天からの墜落
落ちる。
落ちる。
落ちる。
呼吸のように自然に在ったそれがまるで吐息のように肉体の外側へと染み出していく。背中から生える一対の翼はその役割を放棄し、それと同時に石のような質量を訴えてくる。重力の見えざる手がぼくをつかみ取って離さないが、大気はそれをいさめようとしない。今まで竹馬の友として馴れ親しんでいたのに、薄情な空気はぼくが翼を失った途端に手のひらを返した。だが、それを恨めしく思っている間にもぼくの肉体はどんどん大地へと近づいてくる。
落ちる。
落ちる。
落ちる。
なぜ。どうして。
ぼくはただの天使だ。与えられた仕事にしたがい、地上を監視した。この翼はそのためにあるものであり、ぼくが正しく仕事を行っている限り奪われるに足る理由などあるはずがない。仕事には勤勉で、怠惰とは程遠いいものだった。なにも落ち度がないぼくが空を飛ぶ天使の座から転落することなどありえない。
だが、そんな感情で落下が止まることはない。
世界が創り出された古より定められた理に従って夕日が沈んでいく。それはまるで神に見放されたぼくのようで。
そして──────ぼくは地上へと墜落した。
地上へと落ちたぼくはその夜の間、しばらく放心していた。
痛みはない。肉の体を持つ生物ならまだしも、それよりも高次の存在である天使が落下程度で激痛を覚える訳がないからだ。ぼくの意識を束縛していたのは精神から来る動揺だった。
「ぼくは、ぼくは……」
地上に生きる生物と天空に座する天使には埋めようがない差がある。肉の体を持つ前者は飢えや渇きといった肉体から生まれる苦しみがあるのだが、天使は造られた時点からあらゆる苦しみから解放されている。
地上の被造物と天使では格が違うのだ。
だが、ぼくは地上へと転落した。天使の証である翼は石のように重くなり、まるで使い物にならない。汚れた地上から再び天空へと舞い戻ることはおそらくありえないだろう。
この転落をなんとたとえればいいだろうか。
自分という存在の根幹を成す構成要素が自分の意識の外側から現れた不可視の手によって突然はぎ取られたような感覚が困惑としてぼくを揺さぶる。
そして次に襲いかかるのは不安。
翼によって飛ぶことはできずとも、空腹を感じることはない。つまり、空から転落したが肉の体を持った存在へと成り下がった訳ではないのだ。
しかし、その場合は次にどうするのか。
たしかに飢えがないのだから食事の心配は不要だ。けれどこのままでは永遠に地上を彷徨い続けることとなってしまう。どこかへ行ってなにかしらの手段で再び空を飛ぶ天使に戻る必要がある。だが、その具体的な手段についての情報をぼくは所有していない。
そして不安にあえぐぼくに襲いかかるのは恐怖。
天使の座へと戻ろうという意思はあるものの、それを活用するために必要となる情報がどこにもない。手掛かりさえも見当たらない。いや、そもそも本当に都合よく僕の願望を叶えてくれるような奇跡がこの地上に存在するかどうかすらも定かではない。
考えれば考えるほどに思考は泥沼へと沈み込み、不安と恐怖で意識が固定化されていく。
「そこの方」
振り向くとそこには老人がいた。地上の人々が好むような宝石などはなく、着ているものは古ぼけたローブだけだ。そのローブもまた良質なものとは言えないような粗悪なもので、最低限の雨露をしのげるかどうかすら怪しい。
「若者よ、衣服で他者を判断してはならない。あなたが信じるべきはその人が持つ財産や名声ではなく、その人が持つ人間としての徳の高さである」
ぼくの心を読み取ったように的確な言葉で答える。しかし、その言葉はまさに耳には苦いものであった。
「もしあなたが知恵を求めるのならば、あの山を登りなさい。そこに私はいる」
「それはどういう……」
いつの間にか老人は視界から消えていた。
手ではつかめない霧のように。あるいは、見えていても決して捕らえることができない風のように。
だが、どれほどか細い蜘蛛の糸だとしても地獄から抜け出すにはそれに頼る他ないのだ。
そう決心してぼくは山を登り始めた。山自体はすぐに見つかったため、探す手間は省けた。しかし山登りは僕の想像を上回る苦行であった。
翼が石のように重い。足が前に進むごとにその重量を肌で実感する。いっそのこともぎ取ってしまおうとすら思ってしまうが、そんなことができるはずがない。
それでも、歩く。
歩かねばならない。
歩かなければ天使に戻れない。死を知らないこのぼくは地上を永遠にさまよい続けなければならない。この罪に満ちた地上で孤独のみを唯一無二の友人としなければならない。
それだけはごめんだ。
だから、歩く。
むき出しの足に鋭い砂利が突き刺さる。息も苦しくなり、心臓も皮膚を突き破りそうになるほどに稼働している。
「やっと来たか」
老人は山の頂上で静かにたたずんでいた。衣服は変わらずぼろぼろのローブが一枚だけで、外見だけ言えばただの浮浪者にしか見えなかった。
