夫が私を裏切ったので、私好みに改造することにした。
サレ妻の復讐もの短編です。後味悪い部分もあると思いますので、苦手な方はご注意ください。
「この裏切者っ!!」
夫の一誠を、力いっぱい階段から突き落とした。
絶望の眼差しで私を見つめながら、ゆっくり落ちていく夫。階段から落ちれば、おそらく無事ではすまない。下手すれば死ぬだろう。
ああ、私の人生、これで終わったって思った。
きっと警察に連行されるんだ。ミステリーのドラマみたいに手錠をかけられて。
『夫に浮気され、激怒した妻が夫を殺害』なんて見出しで新聞や週刊誌に載るのだろうか。詳しい事情を何も知らないコメンテーターとやらが、物知り顔でテレビのワイドショーで語るのかもしれない。
「冷静に話しあうこともできたと思うんですけどね。縁あって夫婦になった二人なのですから」
裏切られたことがない恵まれた人間が、わかったようなことを言わないでほしい。
夫が死んだら、私は犯罪者だ。罪を償っても、まっとうな人生は送れないかもしれない。どう考えても明るい未来はない。地獄への入り口に立った気分だ。
けれど私を裏切った夫を地獄への道連れにできるなら、それも悪くないって思った……。
***
「君の名前、実桜ちゃんっていうの? 俺は一誠。二人の名前から一文字ずつ取って合わせたら、『誠実』だね。俺たち、縁があるって思わない?」
居酒屋で出会った男、一誠は人の心を掴むのが上手かった。
私と彼の名前を一字ずつとると、「誠実」という言葉になると聞いた瞬間、普段無口な私も思わず笑ってしまった。
口がやたらと上手い、一誠らしい誘い方だったと思う。私には一誠の言葉がまぎれもない真実のように思えて、たちまち彼に惹かれてしまった。一誠も私もすでに両親はおらず、ひとりで頑張って生きてきた点も同じだった。
一誠との交際が始まると、彼が私のマンションに転がり込む形で同棲となり、二年目にプロポーズされた。
「私を裏切らないって約束してくれる? 私は親に見捨てられたから、もう裏切られるのは嫌なの。約束してくれるなら、私も一誠と一緒に生きていきたい」
新しい妻と再婚した父の家庭に私の居場所はなく、見切れ金のようなお金を少し受け取って、早々に親から自立した。父は私を引きとめることなく、むしろホッとしたような顔をしていたのをよく覚えている。父に見捨てられてから、私はずっとひとりで生きてきた。
「俺は実桜のことを裏切らないと約束するよ。だから結婚しよう」
「ありがとう。不束者ですが、よろしくお願いします」
籍だけ入れて、結婚式はしなかった。両親の援助もない私たちには華やかな結婚式は不要のものだと思ったし、それほど興味もなかった。
代わりに花嫁衣裳を着た記念の写真だけ撮影して、少しだけ贅沢に新婚旅行を楽しんだ。
夫となった一誠との生活はとても楽しかった。彼は私への愛の言葉をいつも囁いてくれたし、私も夫のことを深く愛していた。一誠と私は、お互い出会うために生まれてきたのだと思うほど、深い絆で結ばれていた。一誠がいれば他は何もいらない、どんなことでも頑張っていける。夫と私はまさに運命の相手。ずっとそう思っていたし、一誠も同じようにおもってくれていると信じていた。
ところが一誠を運命の相手と思っていたのは、私だけだったようだ。
結婚して二年目になると、一誠の帰宅が遅くなるようになった。
「仕事だよ」という言葉を、最初は信じていた。けれどそれは嘘だとすぐに気づくことになる。女物の香水の香りがスーツにしっかりついていたからだ。
「同じ職場にさ、香水の匂いをぷんぷんさせてる女性の上司がいるの。上司だから嫌とは言えないし、部下としてサポートが必要だろう?」
香水の匂いが不着している理由をさらりと語る夫。よどみなく説明できてしまうところが、かえって怪しかった。
「そう……大変だね」
「気の強い上司でさ~。ホント参っちゃうよ」
いくら上司と部下という関係でも、ワイシャツにまで香水や口紅がついていたりはしないだろう。抱き合っていたとかでもなければ、襟元に口紅がつくなんてありえない。
自分の仕事を休み、夫の一誠を尾行することにした。
仕事が終わると、一誠は洒落たワインバーで女と待ち合わせしていた。肩を寄せ合うようにしてワインを楽しみ、その後は夜のホテルの中へと消えていった。
