかなか気骨があるようだ」
アランは軽く手を振りながら言った。
「クリスティアナ王女。君がそれほど守る相手ならば、きっと特別な存在なのだろう。大変失礼な真似をして申し訳なかった」
「私の大切な侍女ですので。もともとは遊び相手として宮に上がりましたが、小さなころからずっとお世話をしてくれておりますの」
「なるほど。手中の珠だ」
その言葉は、王女の侍女に使うにはあまり適切とはいいがたい。
だが、おかしいと指摘するほどでもない。
クリスティアンは驚いたようにわずかに目を見開いたが、すぐに平静を装って少しだけ頭を下げた。
アランは満足げに微笑みながら一礼し、「それではまた、近いうちにお会いしましょう」と告げ、貴賓室を後にした。
扉が重く閉じる音が響いた。
月明かりが水晶宮の古びた窓から差し込み、クリスティアンの部屋を柔らかく照らしていた。
クリスは静かに椅子に腰掛け、アラン皇子との対面を振り返っていた。
その金色の瞳には、怒りと不安、そしてどこか決意のような光が宿っている。
その静寂を破るように、ニコレッタが勢いよく扉を開けて入ってきた。
薄紅色の髪が揺れ、彼女の頬は怒りで赤く染まっている。
「本当に、あの皇子、どうかしてるわ!」
彼女は勢いよく言い放つと、床を踏み鳴らすように部屋の中を歩き回り始めた。
「クリスの手を握ろうとするなんて……!」
その声には怒りが込められていたが、どこか心配も混じっている。
「ニコ、少し落ち着いて」
クリスティアンが穏やかな声で言う。
だが、彼の瞳にはわずかな疲労が見え隠れしていた。
「落ち着いていられるわけないでしょ!」
ニコレッタは振り返り、彼を睨みつける。
「でもあの人、あなたの手を握ったのよ!淑女の手をあんなふうに触ると思ってなかったから油断したわ」
「君が止めてくれたから大丈夫だったよ」
クリスティアンは微笑みながら答えた。
「だからって!さすがに手までは誤魔化しきれなくなってきているのよ?次にもし触られたら……」
ニコレッタは拳を握りしめた。
「クリス、私はあなたを守るって決めてるのよ。あなたったら、自分がどれだけ無防備で、どれだけ可愛いか分かってる?」
「僕は大丈夫だよ。それより……」
クリスティアンは視線を少し逸らし、言葉を続けた。
「次からは一緒に来なくていいよ」
「……え?」
ニコレッタは動きを止め、その目を大きく見開いた。
「君のほうが危なかった。あの皇子、君にも興味を持っていたじゃないか」
クリスティアンは真剣な顔で言った。
「僕は男だけれど、君は女の子だ。君にあの男を近づけることはできないよ。あの男は君を狙うかもしれない」
「……何言ってるのよ。」
ニコレッタは少し呆れたようにため息をついた。
「警戒すべきなのは、どう考えてもあなたでしょ? こんなに可愛いんだから、どんな男だってほっとかないわよ」
「僕よりも君のほうが可愛いよ」
クリスティアンがさらりと言ったその言葉に、ニコレッタは一瞬固まった。
「……何それ」
彼女は戸惑いを隠すように顔を背けたが、その頬はほんのり赤く染まっている。
クリスティアンがふと彼女の腕に目をやると、袖の隙間から小さなかすり傷が見えた。
その瞬間、彼の瞳が鋭く光る。
「それ、どうしたの?」
彼は立ち上がり、彼女の腕を掴んだ。
「ああ、これ?大したことないわよ。さっき、皇子が……」
ニコレッタが軽く笑いながら答えると、クリスティアンの顔が曇った。
「僕のニコに傷をつけるなんて……」
低い声で呟くその様子に、ニコレッタは驚きとともに少し笑みを浮かべた。
「……誤解を招きそうな言い方ね」
彼女は少し照れたように言った。
