ACT 7 人形
「私も、好き」
――え?
彼女・羅瀬辻悪鬼奈は俺の背に腕をまわし、抱き返してきた。
そんな、簡単に……。
「大事な大事な、お人形さん……これからは、私が可愛がってあげるからね。アナタは、トクベツよ」
彼女は耳元で囁く。
首に巻き付くのは腕ではなく、冷え切った鱗の蛇。ゆるりとしなやかに絞め殺す。毒牙を使うまではない。絞殺で十分だ。俺は無抵抗。
一瞬の錯覚。
表面的には優しい猫撫で声の彼女だが、その内側にある感情的な律動を、本能が感じて。
……ゾッとした。まさにこのことを言うのだろうか。戦慄した。
彼女の言う『好き』とは、俺の言う俗な『好き』と意味が違うのだ。
認識が違う。言葉が通じない。精神が読めない。バケモノめ。
「ねぇ、私の心臓の音、わかる?」
真紅の瞳を潤わせて、縁取られた長い睫毛が揺れる。紅い虹彩の一筋一筋までがしっかりと見える距離。見つめ合う双眸。2人は溶け合う。
心拍数の増加。火照り。発汗。
柔らかな双丘の合間に響く音。それが俺に聞こえるのか感じられるのかと怪物は問うている。
私を感じなさい。私の生を感じなさい。
試しているのか。ならば、試されよう。俺は逃げない。目を逸らさない。お前の全てを受け入れよう。
一旦、腕を解いて屈み、彼女の胸に耳を当てた。
聞こえる。彼女の拍動。速い。
白い指で髪をすかされた。気持ちが良い。安らかな、死を感じた。俺は死の隣にいる。死に抱かれている。死に魅入られたんだ。
死とは常に隣にいるもののはずなのに。今まであなたの存在を忘れていました。見ないようにしていました。わざとあなたを無視していました。仲間外れにしていました。ハブっていました。みんなであなたの悪口を言っていました。あなたを馬鹿にしていました。あなたをあなたを……。
「お前は、生きてる」
彼女は黙って俺の頭を撫でる。もう怖くない。
「俺も生きてる」
彼女の手を振り切って、立ち上がる。彼女の目を見すえて言った。
「俺は、人形じゃねえ。生を当たり前として無視する、死を恐れ無視する、生きてるのか死んでるのかわからないようなヤツとは、違う」
「……ホントに?」
「ああ、意志を持っている人間だ」
「……ふぅん。ヘンなの。まあ、面白いから、別に良いけど」
彼女はそっぽを向いて歩き出した。と思うと、振り返って、髪が揺れる。
「……それじゃあさ、もっと面白いこと、しようよ」
無邪気な笑顔、に見える。彼女はさっき俺の目が死んでいると言った。彼女自身の目は生きているだろうか。
「今の学園内で、私を除いては、あなたは誰の興味の対象にはならないから、視界に入ったとしても視線が注がれず、ただのモノ以下としてしか認識されない。背景に溶け込む。これで合ってる?」
「それと声も同じだ。環境音、その他の雑音に紛れる。他はその通りだ。分かってるな?」
口外はするな。
「……もう、執拗いよ。私のこと、好きなのに信用してくれないの?」
彼女は眉を8の字にして頬をふくらませた。やはり、怒っているというより、可愛らしいの印象が先行する。
「わかったよ。信用してマス」
「それでヨシ。……でも、だからってみんなのこと悪く言っちゃダメだよ。そういうの、私、嫌い」
彼女が俯くと、睫毛の長さがよくわかる。
「それは、反省してる」
夢中になり過ぎていた為、彼女の存在に気が付かなかった。
「今みたいに、みんなに認識されないあなたと会話している私は、第三者にはどんなふうに映るの?」
「逆に質問するが、透明人間が服を着るとどんなふうに見えるか、想像に難くないだろ?」
「服だけが浮いて見えるってことか。……え! じゃあ、今、私は独り言、ボヤいてる変人!?」
「その通り。今度は完璧じゃないか」
「別に嬉しくなぁい!」
また怒った表情だ。
「可愛いな」
声に出ていた。
「……ホント?」
上目遣いは反則だ。
「ああ」