ぼくは手頃な大きさの石を見つけて腰掛ける。疲労が既にぼくの身体にのしかかり、息を吸うごとにぼくの骨身を押し潰していくようにすら感じる。
「私は預言者だ。あなたがやるべきことは主より既に知らされている」
そのみすぼらしい外見に反して威厳に満ちた言葉であった。
「あなたには試練が与えられた」
老人はぼくに一本の短刀を渡した。
「その凶器でもって一人の人間を殺しなさい。それをもって神への生贄とする」
短刀は非常に粗悪なものだった。刃こぼれこそないものの、ところどころにあるさびによって切れ味は悪かった。
「その短刀はあなたが躊躇うごとにどんどんさびが生えていく。もしもあの太陽が沈むまでに誰も殺せなければその短刀は朽ち、あなたは永遠にこの地上を孤独にさまようであろう」
太陽の位置から察するに今がおよそ正午。日が沈むまであと四時間程度しかない。
「急げ若人、時は金なりという」
それだけ言うと老人の姿は掻き消えていた。
一本の短刀。
それがぼくの命運を決める。
条件は単純だ。
この短刀でもって人間を殺す。
老人でも若者でも子供でもいい。善人でも悪人でもいい。男でも女でもいい。王族でも奴隷でもいい。富豪でも貧民でもいい。神に捧げるべき命に年齢も善悪も性別も身分も貧富も関係ないのだ。名も知らぬ誰かを殺せばぼくが救われるというだけのことだ。
「よし……!」
ぼくは背中の一対の翼の重さを背負いながら山の頂上から下り、人があまり通りそうにない道にひそむ。
しばらく待っていると一人の商人が現れた。その商人は荷物を持たず、ロバが商品などを背負って歩いているようだった。ロバ一頭しか連れていないところを見ると商人はあまり裕福ではないのだろう。
「ふー……まだまだ、店を持つにはお金が足りないなあ……」
商人は周りには誰もいないと考え、相棒のロバに向かって愚痴を吐き出す。
ぼくは短刀を強く握る。
当然のことながらぼくはあの商人を知らない。彼の性格、私生活を知らない。赤の他人なのだから罪悪感など起こるはずもない。
ましてや、ぼくは天使だ。人間の命よりもずっと価値は高い。あの商人の命を一つ奪うだけでぼくは天に返り咲くことができるのだから、商人を殺すことを躊躇う要素などどこにもない。
殺すのは簡単だ。天使の膂力をもってこのさびた短刀を突き立てるだけ。
天使の身体能力は人間のそれを凌駕する。たとえ短刀がどれほどなまくらであろうと問題ない。
商人の足音がだんだん近づく。
さあ、殺せ。
一突きだ。たった一つの動作で全てが終わる。
ぼくは商人の前に出る。商人まで近づくのに三歩も必要ない。当然、短刀は懐にしまっている。このまま接近してしまえば全ては終わりだ。
「あれ、もしや……」
「!」
勘付かれたか? いや、少なくとも心拍にも呼吸にも表情にも異常はない。当然、人間ごときを殺すことに躊躇も罪悪感もない。
「もしかして……」
商人は近づく。無遠慮に距離を詰める。
ぼくは懐の短刀を握りしめる。
「……あなた、道に迷ったのですか?」
「え?」
「いえいえ、恥ずかしいことではありません」
商人は笑いながらぼくに話しかける。あまりにも近いがために懐から短刀を取り出せない。
「私もこの相棒とともに多くの土地へ旅します。しかしながら、見知らぬ土地には問題がつきまといます。たとえば、盗賊ですね。食い詰めた者の多くは賊になってしまいますから、そういった盗賊はどこにでもいます。私も何度か身ぐるみをはがされたことがあります」
商人はしみじみとつぶやく。その隙にぼくは自分の懐をまさぐり、短刀の感触を確認する。その温度を指で認識すると金属の冷たさが心にも移って冷静になっていく。
「……ところで、なぜぼくに話しかけたのですか?」
気さくに話しかけることで目の前のこの男から警戒心をはぎ取る。そうすれば、確実に殺せる。
「ああ、それは単純にあなたが困っていたように見えたからですよ」
なにを血迷ったことを口走っているのだろうか。
人間は醜い生き物だ。主が作った被造物でありながら悪魔によって堕落した。神はそんな人間を救済しようとしているが、ぼくは人間にそれだけの価値などないと思っている。
「人間には悪魔を友人とし、魔女と寝るような者もいます。では、なぜぼくを助けようとしたのですか?」
「たしかに悪の道へと堕ちた人間もいます。ですが、私は信じているのですよ、人間には他者を思いやる善性があると」
商人の言葉には嘘偽りなどなかった。その心臓は正常に稼働し、急激に心拍数が上がることもない。皮膚から汗が流れることも、緊張で息を荒げることもない。平静そのものだった。
「たとえ、ぼくがあなたを殺そうとしても?」
「ええ。あなたを信じます」
涙という余分な機能を天使は持たない。
それなのに、どうしてだろう。
胸を掻き毟りそうなこの感情はどんな名前を与えるべきなのだろうか。
「それでは、良い旅を」
商人は相棒のロバとともに歩いていく。
いつの間にか、ぼくの手が握っていた短刀は懐へと舞い戻っていた。背後からこの短刀で一突きすれば確実に命を奪えるはずなのに、できなかった。