私を裏切らないという約束をいとも簡単に破り、夫の一誠は私に隠れて浮気していたのだ。
「一誠……どうしてなの? 私のことが嫌いになったの? プロポーズの約束を忘れるなんて……許さないんだから」
女と消えたホテルに乗り込みたいのを必死に我慢して、自宅の賃貸マンションで夫が帰ってくるのを待つことにした。
「ねぇ、一誠。あなた、浮気してるでしょ?」
残業で遅くなったと言いながら、笑顔で帰宅した夫に詰め寄った。
最初はどうにかごまかそうとしていたけれど、私が尾行したことを知るなり、夫は態度を一変させた。
「ああ、そうだよ。だから何だ?」
「私のことを決して裏切らないって約束したじゃない!」
「そんなこと言ったっけ? 覚えてない」
「私にはあなたしかいないのに。なぜ裏切るの?」
「おまえの愛情が重いんだよ。運命の相手だとか言っちゃってさ。俺のこと尾行するとか、普通しないだろ」
「そんなの裏切っていい理由にならないっ!」
「ああそうですか。なら別れる? 俺は別にいいよ」
一誠はあっさりと離婚を口にした。謝罪して反省してくれるなら、一度だけは許そうと思ったのに。
「プロポーズしてくれた時に言ったわよね? 私を裏切らないって」
「だから覚えてないって。俺、女を口説く時の言葉なんて、いちいち記憶してないんだよ。キリがないからさ」
一誠に誘われたときも、プロポーズの言葉も、私には大切な思い出だったのに。夫は何一つ覚えていなかったのだ。
「慰謝料はちゃんと払うから別れようぜ。じゃあな」
私にとって一誠は、生涯ただひとりの夫であり、運命の相手だと思っていた。彼とならずっと欲しかった温かい家庭を作れると思った。どんなことがあっても、共に生きていけるって。
「待ってよ、一誠。尾行したことは謝るから。お願い、捨てないで」
エレベーターが苦手な夫は、マンションの非常階段を使って外へと行くことが多い。私は非常階段を降りようとしていた夫の背中にしがみついた。
「おまえが悪いんだぜ。俺のこと疑って尾行なんてしたから」
「だってシャツに口紅がついていて、だから……!」
「怪しくても何でも、俺のことを一途に信じて待っていればよかったんだよ。そしたら捨てる必要はなかったのに」
「そんな……!」
私の手を振り払い、一誠は階段を降りていく。
一誠、私はあなたのことを愛している。夫だけは私を見捨てないと思った。それなのに一誠は私を裏切って捨てていく……。
決して裏切らないって約束したのに、約束したことさえ忘れてしまった夫。
許さない……。絶対に許すものか。
「この裏切者っ!!」
気づけば私は、夫を階段の上から突き落としていた。
青ざめた夫が階下へと堕ちていくのを眺めながら、夫と共に地獄へと旅立つことができるなら、そんな人生も悪くないって思った。
***
「記憶をすべて失っておられます。頭を打ったことが原因でしょうね」
救急車で病院に運ばれた一誠が、一週間ぶりに意識を取り戻したとき、夫は私のことをすべて忘れてしまっていた。失ったのは私の記憶だけではなく、これまで生きてきた過去の記憶を全部忘れてしまったらしい。
最初は私から逃れるための演技かと思ったが、すぐに猿芝居ではないと気づいた。常に堂々としていた一誠は人が変わったように、不安そうな眼差しで私を見ているからだ。
記憶喪失というやつだろうか? 正式な病名ではないようだけれど、そんなことはどうでもいい。
「あの、あなたは僕の妻だと先生から聞きました。本当ですか?」
上目遣いで私を見つめる一誠は、私が知っている夫の姿ではない。けれど今の彼は私だけを見ている。今の夫の視界に、他の女の姿はない。記憶を失って、真っ白でクリアになった夫なら、私だけの男にできる。どんな状態であっても、目の前の男は私の運命の相手なんだもの。
「ええ、そう。あなたと私は夫婦よ。とても仲良しで、おしどり夫婦って評判だったの」
「そうなのですか? 僕はまったく覚えてなくて……。申し訳ない」
「事故で頭を打って記憶を失ってしまったんですもの。仕方ないわ」
「事故? 僕は事故にあったのですか?」
「ええ。マンションの屋上で夫婦仲良く夜景を眺めていてね。せっかく良い夜だったのに、あなたはうっかり足を滑らせて階段から転げ落ちていったの」
