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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

すき間をのぞいてはいけない

作者: やまおか

  

 日暮れ時。広がる町の明りから流れてくる夕飯のにおい。この時間の空気はどこか寂しくて、家族の待つ家へと急ぎ足になる。

 玄関に着くが、本当はその扉を開けてはいけない。だけど、手はまっすぐにドアノブに伸びる。

 

『おとさん、おかえり~』

 

 彼がドアノブをひねった瞬間から、舌足らずな声と一緒にどたどたと駆け寄ってくる足音が聞こえた。足元で一生懸命に手をバンザイの格好で伸ばしてくる。

 いつもだったら抱き上げて頭を撫でてやる。そうすると、きゃっきゃと嬉しげな声が耳をくすぐってくる心地よさを知っている。

 

 だけど、ただ娘を見下ろすことしかできない。

 

『どうしたの? なんだか元気ないみたいだけど』

 

 心配そうな声。聞き覚えのある優しげな声。

 見てはいけない。だけど、私は声のするほうへと顔を上げた。そこにはエプロン姿の妻の姿があった。

 

 いつもどおりの彼女だった。記憶のままであればあるほど心がぎゅっと締め付けられる。

 

『なにかつらいことがあったの? 仕事の相談は難しいかもしれないけど、聞くことならできるよ』

 

 悩んでいるととき、妻はいつもこうして慰めてくれた。できるなら今すぐにでも身をゆだねたくなる。腕で抱き寄せてその体温を感じたかった。

 

 動こうとしない彼を前に妻と娘が不思議そうにする。

 

「ごめん……できないんだ、もう、できないんだ」

 

 うなだれていると視界が歪み、意識が別の場所に引き上げられていく。

 

 

 彼が目覚めると、そこはリビングのソファの上だった。当たり前だ。朝から大量に酒を飲んで、意識を失ったのだから。

 さっきまでの光景は全部、夢。それを頭では理解しているはずなのに、わかりたくないのかもしれない。

 

 テーブルの上に置かれた写真立てを見る。そこには笑っている妻と娘が映っている。もう届かない日常がそこにあった。

 

 すべてが変わってしまったのは三年前。

 娘と妻の事故を聞いたのは会社だった。急いで病院に向かうと、対面した二人は物言わない姿となって横たわっていた。

 荒れに荒れた自分は現実を受け入れられず、精神科でもらった薬を酒で流し込む廃人となった。

 

 会社はずっと休んだままだった。

 上司が心配してたずねて来たこともあったが、妻と娘の写真を見せながら『あの子たちのところに行きたい、もう生きていたくない』と叫んで追い返してしまった。

 

 それから、ずっと一人だった。

 

 三年前の今日、この日。

 毎年、この日は起きてる限りひっそりと亡くなった家族のことを思い出した。

 

 重い体を起こして、薬と酒でふらつく足でコンビニに向かった。酒を山ほどつめたレジ袋を揺らしながら、最低の気分のまま道を歩いた。

 

 夕暮れを過ぎ、等間隔にならぶ電柱に明りがともる。明りに照らされた道をはずれて暗がりに踏み入れる。その道は建物のすきまを縫うような細い路地で、車も通れないほどの狭さだった。

 

 ほとんど人通りのない道の先、ポツンと人影が立っていることに気がついた。

 そのシルエットからかろうじて女性だとわかるが、表情も見えず、後ろを向いてるのか前を向いてるのかすら判然としない。

 

 身じろぎひとつせず、ずっと立っている相手に薄気味悪さが増してきた。引き返して別の道を行こうかとも考えたが、背を向けた瞬間に追いかけてくる映像が頭に浮かぶ。

 でも、あの角を曲がればもうすぐ家につく。どうなったって構わないという考えもあった。

 

 口を引き結び呼吸を止める。心臓の音が相手に聞こえやしないかと怖がりながらも、相手の方をなるべく見ないように横を通り過ぎた。

 なにごともなく進んだところで、ここなら大丈夫だろうとゆっくり後ろを振り返った。

 

 誰もいなかった。

 

 足音は聞こえなかった。それどころ左右を塀に囲まれた場所からどうやって姿を消したのかわからない。

 不気味さと疑問を残したが、きっと気のせいだろうと思うことにした。すべてどうでもいいことだ。

 

 家に着いたけれど何もない。ここは隙間だらけだ。

 妻と一緒に住み始め、娘が生まれ、たくさんの思い出で家の隙間が埋まっていった。

 妻の立っていない台所。家族で囲んだテーブルには空き缶転がっているだけ。

 

 幸せで満ちていたあの空間はそこにはなかった。

 