だが、次こそだ。
今度こそ。
今度こそ、殺す。
たった一人の命でぼくは再び天へと帰ることができる。
だが、同時に悩む。
今まで人間とは地上を蝕む虫の名だと思っていた。人間は全て堕落しており、罪と汚れであふれ返っているのだと考えていた。
しかし、違う。
先ほどの商人は人間の善性というものに希望すら抱いていた。その商人はぼくが想像していた悪逆というものに汚されず、清らかな希望を持っていた。
「そこの人」
ぼくに話しかけてきたのは、雑巾のように貧相な服を着た青年であった。
「どうされたのですか?」
「ああ、その……」
懐をまさぐる。だが短刀を握ってもまだ迷いが残る。
「拙僧は旅の者です。旅の先で神の教えを広めているのですよ。まあ、そのおかげでその日の食事や衣服にも困ってしまうのですがね。ともかく、なにか悩みがあるご様子。どうか話されてはいかかですか?」
「ええ、その……」
迷いがぼくを鈍らせる。だが、口はぼくの意思とは関係なく勝手に動いてしまう。まるで革袋が中の水を吐き出すように。
「人に価値はあるのでしょうか?」
あるいは、これは祈りだったのかもしれない。
この問いを否定することによって、人間とは無価値であるという今までのぼくが抱いていた認識が再び肯定されることを。
「それは神がお決めになることでしょう」
若い信徒はどちらでも取れるように答えた。
「たしかに地上の人間には多くの汚れがあります。悲しきことに、サタンが人々を惑わせているのです」
そうだ、人間たちの罪がこの星をおおっている。地上に生きる人間は知らないことだが、神の怒りが満ちた週末の時に地上は裁きの災厄が起こる。あの慈悲深い神でさえ過去に大洪水によって人間たちを地上から消し去ろうとしたのだ。それほどまでに人間は罪深い。
「しかし、ですね。同時に人間には価値があると拙僧は愚考します」
「それはなぜ?」
「人間にはまだ神の教えに触れて悔い改めるという道が残っています。もしも人間が無価値であるとしたら神が我々の命を例外なく奪い尽くされることでしょう、ソドムとゴモラのように」
ソドムとゴモラは人間の不浄を見かねた神が滅ぼした街だ。その中でアブラハムとその妻、そして二人の娘だけが神から告げられ、街から逃げることで命を救われた。しかしながら、アブラハムの妻は滅びゆく街を見てはならないという神の言葉を信じなかったために塩の柱となって死んだ。
「見てください、あの太陽を。もしも神が人間を滅ぼそうとなされるのならば、たちまち太陽の光が我々を穿つでしょう。あるいは、太陽の光が地上に届くことはなく、全ての人間が寒さと飢えで死に絶えるでしょう」
「では、最も価値のあるものとはなんでしょうか?」
「希望、信仰、愛の三つでしょう。希望を失えば人々は明日のことを忘れ、無秩序がはびこるでしょう。信仰を失えば人々は傲慢になり、かの大天使ルシファーのように堕落するでしょう。愛を失えば人々の心は荒廃し、神からの無償の愛も同様に失われるでしょう」
それだけ告げると宣教師は再び歩き出す。
まるで自分の命を擦り減らすように名も知らぬ誰かに神の教えを広めようとする意志。それはまさしく聖者の行いそのものであった。
「なんだったのだろうか」
彼は信仰に生きていた。その生き様は全てを神に捧げ、あらゆる不浄を拒んでいた。生まれながらに原罪を背負う人間とは思えないほどに徳が高い。
ぼくはどうだろうか。
神に直接仕えることができる天使というだけで、それ以上のことはしただろうか。人間のことを下等な存在であると見下していただけで、自分はなにもしなかったのではないか。
ため息を吐く。もちろん、これも呼吸系など存在しない天使にとって人間の真似事に過ぎない。そして、こんな悩みも天使であれば考え付くことさえなかっただろう。
だが、悩んでいても時の流れというものは止まってくれない。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
うら若き乙女が息を切らせながらこちらへと走ってくる。その左右の足はまるで糸が切れた人形のように不規則に動く。
「あっ……」
少女は小石につまずいて転倒する。少女は立ち上がろうとするが、既に彼女は疲労困憊であった。
おそらく、これが最後の機会だ。
彼女はこちらに気付いていない。走り疲れた彼女にはもう抵抗する意思も体力も残っていないだろう。そしてぼくが持つ短刀の刃はほとんどが錆びついている。ここで生贄となる誰かを殺さなければこの短刀は使えなくなり、ぼくはこの地上を永遠にさまよわなければならなくなることだろう。
決断は一瞬。
殺さなければならない。さもなければ、ぼくは神の怒りがこの地上を焼き払う終末の時まで時間の牢獄に囚われる。肉の体を持つ地上の被造物たちに平等に訪れる死すらも肉の体を持たない天使であるぼくを救うことはない。
ぼくはぼくのために一つの命を神に捧げる。
一歩前に踏み出す。
「そこにどなたかおられるのですか?」
きづかれた!?