「ぼ、僕はそんなにそそっかしいのですか?」
「無事で良かったわ……。あなたが意識を取り戻さなかったら、私もあなたを追いかけて死ぬつもりだったのよ」
「そこまで……。そんなにも僕を愛してくれているのですか?」
「だってあなたと私は、生涯を共にする運命の相手ですもの」
あらかじめ用意していた台本でもあったかのように、私はさらさらとよどみなく嘘を吐いていく。
けれど「生涯を共にする運命の相手」という言葉だけは嘘ではない。一誠と私は、本物の夫婦。この世でただひとりのパートナー、運命の相手なのだから。
記憶を失った夫の一誠は、私の言葉をすべて信じ、受け入れていった。以前の夫なら、私の言葉をこうも素直に聞き入れてくれなかったはずだ。
今の一誠ならば、私が願うとおりの夫になってくれるかもしれない。
いや、してみせる。
地獄に堕ちることを覚悟した私だもの。愛する夫と幸せになるためなら、どんな罪でも背負ってやる。
「あなたは私がいないと生きていけないって口癖のように言っていたわ。それは私も同じ。だから何があっても、夫婦で支え合って生きていきましょう」
「僕は記憶をすべて失ってしまったのに、本当にいいのですか?」
「あなたと私で、また始めればいいのよ。真っ白な状態で、思い出をひとつひとつ作っていきましょう」
「実桜さん……ありがとうございます……」
むせび泣く夫に寄り添いながら背中をさすり、優しく語りかける。
「実桜さんなんて他人みたいに呼ばないで。私とあなたは夫婦だといったでしょ。実桜、と呼んでちょうだい」
「実桜……ありがとう……」
夫が病院を退院する前に、私と夫が勤めていた会社にそれぞれ退職願いを送った。理由は事故の療養のため。一誠と共に遠い地へと引っ越し、人生をやり直すためだ。私と一誠のことを誰も知らない場所であれば、暮らす場所はどこでもいい。
「一誠、あなたと私、夫婦で力を合わせて生きていきましょうね。あなたはすぐには働けないから、私が頑張って稼ぐわ」
「すまない、実桜。将来のことを考えると頭痛が酷くて」
「気にしないで。夫の支えるのが妻の役目ですもの」
「ありがとう、実桜。君がいてくれて良かった」
「私もよ。あなたがいてくれるから私は生きていける。これからも夫婦仲良く暮らしていきましょうね。私はあなたがいれば幸せなの」
「うん……僕もだよ、実桜」
妻である私がいないと生きていけない男に洗脳してあげよう。少しばかり働けなくても、私が頑張って働けばいいのだから何も問題はない。
一誠。これであなたは私だけのもの。
生涯を共にする夫婦になるの。
両親がいない私と一誠は互いに支え合いながら生きてきた。やがて結婚し、幸せな生活を送っていた。一誠には親類縁者も友人もいなかったので、私だけがあなたの理解者だったのよ……という偽りの記憶を一誠に与えた。
記憶を全て失い、真っ白な状態になっていた一誠は私の話をすべて信じ、私の言葉通りに生きていくようになった。
階段から落ちて頭を打ってから、夫はなかなか体調が安定しなかった。家の中でゆっくりしてもらいながら、簡単な家事からリハビリ的にやってもらうことになった。
家の外に出ると、ふとしたことで記憶を取り戻してしまうかもしれない。だったら家の中に閉じ込めておいたほうがいいものね。
簡単な掃除や軽い朝食などを担当してくれれば十分だと思ったが、元々頭の回転が良い人だからか、料理書片手に美味しい食事を作ってくれるようになった。朝は私より早く起きて朝食を作り、私が仕事を終えて帰宅すると、温かい晩御飯を作って待っていてくれる。
「お帰り、実桜。お仕事お疲れ様です」
「わぁ、今日もごちそうね」
「実桜のために栄養たっぷりのご飯を作ってみたよ。明日からはお弁当も挑戦してみる」
「本当? でも無理しないで」
「無理しないで、は僕の台詞だよ、実桜。ごねんね、僕が働けないから……」
「気にしないで。夫を支えるのが妻の役目って言ったでしょ」
「実桜、ありがとう。愛してる……」
私に従順に尽くすようになった一誠。以前の夫とはまるで違うけれど、今の彼は私がいないと生きていけない。そんな男に私がつくり変えたのだけれど、彼は案外こんな人生が合っているのではないだろうか。だって今の私と彼は、とても幸せで満たされているのだから。