「ちゃんと皇子殿下を警戒しておいてね?一人で会ったりしたらだめだからね」
「いつまでそんなこと言ってるの」
クリスティアンは少し呆れたようにため息をつくと、ドレスを床に脱ぎ捨てた。
下から現れたのは、男物のズボンだった。
「ちょ、ちょっと!」
ニコレッタは思わず声を上げ、目を背けた。
「僕はかわいい女の子なんでしょ?じゃあ着替えくらい平気だよね」
クリスティアンは冷静に言いながら彼女に一歩近づく。
その表情はどこか挑戦的で、男らしささえ感じさせるものだった。
ニコレッタは本能的に一歩、一歩と後退してしまう。
クリスティアンはニコレッタを壁際に追い詰め、その手で壁を叩くようにして彼女を囲んだ。
「君はずっと僕を守ろうとしてくれた。でも、僕だって君を守りたいんだ」
その声は低く、真剣だった。彼の金色の瞳が、まっすぐに彼女を射抜く。
「……クリス……」
ニコレッタは目を見開いたまま、何も言えなかった。その姿は、泣き虫だった頃のクリスティアンとはまるで別人だった。
「僕が君を守るんだよ」
クリスティアンの金色の瞳が、逃げ場を失ったニコレッタをまっすぐに見つめていた。
彼の顔はこれまでのどの瞬間よりも近く、彼女は思わず息を飲んだ。壁に押し付けられた形のまま、ニコレッタはどうすることもできずに彼の言葉を待っていた。
「君はずっと僕を守ろうとしてくれた。でも、それだけじゃもうダメなんだ」
クリスティアンの低い声が静かな部屋に響く。
その声には、彼女が知る泣き虫の少年の面影はもうない。
「ダメって……どういう意味よ」
ニコレッタはなんとか声を絞り出すが、彼女の心臓は早鐘を打っていた。
「君の隣に立ちたいんだ。……だめ?」
こてんと首を傾げたクリスティアンはいつも通りにかわいらしい美少女にしか見えないが、そこか獰猛な獣の気配がする。
さらに一歩近づき、彼女との距離を縮めた。
片方の手がそっとニコレッタの頬に触れそうになる。
「……クリス……」
ニコレッタはその手に動揺しながらも目を逸らせずにいた。いつもは頼りなさそうに見えるクリスティアンが、こんなにも強い目で自分を見つめる姿に戸惑っていた。
「でも、僕はもう泣き虫じゃない。君に頼るだけの存在でもない」
「あの、近いんだけど……」
「これくらいはいつもどおりじゃないか」
ニコレッタが言葉を紡ごうとしたその瞬間、クリスティアンの指先が彼女の頬にそっと触れた。
その瞬間、彼女の胸が高鳴るのを感じた。
「僕が守りたいんだ、君を」
クリスティアンはその言葉をまっすぐに告げると、指先で彼女の髪をそっとすくうように触れた。
薄紅色の髪が彼の手の中で柔らかく揺れる。
「そんなの……私、結構強いわよ……」
ニコレッタは必死に言葉を紡ごうとしたが、彼の瞳の中にある強い決意に圧倒されていた。
クリスティアンは少し微笑みを浮かべ、彼女の目をじっと見つめた。
「君が強いのは知ってる。頼りになるのも。でも、僕だって成長したんだ。君の隣に立つために、ずっと努力してきた」
「クリス……」
彼女は彼の真剣な言葉に圧倒され、何も言えなくなった。
ただ、彼の目に映る自分を見つめるだけだった。
夜が更け、静まり返った水晶宮の一室で、クリスティアンは机に向かいながら苛立ちを隠しきれない様子だった。
彼の金色の瞳は鋭く、普段の優雅な仮面を脱ぎ捨てたその顔には、彼の本質的な性格がにじみ出ている。
「マジで許せない」
彼は低く呟きながら机に拳を置いた。その拳は微かに震えている。
「あのスケコマシ皇子、俺のニコレッタに触りやがって。しかも腰!俺だって腰は触ったことないのに!ほんと、クソみたいな奴だ」