 すぐに缶を開けてアルコールを喉に流し込む。テレビでは特に興味もない番組が音を垂れ流していた。皿からピーナッツを摘み上げようとしたとき、指先から転げ落ちてしまった。

 放っておいてもよかったけれど、体をかがめてテーブルの下を覗き込んだ。ピーナッツはテーブルの脚のそばに転がっていた。

 

 手を伸ばそうとしたとき―――何かと目が合った。

 

 画面が放つ明かりの下。テレビとテレビ台がつくるすき間。そこに、両目があった。

 固まる体と乱れる意識。通報という考えはすぐに消えた。なぜなら、そのすき間は人間が入れるようなスペースなんてないのだから。

 

 どれぐらいそうしていたかはわからない、その両目はすうっと消えた。時計を見れば一分にも満たない間のできごとだった。

 

 

 次の日、電話がかかってきた。義父からのものだった。

 妻の三周忌についてだった。昨日つつがなくおこなわれたそうだ。

 挨拶にいけなかったことを謝ると、そうではないといわれる。それは彼のことを心配する電話だった。

 

「娘のことをずっと覚えていてくれるのはうれしいことだ。だけど、過去ばかり見ていてはいけないよ」

 

「……過去、ですか」

 

 きっと義父は娘の不幸を受け入れたのだろう。それが正しいことだというのはわかる。そうやって前に進むべきなのだろう。

 そうやっていけば不幸な事故の記憶はだんだんと薄れていく。だけど、過去にしてしまえば二人の存在がどんどん希薄になっていってしまう気がした。

 

 最近では二人の声が思い出せなくなっている。交わした会話を思い出そうとするけれど、最後に交わした言葉すら思い出せない。

 もしも、自分が忘れてしまったら永遠にその存在までいなくなってしまうようで恐ろしかった。

 

 それから労わるように二言三言会話を交わされて、電話は切れた。

 

 きっと自分は死者に囚われているのだろうとぼんやり思った。これから何をすればいいかもわからない。ただ腹を満たすためだけにコンビニに向かい、袋を揺らしながら家に着く。

 見慣れたリビングだけれど、そこには妻も娘の姿はない。

 

「ただいま……」

 

 重たいため息をはきながら誰もいない部屋でつぶやく。当然、返事なんてないはずだった。

 どうして扉の隙間が気になった。どうせ昨日見えたものもアルコールが見せた幻だったはずだ。同じ幻だったら、せめて妻と娘の姿になって出てきて欲しい。そう思いながら扉をきっちり閉めたときだった。

 

 ヒュッと甲高い音がした。隙間から吹き込むような風の音。振り向こうとした体がこわばる。見てはいけない。反応してはいけない。これはそういう類のものだと直感でわかる。

 

『―――おとさん、おかえりなさい』

 

 それがしゃべった。ずっと聞きたいと思っていた声で。体が求めていたものへと動く。目の前には死んだはずの娘が立っていた。その隣には妻もいた。

 

「……どうして」

 

 返事をした途端、その声と姿は空いていた心のすき間にたやすく入り込んでいった。


 

 

 わたしには憧れている会社の先輩がいた。大学を卒業したばかりのわたしの指導役についたのがあの人だった。右も左もわからない新米に根気強くついてくれていた。ミスをしたとき笑ってフォローしてくれたが、わたしのせいで残業が増えていたのを知っていた。

 気がつけば意識するようになっていた。だけど、すぐにあのひとには既に大事な人がいることを知ってしまった。

 だから、この気持ちは奥底にしまって、後輩として期待に応えようとした。

 

 だけど、三年前の午後三時は忘れられない時間だった。

 

 あの人が電話にむかって聞いたこともない焦った声を出していた。

 後から家族の事故を聞いた。本当に悲しいとき、ひとというのは空っぽになるのだと葬式の席で見たあの人を見て知った。

 

 先輩の家族の死はニュースの見出しに小さく取り上げられ、すぐに世の中に流された。

 けれど、突然の別れを一方的に押し付けられ、残された者達が忘れることはできない。

 

 会社には来ていたけれど、誰も声をかけられなかった。

 事故があってから見るからに元気がなくなってやつれていった。このまま奥さんと娘さんに連れ去られてしまうんじゃないかとみんなが心配していた。

 そんな状態を見ていられなくてなんとかしようとしたいと思ったけれど、空っぽの笑顔を向けてくるだけだった。

 

 今、先輩は会社にいない。休職だと聞いている。退職願を提出してきた先輩に会社が提案したことだった。

 