私だけ働いているので経済的には楽ではなかったが、愛し愛される生活がこれほど心を潤してくれるとは思わなかった。ああ、なんて幸せなのだろう。夫と共に地獄に堕ちるつもりが、天国に来た気分だ。
一誠は愛する妻のためにと、お手製の豪華なお弁当を毎日もたせてくれた。朝食にもビタミン豊富なスムージーを用意してくれて、私の体調を気遣ってくれる。帰宅すると、疲れている私の体を優しく揉んでくれるのだ。
「実桜、肩がすごく凝ってるね。しっかり揉みほぐしてあげる」
「仕事で主任になったから、体に疲れが溜まってるのだと思うわ」
「実桜はすごいな。さすがは僕の奥様だ」
「あなたが支えてくれるからよ」
夫婦で支え合いながら共に生きる。これこそ私が求めていた生活だ。
私が働き、一誠は主夫となる。家の中に閉じ込めている夫に、他の女に出会う機会は少ないはずだ。夫婦の役割が以前とは逆だけれど、理想的な夫婦といえるのではないだろうか。
ああ、なんて幸せな生活なのだろう。幸せすぎて怖いぐらいだ。
二年ほど経つと幸せな生活はあたりまえのこととなり、満たされた日常も、ごく普通のことになった。幸せは生活は、時間が経つと慣れていく。幸福は特別なことと思わなくなってしまうのだ。
次第に私は、夫に強い口調で命令するようになっていた。
「ねぇ、今日のスーツはグレーにして言ったでしょ。なんでワイン色のスーツが出してあるわけ?」
「だって実桜はワイン色がよく似合うから……」
「似合っていても、初めての会社の方々と打ち合わせの時にはふさわしくないの。そんなこともわからない?」
「ごめん……」
「一誠は働いてないから仕方ないけどね。今度から気をつけて」
「うん……」
毎日遅くまで働く私のために、夫の一誠は私の身の回り、毎日の衣類の管理や持ち物の用意まで担当するようになっていた。最初は疲れて寝ている私を少しでも長く寝させるためだったが、今は一誠が担当する家事のひとつとなっている。
「朝食はまたスムージー? 冬は冷えるから温かいスープにしてよ。気が利かないわね」
「ごめんね、実桜の肌荒れが酷いみたいだから、ケアしてあげたくて」
「だったら顔のフェイシャルマッサージもやってよ。一誠は器用だから、動画とかで勉強してよ。できるわよね?」
「え? でもそれだと毎日のマッサージ時間が増えちゃうよ」
「何よ、不満なの? 働けないくせに。マッサージぐらいやってよ」
「……ごめん」
「じゃあ今日から頼むわね」
夫の一誠は私に従順で、何でも言うことを聞いてくれる。
少しばかりきつめの口調で命令してしまうのは、彼への復讐心がくすぶっているからかもしれない。だって以前の彼は私の愛を裏切り、浮気していたのだから。今の夫は浮気のことも過去のことも、すべて忘れてしまったのだから、あまり虐めるのは可哀そうよね。
「ねぇ、実桜。今日は早めに帰ってこれる?」
「わかんない。新しいプロジェクトが始まってるし」
「そっか……。お仕事大変だね」
「遅かったら先に寝ていてもいいわよ、一誠」
「ううん。待ってるよ、実桜の帰りを」
一誠は私が帰ってくるのを、じっと待っていてくれている。私のためにと、かいがいしく世話を焼いてくれるのも私を愛している証拠だ。
心も体も満たされている……はずなのに。
今の私は、なぜか苛立っていた。
「家に帰ると、満面の笑顔で私を出迎えてくれるんだろうなぁ……」
飼い主の帰りを待ちわびている愛犬のように、ぶんぶんと尻尾を振っている夫が見えるようだ。
「なんか、重っ……」
夫に誠心誠意尽くされて、時に少しだけ意地悪をして。心も体も満たされているはずなのに、最近の私は今の生活に疲れを感じ始めていた。今も働けない夫を支えるために、必死で働かなくてはいけないのだから。
記憶を失う前の一誠は仕事も優秀で、順調に出世していた。あのまま働いていたら、妻の私が働かなくても豊かに暮らせていたと思う。
「今の一誠は私がいないと生きていけないんだもの。仕方ないよね」
記憶を失った一誠を私にとって都合の良い夫に改造して、彼を私だけのものにする。その願いが叶ったのだから、贅沢を言ってはいけない。
それは理解している。わかっているのに、心と体が重くて、息切れしてしまう。