「私のこと、好き?」
「あ、ああ」
「じゃあ、証明して」
「へ?」
「今ここで、全校生徒の前で、私への想いを叫んでよ」
ここは大講堂の中。現在は全校生徒が集まって、生徒集会が行われている。ステージ上には生徒会役員の面々が座っている。
俺たちは最後列のそのまた後ろにある通路の壁に隣合って持たれていた。
「君への想いなら、今ここじゃなくても叫べるだろ?」
「だーめ。みんなの前じゃなきゃ許容されませーん。今がチャンス! もちろん、ステージの上でね」
この時の俺は、多分、惚気けてたんだ。あまりにも彼女の姿が可愛くて、つい彼女の言う通りにしてしまったんだ。俺は馬鹿だ。屋上ではカッコつけて、人形じゃねえなんて言ったけど、彼女の言いなりになっているこの調子じゃ、彼女のあやつり人形も同然だ。
俺は、傾斜のゆるい階段を跳ねるようにして下り、全校生徒の視線が集中する場所であるステージに登る。階段上になった座席を見回しても、俺に視線を向けるものはいない。
そして、深く息を吸って、
「羅瀬辻悪鬼奈ァァァァァ!!! 好きだァァァァァァ!!!!!」
たっぷりと10秒間。
――はァ、はァ。言ってやったぞ! どうだ! 見たか、アッキーナ!
「おい、貴様。いきなり何をするか。ここがどこだか理解しているのか」
そう告げて、背後から俺の肩を掴んだのは、眼鏡をかけた男だった。握力が強い。離す気は無いようだ。
――誰だ? なぜ、俺の声と姿を認識している?
そう考えたのほんの刹那で、俺はすぐに精神操作を開始させた。
この男の興味を――なんでも良い、何か適当なモノ、何かないか――席に座るあの短髪の男子生徒に向くように書き換える。
――何だ。こいつの精神はやたらと書き換えにくい。パワーを使う。
それほど強靭な精神の持ち主なのか。
「バチィッッ!!!」
現実世界で俺と眼鏡男の間に閃光が走る。
男の瞳孔が開き、黒目が不自然にギョロリと移動するのを確認した。男の興味が逸れた。掴まれた指の力が弱まる。その一瞬で、ステージを飛び降りて、大講堂の外へ駆けた。
息を切らして、校舎内のトイレに駆け込んだ。あの眼鏡の男は、間違いなく俺を認識していた。彼もまた、アッキーナのような怪物じみた精神の持ち主に違いない。また厄介な奴が浮上してきたものだ。
まさか、アッキーナは、自身の他にも俺の精神操作にかかっていない人間がいることをわかっていて、こんな真似をやらせたのか。
まただ。また気づかなかった。迂闊過ぎた。何が、好きだァァォァァァァ!!! だよ。自分が馬鹿であることを露呈しただけじゃないか。
証明して、か。彼女の声が蘇る。
さて、彼はあの状況をどう分析するのか。
降魔法治は、いつの間にか席に座る男子生徒と目を合わせていたことに気がついた。たっぷりと10秒間。男子生徒は顔を赤くしている。
「副会長、彼がどうかされましたか?」
生徒会長・天羽聖子に問いかけられた。
振り返って、「すまん。何でもない。……君も悪かったな」
降魔はチラリと男子生徒に視線を向けて謝罪した。
「続けてくれ」役員たちに目線を送る。
「はい。それでは、本年度の予算案を―――」
降魔は、元の席に着くと、肘を机に立てて指を組んだ。
もうこの時点で話など聞いていなかった。そんなことよりも、彼にとって、さらに重要な事柄が頭の中を占めていたからだ。
――先程の男子生徒は、確か1年生……短髪の、男子生徒、神村甲了……いや、そんな人間だったか。
降魔はこの自らの記憶自体に不信感を抱いた。彼は自らの記憶に絶対的な自信を持っているからだ。海馬海馬。母の胎内での記憶を持つ降魔が、たった数分前の出来事を曖昧にしか記憶していない。その事が気持ち悪かった。
何故、あのような暴挙に出たのか。生徒集会中にステージに上がり……
はて、何を叫んだのだったか。何かを叫んでいたのだが。
――沙羅双樹の鼻はイチゴ100%?