 時間が彼を癒してくれるのを待つしかなかった。

 その姿を見なくなって一ヶ月近くがたった頃、様子を見に上司が家を訪れた。帰ってきた上司に様子をきいてみたが、ただただショックを受けた様子で首を横に振っていた。

 

 何もできないという歯がゆさに我慢できず、わたしは電話をかけてしまった。ただの仕事上のささいなことを聞くためという口実。こんなものは自分のはがゆさを抑えようとするだけのエゴでしかない。迷惑になるのはわかっていた。

 

 だけど、電話口から聞こえた声は明るいものだった。

 その急な変化には喜びよりも疑問符がうかぶものだった。

 

「実は会社をやめようと思っているんだ。世話になりっぱなしだったけれど、どうしてもやりたいことができてね」

 

 電話で聞いたとおりに先輩は会社に退職した。思いのほか明るい声で言っていたので上司は受け入れることにした。みんなもよかったと喜んでいた。

 だけど、わたしにはその急激な変化がいいことだとは思えなかった。

 

「本当に大丈夫なんでしょうか? その……鬱になってから急な変化は危ないって聞いたことがあります」

 

「その点は問題ない。医者からも太鼓判を押されたらしい。会ってみたが受け答えもしっかりしていたよ。寂しくなってしまうが本当によかった」

 

 みんなは気づいているのだろうか。先輩がどれだけ明るく振舞おうとその声が静かになるときがあることを。

 ただの心配のしすぎ。わたしの気のせいならいいのだけれど、どうしても心配になり様子を見に行った。

 

 

 日暮れ時。広がる町の明りから流れてくる夕飯のにおい。しっかりと防寒着を着込んだ彼を見つけた。

 声をかけようか迷っていると目が合った。うつろな目つきではなく、以前のように親しげで優しい表情だった。

 

「……おひさしぶりです。先輩」

 

 話しかけるが迷惑そうな素振りはなかった。軽い挨拶を交わし楽し気な声で近況を話しだす。

 実際に会ってみると、余計な心配だったんだと思いそうになる。

 

「明日、娘と一緒に出かける予定なんだ。新しい服を娘に買おうと思ってね。でも、女の子の好みとかよくわからなくて、妻には選んだ服をダメ出しされるんだよ」

 

 先輩が話す内容は以前のままだった。いるはずのない娘や奥さんのことばかりだった。

 話している間もその右手は何かをつかんでいた。まるで隣を歩く小さい子の手を引くように。

 

「おっと、まだ小さいのに力もつよくってね。まだまだ目が離せないよ」

 

 小さな体が元気をもてあましあちこちに飛び出そうとするのを引きとめているように、先輩の手があっちこっちに暴れる。そして、何もない空間にかわいくて仕方ないといった笑みをこぼしている。そして左に誰かがいるように話しかけている。

 

「夕飯の支度があるっていうし、そろそろ失礼するよ」

 

 楽し気に話す先輩にわたしはただ相槌を打ち、一人きりの背中を見送った。

 

 

 自分のアパートについたが、頭の中はさっき見たことでいっぱいだった。

 悩んでいると頬をなでる風にぶるりと体を震わせた。振り向くと、ちゃんと閉めたと思っていた扉に隙間ができているのに気が付く。しっかりと閉めなおしたとき、ふいに亡くなった祖父のことを思い出した。

 

『あんまりすき間をのぞかんほうがええで』

 

 祖父がぽつりとつぶやいた言葉だった。聞いたのは一度きりだったがずっと耳に残っている。

 

 晩年の祖父は死んだはずの祖母を追いかけるようになった。いつもはむっつりと寡黙な祖父だったのに、いないはずの祖母と話しているときは笑顔を見せていた。

 

 みんなはボケてしまったのだと言っていた。だけど、わたしは見てしまった。いつも祖父が手を合わせていた仏壇。伏せられた祖母の写真立てのわずかな隙間、そこに二つの瞳があった。人間の目がぽっかりとわずかな隙間に浮かんでいた。それがじっと祖父を見ているところを。

 

 幼かった自分が見たのはただの幻のはずだった。

 だけど、もしかしたら祖父が何かしっていたのだとしたら。なにかできることがあるかもしれないと母に電話をかけた。

 

「ねえ、お母さんおじいちゃんのことなんだけどさ―――」

 

 祖父のことを聞いてみたが、やっぱりただの痴呆だったということしかわからなかった。

 

「急に電話してきたと思ったら変なことを聞いてくるわね」

 

「なんか急に思い出しちゃって。ねえ……、もういっこ変わった質問をしてもいい?」

 

「なに?」

 

