ふたつめ
キーンコーンカーンコーン
「あら時間。ほら」と言いかけたお姉さんに
「分かってるって。」
「 “子供は帰る時間”でしょ。」
という。
「もう。それ私の言葉。」
「へへ。ばいばい。」
いつものようにみんなで帰る。公園を出てしばらく歩いた時、ボクは何かに引っ張られる感じがした。
「ごめん。先に行ってて。忘れ物しちゃったから。」
「ドジだなぁ。」
「えへへ。ごめん。」
ボクは走った。
まだいた。
「お姉さん。」ボクは呼んだ。
「どうしたの?」
「忘れ物しちゃって。」ボクは嘘をついた。
お姉さんが笑う。
「二人とも?」
「えっ?」
振り返るとシュンが草陰から出てきた。
「ごめん。ついてきちゃった。」シュンが言う。
もしかしたらシュンもボクと同じようなものを感じていたのかも知れない。
「お姉さん。」
「何?」
聞きたいことがあった。
「どうして声をかけてくれたの?」
「野球がしたかったから。」
隣のシュンと顔を見合せて笑う。
「二人ともうまくなったね。」
「本当?」
「うん。とっても。」
今度は二人で得意げな表情になる。
だけれど、
「公園なくなっちゃうって。」
お姉さんが顔を背ける。後ろに立つ大イチョウの木を見上げているようだ。
「そうみたいだね。」
少し小さくなった声が聞こえる。
「野球ができなくなっちゃう。」
声に出したら胸が苦しくなってきた。
「ここしか、バットもボールも使えない。」
いつもより低いシュンの声が重なる。お姉さんは何も言わない。
「どうしてなくなっちゃうの?」なんとか絞り出した声で訴える。
「しょうがないことだから。」
お姉さんがボクとシュンの前に立っていた。
「でも」ボクが叫ぶ。
「ありがとう」
「えっ」
消え入りそうな小さな声が聞こえた気がした。
「ほら、もう遅くなっちゃう。帰らないと。」
お姉さんはいつの間に笑っていた。ボクとシュンの頭をクシャクシャとなでる。
ボクはシュンと目を合わせて走り出す。
「さようなら。お姉さん。」
「・・・さようなら。」シュンも言う。
「うん。気をつけてね。」
こんなに眠れない夜は初めてだった。どんなに眠ろうとしても公園のことが頭から離れない。
「お母さん。」
「なに?」
夕飯時に台所に立つ母親に聞いてみた。
「あそこの公園ってなくなるの?」
母が考える。
「あぁ、そうだったわねぇ。確か回覧板が回って来てたわよ。」母は言った。机の上に放り出された回覧板は母の言葉を裏切ってはくれなかった。
野球に憧れたのは確か五歳くらいの時だった。父が連れて行ってくれた野球場。大きな歓声。広いグラウンド。響くバットの音。相手を打ち捕っていくピッチャー。鋭く、豪快にバットを振り切るバッター。ただ一つの白球を追いかけていく選手達とその全てのプレーに魅せられたのだ。
父は別に秀でてどのチームのファンというわけではなかった。試合のチケットだって、たまたま新聞屋さんがくれただけだった。
それでもその試合以来、野球を好きになったボクをまた試合に連れて行ってくれるようになったし、休みの日には一緒にキャッチボールをしてくれた。
しかし、ボクが大きくなるにつれキャッチボールをしてくれることはなくなり、仕事が忙しくなって球場に連れて行ってくれることもなくなった。近所の野球クラブに入ろうかと思った時もあったが親に言い出すキッカケがなく、
「子供はお金がかかるわ。」
「もっと働かないと。」
と愚痴をこぼす両親に言い出すことが出来なかった。そのうち
「今更入るには遅すぎる。」と自分で決めつけて諦めた。結局は一人公園で壁当てをするだけになっていた。
シュンもまた眠れないでいた。
「しょうがないことだから。」
お姉さんに言われた言葉が少し前と重なる。
シュンはこの街の生まれではない。三カ月前に父親の仕事の都合で転校してきたのだ。
前は一瞬であったが地域の野球チームに入っていた。入ったのが遅かったから年下の子よりも下手ではあった。でも野球が好きだった。何倍も練習をして上達し始めた。そんな時だった。
「急だけど引っ越す。」と言われたのは。
初めてに近いわがままを言った。来月には、楽しみにしていた初試合があった。
「なんで?来月の試合までは居れるでしょ?」
即答された。
「だめよ。しょうがないでしょ、お父さんの仕事の都合なんだから。」
試合にはお父さんにもお母さんにも来て欲しかった。誕生日に買ってくれたグローブを使いたかった。見せたかった。
転校してから一度クラブの練習を見に行ったことがあった。でも練習を見てすぐに諦めた。クラスの中ですらまだ打ち解けられないでいたシュンには、仲良く楽しそうにしている所に今更入れる気はしなかった。
それでもグラブを使いたくて野球をしたくて、やっと見つけたボールが使える公園で壁当てを始めたのがお姉さんが声をかけてきたあの日だった。
次の日の帰り道。少し寝不足のボクとシュンはいつもより早く公園に向かっていた。
「どうしようもないんだよね。」
ボクが切り出す。
「工事の開始は来月からだって。封鎖はもう少し前から。」シュンが答える。
「なくなったらどうする?」
「中学生になって部活に入るまで待つ。」
それしかない。ボクだって分かってる。でも、
「嫌だ。」声が出てくる。
「シュンはいいのかよ。」
お姉さんが誘ってくれたあの日からボクたちの世界だけは確実に変わった。
「しょうがないだろ。」
シュンはいつの間に自分自身で呟いていた。
しかし、その言葉は想像した効果を生んではくれなかった。
「しょうがなくない。」
ボクもまた訳もわからず叫んでいた。
シュンの心に引っかかった言葉を否定する言葉。
「なくなっちゃ嫌なんだ。」
のどに詰まっていた事が溢れ出てきた。
頭を叩かれた気がして顔をあげる。目が合う。シュンが口を開いた
「まったく。」
しばし睨めっこをしておもわず笑う。
「作戦は?」シュンがいたずらっぽい笑みを浮かべて聞いてくる。
「もう決まってる。」ボクも笑顔で返す。やる気さえあれば作戦は昨日の夜に寝る間も惜しんで考えた。去年クラスの担任を受け持ってくれた作文ばかり書かせる苦手な先生へ。
―今日だけは感謝します―
夕方。公園の帰りにボクとシュンで話を切り出した。
「やってみたい事があるんだ。」