その日は仕事が早めに終わったが、まっすぐ帰る気にはなれなかった。途中で見かけた居酒屋のカウンターでひとりでお酒を飲んでいた。
そういえば、一誠との初めての出会いも居酒屋だったっけ。
「ねぇ、君。ひとり? 良かったら一緒に飲まない?」
向かいの席に座っていた男が、私に声をかけてきた。私が返事をする前に、男は私の横に腰を下ろす。少し強引だけれど、人懐っこい笑顔が記憶を失う前の夫に似ている気がした。
「いいわよ。二人で飲みましょう」
私は夫以外の男との時間を、秘かに楽しむようになっていった。
「ねぇ、実桜。これってどういうことかな?」
ある夜、一誠は私に妙な動画を見せてきた。そこに映っていたのは私で、最近よく会う男との逢瀬の時間を撮ったものだった。
「隠し撮りでもしたの? それとも興信所使った?」
「そんなことどうでもいいよ。これは真実なの? それともデタラメ?」
動画に映っているのはどう見ても私だ。ごまかしようがない。
「真実よ。私はこの男と浮気してる」
さらりと告げると、一誠は信じられないといった様子で顔を左右に振る。
「この男に脅されて関係をもってるの? そうだよね?」
「誘われたけど、脅されているわけじゃないわ」
「この男が好きなの? 僕の愛を裏切るの?」
「裏切り……そうかもしれないわね」
かつて私も、浮気した一誠に同じことを言ったっけ。
「僕は実桜を、とても深く愛していて、心から尽くしている。だって僕は君がいないと生きていけないから。なのになぜ実桜は僕を裏切るの? なぜ? なぜだよぉ!!」
私の肩を掴んだ一誠は、強い力で前後に揺さぶる。私の肩に食い込んだ彼の爪が痛い。きっと血が滲んでる。どれだけ痛くても、彼の手を振り払う資格は私にはない。
「私はあなたを裏切ったわ……」
「そんなの許さない!!」
夫は私の体を、思いっきり突き飛ばした。汚いものを投げ捨てるかのように。
ゴンッ!!
鈍い音と共に、頭の後ろに鋭い痛みが走る。
テーブルの角に頭をぶつけたようだ。大理石で作られたものだから、とても硬い。頭から血がどくどくと流れているのがわかる。あっという間に痛みは頭全体に広がり、手足を動かすこともできなくなっていく。
「実桜! しっかりして!」
夫は私を抱きあげると、泣きながら私の顔をのぞきこむ。
「僕の愛を裏切った実桜が、少し許せなかっただけなのに……」
よくわかるわ……。
私もかつて、夫の浮気が許せなくて、あなたを突き飛ばしたんだもの。
そして私も、一誠と同じ過ちを犯してしまった。許されないとわかっていたのに、自分の衝動を抑えられなかった。
きっと因果応報というものね。
記憶を失った一誠を私好みの夫に改造して、従順な男に仕立てたのだから。
「ごめんなさい、あなた……」
私を許してだなんて、とても言えない。
私を殺した夫が警察に捕まっても、私だけはあなたのことを地獄で待っているわ。共に地獄の果てまで歩いていきましょう。
泣きじゃくる夫の頬に手を置きながら、私の意識はゆっくりと消えていった。
***
「私の名前は、『実桜』というのですか?」
病院のベッドで横になっている私。優しい微笑みを浮かべた男が、私の名前を教えてくれた。
「そう、君の名前は実桜。僕は一誠と言うんだ。僕と君は夫婦でね。おしどり夫婦と評判になるぐらい仲良しだったんだよ」
「そうなのですか? 私、何も覚えてなくて……」
自らを一誠と呼ぶ男のことを思い出したくて、必死に考えてみたが無理だった。頭がズキズキと痛む。何も思い出すことができない。
「いたい……わからない……」
「いいんだよ、無理に思い出さなくて。僕が君を支えて守っていくから」
「でも私、一誠さんのことを覚えてないです。そんな私のために」
「僕のことは一誠と呼んでほしい。君の夫なんだから」
「でも一誠、私は」
一誠は私の体を優しく抱きしめる。
「もう何も言わないで。君は家の中でゆっくり休んでいてほしい。僕が働いて君を守るから」
私の夫だと言う男は、私の目を見つめて微笑んだ。
「どんな困難があろうと共に生きていこう。僕と君はこの世でただひとりの運命の相手であり、生涯を共にする夫婦なのだから」
私を抱きしめる夫の温もりにそっと身を委ねた。彼のことを覚えてないけれど、私にはこの人しかいないのだから。
「地獄の果てまで共に行こうね。僕の、僕だけの愛しい妻よ……」
了