「……もしも願えば死んだはずの親しいひとが帰ってきて会いに来てくれるなら、どうする?」

 

 少しの間をおいてから母は断言した。

 

「そんなお願いはしないだろうね。帰ってこられても面倒でしょ」

 

 なんにでも大雑把でめんどくさがりな母らしい答えだった。

 

「それにそんなお願いは贅沢ってもんよ」

 

「贅沢?」

 

「説明が面倒ね……。それじゃ猿の手って知ってる? 怖い話ででてくるやつ」

 

「ああ、うん。有名な話だよね」

 

「あれみたいにさ、普通じゃありえない奇跡ってのは願えば逆に不幸になるものなのよ。神様ってのはいじわるなものよ」

 

「……でも、それは悪いことなのかな? 辛い別れを経験した人たちって奇跡を願っているんじゃないかな。夢で出会えるだけでも救われるって人はいるんだし」

 

「じゃあ、立場を代えて考えてみてよ。残された側はその後の人生をどうなってほしいと思う?」

 

「……辛いことを乗り越えて悔いのない人生を送ってほしいかな」

 

 そう思う。そうなってほしい。

 話しているうちにだんだん落ち着いてきた。

 

「でも、どうしたの急に?」

 

「なんでもないの。ごめんね。変な質問しちゃって」

 

「そう……? なにか悩みがあるならいくらでも聞いてあげるから、たまにはこっちにも帰ってきなさいよ」

 

 電話を切ると、しばらくぼーっとしていた。

 それからもう一度電話を手に取る。先輩にかけると、穏やかな声で「どうした?」と聞いてくる。仕事について電話ごしでは聞けないことがあるので直接話したいと会う約束をした。

 

 

 三日後、先輩と会った。

 喫茶店で待ち合わせると、先輩は嫌な顔をせずに質問に答えてくれる。

 

「すいません、急に呼び出してしまって」

 

「いいんだよ。ボクのほうもろくな引継ぎもできないままだったからね」

 

 店を出るころには夕暮れ時だった。街並みがゆっくりと夜に沈んでいく。山々に囲まれた隙間に建つこの街には早めの夜が訪れる。

 歩きながら他愛ない話をしていたつもりが、どうしても先輩の問題になってくる。

 

 わたしは説得しようと本当に必至だった。先輩はなだめるようにわたしの説得に応じてくるが、先輩の中でもう結論でていた。それでもわたしは諦めずににじりよる。

 

「もう一度おねがいします。考え直してください」

 

「ボクが元の生活に戻ることはできる。それでも不自由はしないだろう。でも、家族との時間を大切にしたい。もう少しだけでいいんだ」

 

「そうやって、もうすこし、あとすこしって、ずっと言い続けて一生をすごすんですか」

 

 先輩はわたしの言葉の中にチクリと胸をさすものを見つけたように目元をしかめた。

 

「そんな。そんなの……わからないだろう!?」

 

「ええ、そうです。わかりません。誰にもそれが正しいなんてわかるわけありません。でも……でもっ……!」

 

 続けようとするが言葉につまる。これ以上の言葉をだすことができない。言ってしまっていいのかわからない。そんなわたしの様子に違和感を感じたようだった。

 

「キミは何かを隠している。何だ、いってくれ。キミだけがこんなボクを気にかけてくれた。それはどうしてなんだ……?」

 

「助けるとか、他人が他人をすくえるなんてそんなおもいあがってなんかいません。でも、あなただけは……!」

 

 わたしは強く唇をかみ締めた後にはっきりと口にする。

 

「あなたのご家族はもう生き返ったりなんてしないんですよ!! あの家のどこにあなたの幸せがあるっていうんですか!」

 

「そんな、だって妻も娘も……」

 

 なにかの考えを振り払うように先輩は頭をゆさぶる。だけど、何を気が付いたのか。何に違和感を持っているのか。それ以上言葉をつむがずとも表情が雄弁に語っていた。

 

「あれはなたがこうあってほしい、自分の知っている過去のままであってほしい、そういった考えを鏡みたいに反射しているだけです。あれはあなたをずっと縛り続けようとする」

 

「うそだ……」

 

 分厚い鋼鉄の壁に全身をはさみ潰されるような激しい動揺。困惑する胸の奥で破裂する強烈なイメージと言葉がいくつもいくつも突き刺さり、先輩は胸を押さえた。

 そのままゆっくりと振り向いて誰もいないはずの場所を見る。

 

「いるよ、いるんだよ。ほらそこにボクの娘が……」

 