背後から、優しくも鋭い声が響く。
「クリス、言葉が荒れてるわよ」
振り返ると、乳母のステラが立っていた。
彼女はクリスティアンの母親の親友であり、彼の人生を支え続けてきたもう一人の母親のような存在だ。
その瞳には、クリスの怒りを見透かすような優しい光が宿っている。
「でも許せないだろ?」
クリスティアンは椅子を回転させ、ステラに向き直る。
「あいつ、面白そうににたにたして、こちらの様子を伺いやがって。あいつ、絶対ニコレッタに手を出すつもりだ。あー!ニコがあんな奴に触られるなんて、考えるだけで腹が立つ」
「ええ、そうね」
ステラは静かに頷き、部屋に入ると椅子に腰掛けた。
「でも、そんなに怒っているあなたを見たら、ニコレッタはびっくりするんじゃない?」
クリスティアンは一瞬黙り込み、唇を噛んだ。
「……そうだろうな。でも、どうしたらいいか分からないんだよ。ニコは俺がどれだけ本気で考えてるか、分かってないんだから」
「あなたがいつまでもニコレッタの前で猫を被っているからでしょう?」
「……一応男と意識してもらえるように頑張ってるよ……最近は」
ステラはしょうがない子ねと微笑を浮かべながら、机の上に置かれた帳簿に目をやる。
それは、クリスティアンが数年前から彼女の協力を得て始めた商売の記録だった。
宮廷の噂や情報を利用し、匿名で取引を行うことで、彼は密かに財産を築き上げていた。
「これだけあれば、もう十分ね」
ステラが帳簿を手に取りながら言う。
「いつでも王宮を出ていける。ニコレッタを連れて行く準備も整っているわね」
「そうだな。ステラのおかげで事業は順調だ。本当に感謝しているよ」
クリスティアンは深く息を吐き、窓の外を見つめた。
「そろそろ離宮での生活も潮時かもしれない。俺だって身体的にもうそろそろ女性の格好に限界があるし。こんな腐った場所、ニコに似合わないし」
「あなたがそう決めるなら、私は反対しないわ」
ステラはその言葉に力強く頷いた。
「でも一つ、忘れてはいけないことがあるわよ」
「……何?」
クリスティアンが視線を向けると、ステラは少し意地悪そうな笑みを浮かべた。
「あなたが男性として、ニコレッタをちゃんと口説かない限り、一緒に出て行くのは許しませんからね」
その一言に、クリスティアンは目を丸くした。
「……ステラ、冗談だろ?」
「本気よ」
ステラはにっこりと笑いながら続けた。
「あなたの気持ちは分かるけれど、あの子は鈍いの。自分がどう思われているかなんてまるで気づいていないのよ」
「それは分かってるけど……」
クリスティアンは苦い顔で視線を落とした。
「だから、ちゃんと伝えるのよ」
ステラは彼に向かって指を立てた。
「男らしく口説いてちゃんと恋人同士にならないと、私の大切な娘はあげないわ」
クリスティアンは眉間に皺を寄せながら、小さく呟いた。
「……難しいな。どうすればいいんだよ」
ステラは立ち上がり、彼の肩に手を置いた。
「頑張りなさい、クリス。うちの娘を幸せにする覚悟があるなら、ね」
クリスティアンはしばらく黙ったまま、ステラの言葉を反芻していた。
そして、やがて顔を上げ、その金色の瞳に強い決意を宿した。
「……分かった。がんばる」
その言葉に、ステラは満足そうに微笑んだ。
「それでこそ、私の自慢の王子殿下よ」
静寂が戻る部屋で、クリスティアンは再び窓の外を見つめた。
あのクリスティアンを幼馴染としてしか思っていない、どちらかといえば守るべき相手として認識しているニコレッタを口説き落とすのと出奔の準備が整うのとどちらが早く終わるのか、それはクリスティアンにも分からなかった。