いや、そんなはずはない。
「私は生まれつき目が見えないのです。ですから、視力の代わりに肌で気配を読み、耳でかすかな音を聞き取ります」
盲目の少女はぼくが短刀を持っていることまでは知らないようだ。
ぼくは懐から短刀を取り出し、それを振り下ろそうとする。
「そんな殺気を出してどうしたのですか?」
ぼくの殺意を正しく認識しながらも凪のように静かな声で少女は言う。
「その短刀で私を殺しますか?」
「……ああ、それがぼくの目的だからね」
「そうですか」
少女は動揺しない。ぼくに命乞いをすることもなく冷静さを保ったままだ。
「きみはぼくが殺そうとしているのがわからないのか?」
「いいえ、私の目は閉じていますが殺気は肌で感じています。あなたが短刀で私を殺そうとしていることも、あなたが動揺して手先がふるえていることも。あなたが本来は人間を殺すことを躊躇うような優しい人であることも。すなわち、どうしても殺さなければならない事情があるということも」
「なぜそんなに冷静でいられる!? 今から自分を殺そうとするぼくに怒ることも恨むこともなく、死を悲しむことも恐れることもない!」
「私は信じているのです。人間には愛があると」
ぼくはぼくのために一つの命を奪おうとしている。だが、少女はそのたった一つしかない命を見ず知らずの他人のために差し出そうとしている。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はありません。あなたがこの瞬間にすれ違っただけでも、あなたは私の隣人であり、友でしょう」
ぼくは自分の目的のために短刀を振りかざす。
そうだ、今度こそやらなければいけない。ぼくはこの罪で汚れた地上で永遠に住まなければならない。
だが、短刀はぼくの手から滑り落ちてそのまま地に落ちた。
「できない……!」
ぼくが出会った人間は善き人々であった。自分よりも他者のために生きていた。自分の欲望のために他者から奪うのではなく、自分の持ち物を他者に分け与えることができる人々だった。
ぼくはどうだろうか。
二度と天に帰ることができなくなり、死ぬことすら許されずに永遠に地上に囚われる。だから、誰でもいいから人間を殺そうとした。
しかし、それは全て欲望の領分を越えない。
無償の愛とは真逆に位置する。
「ぼくには、殺せない!」
その瞬間、光が世界を包み込む。
「そう、それこそ神がお望みになった答えです」
少女の背中から六枚の翼が生え、その身体から太陽のようにまばゆい光があふれ出す。
少女は天使だったのだ。
「かつてのあなたは神の手によって直接作られた天使であるという理由によって傲慢になり、地上の民を見下していました。だから、神はあなたから天使としての力を取り上げ、地上へと落としました。しかし、あなたはこの試練によって地上に生きる人間を知った」
ぼくは地上へと堕ちたことによって人間の善性を知った。全ての人間が善であるとはいえないが、それと同様に全ての人間が悪であるという訳ではない。そして、善性を持った人間は天使以上に清らかであった。
「あなたは結局一人も殺さなかった。人間を一人殺すことはさほど難しいことではありませんが、あなたは自分の欲望のためだけに命を奪うことを躊躇いました。けれど、それこそが最も正しい選択だったのです。利己主義からの解放こそ主の望みなのですから」
そしてぼくの羽に再び力が宿り、空へと飛び立つ。
「ハレルヤ、この世界のあらゆるものに神の祝福があらんことを」