 この子は本当にいろんな表情を見せてくれた。

 いたずらして注意したときは不貞腐れてしかめっ面になったり、寝てるときのあどけない無防備な表情、だだをこねてぐずり始めたときの涙目。

 全部、覚えている。生まれたときはまだ腕に収まるほどの小さな体だった。言葉を覚え、歩き始め、これからどんなふうに成長していくのか楽しみだった。

 

 ありのままの素顔で泣いて笑うキミにいつも幸福を分けてもらっていた。キミがそばにいた。キミが笑いかけてくれた。それが毎日の幸せにだったんだ。

 

 スマホの画面に映った家族の写真を見ながら、先輩が語ってくれた言葉だった。

 

「待ってください!」

 

 走り出した背中を悲痛な声で追いかけるが、あの人が振り向くことはなかった。

 

 

 

 どれだけ彷徨っていたのか。視界が元に戻ると、胸を押さえてうずくまった。猛烈な勢いで呼吸を再開させて肺に酸素を送りこむ。

 

 ボクはビルの非常階段を上っていた。

 ビル風が吹き上げる。

 やがて屋上にたどり着いた。眼下に広がる街の風景、そのあちこちに娘と妻の記憶が残っている。それを求めて錆のういたフェンスに手をかける。

 

 息を吸って吐く、それを何度か繰り返して落ち着いてきた頃、フェンスの向こう側に娘がいた。陽が落ちる間際の夕陽が赤く照らす中、ぽっかりと娘の姿だけが浮いている。その隣には妻が立っていた。

 

『ねえ、おとさん……わたし……死んじゃったの?』

 

 ここで手を伸ばさなければ二人は手の届かない場所にいってしまう。いや、違う。変わってしまうのはボクだ。もう戻れない先に足を踏み入れるのだろう。

 

「待って! だめです!」

 

 遠くから声がきこえるが、かまわずにフェンスに足をかけてのぼっていく。もう妻と娘の間を隔てるものはなにもない。

 

「……帰ろう、三人で家に」

 

 そのまま手を伸ばし、二人を胸のなかにかき抱いた。間にあるはずのぬくもりを決してのがすまいと。

 

 足場をなくした浮遊感の中、細い髪をくしけずるように差し入れた指を何度もなでおろした。髪からたちのぼる匂いを感じようとした。

 だけど、何もなかった。何も感じなかった。ほしかったものはどこにもなかったのだとわかった。本当はとっくに知っていたんだ。

 

「っ……!」

 

 頭上で、泣きそうな顔で必死に手を伸ばす彼女の姿が見えた。最後までこんな自分を気にかけてくれた彼女には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

 

 一人の女性がとぼとぼと帰り道を歩く。葬式の帰りだった。

 本当のことを教えたその日、彼は自殺した。理由ははっきりしている。彼は妻と娘のいる世界を選んだのだ。家族に会いにいったのだ。

 

 言ってはいけなかった。

 それがもしも幻であっても、思い込みであっても、彼がそうやって自分のすき間を埋めようとしていたのだったら。

 彼にとって家族はまだ生きていた。過去になんてなっていなかった。

 

「どうしたら、よかったのかな……」

 

 暗闇につぶやいても誰も何もいってくれはしなかった。

 

『あなたは悪くない』。

 

 第一発見者として警察に事情を聞かれた。

 

『あなたが引きずる必要はない。いつまでも人の死に囚われてはいけない。忘れなさい。忘れるのです』

 

 遺族は彼の義父だという老人一人だった。

 

 できない。忘れることなんて。

 自分が彼を殺してしまったようなものだ。それなのにどうして変わらず日常を送れているのだろう。日が暮れた道を最低の気分のまま道を歩いていた。

 

「ただいま……」

 

 彼女は重たいため息をはきながら誰もいない部屋でつぶやく。当然、返事なんてないはずなのに。

 

―――ひゅうと隙間を通る音が聞こえた気がした

 

「おかえり。外寒かっただろ」

 

 そこに当たり前のように彼が立っていた。

 驚き固まりながら、冷静な部分では返事をしてはいけないと考えている。

 

『あんまりすき間をのぞかんほうがええで』

 

 祖父の声がよみがえる。

 あのとき、幼かった彼女はどうしてと聞いた。

 

『すきまに入り込まれるからや』

 

 重ねて、なにがと聞いた。

 

『おるんや、あれが』

 

 結局要領を得ない答えしか返ってこなかった。

 

『気いつけ。心を強くもたな入り込まれる』

 

 そう言っていた祖父も入り込まれてしまった。

 拒絶なんてできるわけがない。ふっと肩の力を抜いて彼女は笑顔を浮かべた。

 

「……先輩、会いたかったです」

 

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