また、もどかしい。憶えていないことが、逆に気味が悪い。
確か、あの瞬間に光が放たれたのだった。
あれが、記憶を改竄する力だったとしたら?
自身の記憶が曖昧であることの説明はつくのだが……他の……叫んだ………? 男子生徒は…………。
駄目だ。薄れかかっている。掴みきれない。
「カ、ミ、ジ、キ、サ、ト、シ」
………ハッ? 今、ひとりでに口が動いた。これも能力によるものなのか? ならば、一体誰が、どこから、何のために。
口の形を憶えている。
心の中でその形を再現する。かみじきさとし。意味がわからない。何かの暗号か。かみじきさとし。
術者は何を伝えようとしている………?
……………………………………………あ。
「……う……いちょう……く会長、副会長?」
「はッ…………! どうした、天羽君」
「心配したんですからね。全くもう」
「だから、どうしたんだと聞いているんだ」
「周りの状況、よく見てください。副会長、いっつも何かにのめり込むと周りが見えなくなる所があるから……心配なんですよ?」
ここは、保健室? ベッドの上に寝かされているようだ。記憶が無い。全く。大講堂で、生徒集会を行っていて、何かに気づいて席を立ってから………また座り直して………………その先は…………?
「生徒集会はもうとっくに無事終了しています。その後、副会長はすぐにどこかに消えちゃって、またいつもの思い立ったら即行動だと思って、監視の目に追いかけさせたんです。そしたら、外で倒れていましたから、急いで駆けつけて、保健室に運んでもらったんですよ」
………全く記憶に無い。そんなことが。
「眠っている間も、何か寝言を呟いていらっしゃいました。聞き取れはしませんでしたが、きっと疲れていらっしゃるんだと思いますから、今日はもう家に帰ってしっかりとお休みになってください。業務に支障が出ては困りますから」
「……済まないが、そうさせてもらうよ」
「後のことは、他の役員たちに任せてください」
「………頼んだ」
天羽聖子は部屋を出ていった。ドアが閉められたことと、保健室に自分以外誰もいないことを確認すると、降魔法治は空に語り掛ける。
「……リュウジ。また、お前の仕業なのか。いつもいつも、出てくる時は気まぐれで。勘弁してくれよ」
「なあ。聞こえているだろう。後で紙に書くなりして返事をくれ。
生徒集会中に、何があった。俺は、なぜ、立ち上がった。終わったあとも、外で何をしていたんだ。それから、俺の意識がある間に、勝手に俺の口を動かしたのも、お前か? 」
「俺とお前は、以前に約束を交わしたろう? 平日で学園にいる間は俺、ホウジの時間だ。その代わり、休日はお前の好きなようにして良い。そういう約束だったはずだ」
「約束と違う勝手な行動は、やめてくれ。俺にも事情がある」
「俺とお前は、直接言葉を交わすことは出来ない。だから、紙に書いておいただろう。まさか読んでないわけはないよな。何か、サインのようなものを書き残していたし」
降魔は手近にあったボールペンと紙を手に取り、今喋った事を要約して書き留めた。そして、シャツの胸ポケットに仕舞った。
立ち上がると頭痛が酷くなった気がする。いいや、構うものか。
制服のジャケットを羽織り、保健室を後にした。
俺は、アッキーナの姿を探していた。もう日は暮れて放課後になっていた。校舎内にはいなかったし、大講堂も空っぽだった。
――もう帰ったのか。少し話をしたかったのだが。
校庭の脇の道をふらふらと歩いていると、屋上に人影を発見する。
長く黒い髪を靡かせた、黒いフリルの改造制服に身を包んだ女子生徒。間違いない。羅瀬辻悪鬼奈だ。
彼女に向かって軽く手を振るが、気づいてもらえない。
縁に上体を持たれさせている。両肘を立てて、掌で頬を包んでいる。遠くの空を見詰めているようだった。
俺も同じ方向の空を仰ぎみる。
東京の黒い高層建築物群がそびえ立っている。その隙間からは濃い橙色の光が差し込んでくる。目を細めた。
もう一度、屋上を振り返った。
彼女の姿はもうなかった。待つこともないと思い、俺はひとりで帰ることにした。
校門を抜ければ、ただの人。