俺と! くろの! 書き方講座7コーナー
俺と! くろの! 我思う故に底辺生活のコーナーがはじまるよー。
さあ、今宵も懲りずに始まった俺くろよろずコーナーですが今回のテーマは人称です。
さて、くろ様。小説の書き方講座と銘うつ以上、一人称、三人称の説明をしない訳にはいきません。
うむっ、よく他の書き方エッセイでも取り上げられているアレじゃな。
はい。ある程度書きなれてくれば自然と理解することなのですが、「さぁ明日から初めての俺だけに書ける物語を書くぜっ!」と言う方が予備知識として書き方講座なんぞを読むとぶつかる最初の不可解文字がこの『人称』でしょう。
そうじゃな、ネットで調べても大抵呼称の違い程度としか説明されておらんからな。あれは日常における呼称の区分説明であって、小説を書く上での『人称』の説明にはなっておらん。じゃから混乱するのじゃろう。
そうですね。一人称とは『僕』『俺』『私』『我』などの自分を示す呼び名とか、二人称は『君』『あなた』、三人称は『彼』『彼女』『みんな』などであるなんて書かれていますもんね。
そうじゃ。だからこれをそのまま小説に使えばいいのかと勘違いしたやつが、ちょっと失敗した作品を書いてしまうのじゃな。
ええ、もしくは「え~っ、一人称では『彼』や『彼女』という名称を使えないのかっ!」なんていう思い違いをしてしまいます。
そもそもこれは呼び方が駄目なのじゃ。ちゃんと最後まで書かないから混乱するのじゃ。
というと?
『一人称視点』『三人称視点』というように視点という文字を省くから他の言葉と混同されあやふやになってゆくのじゃ。
あーっ、確かに言葉を省くとそんな弊害も起こりますね。夫婦間の会話なんかそれで心のすれ違いが起きて離婚騒動まで発展したりします。
その例えはどうかと思うが、まぁそんな感じじゃ。
では、『一人称視点』と『三人称視点』ではざっくり具体的にはどう違うのですか?
んーっ、例えるなら『一人称視点』は日記である。『書き手』=『読み手』という関係じゃな。
書き手と読み手が一緒なんですか?それっておかしくないですか?
いや、全然おかしくないぞよ。まずは書き手が自分の視点で書くのが日記じゃ。当然じゃな、なんせ日記なんじゃから。この場合、書き手は主人公である。通常の日記では書き手の日常や思ったことを書き連ねる。でもそれはリアルでの話しじゃ。創作ではそこを物語のキャラクター、つまり主人公に置き換える。まっ、なりきるのじゃな。
成程、書き手は主人公目線で物語を書き進めるのが『一人称視点』なのですね。でもこれって物語全体を語るには片手間落ちな方法ではないのですか?主人公が体験した事しか書けなくなりますよね?主人公とは全く接点のない場所で起こった事を書くことが出来なくなっちゃいます。
そうじゃ、アパートの隣の部屋で殺人事件が起こっていようと主人公が知らなければ書けぬ。なんせ知らぬのじゃからな。日記にもあの子は僕の事をどう思っているのだろうとは書けても、あの子が実際、どう思っているかは書けぬ。書いたとしたらそれはただの予想じゃ。
そうですね、個人の日記ならそれでもいいですけど、小説としては物語全体を説明するのに方法がなくなっちやいます。
これは最初に物語全体をプロットしているとますます書きづらくなる。あれも書きたい、あれも書かなくちゃ説明できんとなって破綻するのじゃ。ここが『一人称視点』は難しいと言われる所以じゃな。
成程、物語の流れを書くのが難しいのではなくて、物語を構成するのが難しいのですね。
うむっ、まっ、中にはそんな事を気にせずともよいジャンルも多々ある。このエッセイなどもその典型であるな。外部要因がないから我の視点だけで十分じゃ。逆に『三人称視点』で書けと言われたら困ってしまうぞよ。
くろ様、エッセイって結局書き手の主張ですから外部要因を語る必要がありません。というか、外部要因が必要なエッセイってもはやエッセイじゃないですよ。
じゃろ?しかし、物語を書こうと思ったらそうも言っておられん。『一人称視点』の良いところは書き手 (主人公)と読み手の一体感じゃ。読み手は主人公の気持ちが丸判りになるからな。人の日記を読みたくなるのは、書いた者の秘密を知りえるだけではなく感情を読み解けるからじゃ。ああっ、あの子はこんな事を思っていたのかと知ることが出来る。そこに書き手 (主人公)と読み手の共感が生まれれば読み手は物語の中に入ってゆけるのじゃ。
成程、確かに人の心が読めたりしたら超能力者ですものね。そうゆう設定ならともかく、相手の感情を推し量るのではなく読めてしまっては読み手としては違和感があるかも知れません。
そうじゃ、自分だけが読む物語ならそこら辺は既に自分の中で整理してあるので気付かないが、人様が書いた物語では読み手はそこまで情報を持ち合わせていない。何も考えなくてよいような作品なら読み飛ばせるが、そうでない場合、読み手は躓いてしまう。話の流れの前後に一貫性がないと混乱してしまうのじゃ。確かに判るはずのない事を何故か説明して貰えれば読み手はストレスなく読めるじゃろう。じゃが読み手がその不備に気付いてしまうと物語とは別の疑問が浮かんでしまう。つまり、書き手 (主人公)と読み手の一体感がずれてしまうのじゃな。これでは一体感を是とする『一人称視点』の意味がなくなってしまう。
確かに。そうなるとやっぱり『一人称視点』は難しいのですね。
まっ、それもケースバイケースじゃ。難しくはあるが方法は幾らでもある。要は読み手が違和感を覚えなければよいだけじゃからな。主人公が知りえぬ事を語りたければ、知るように仕向ければよい。先の他人の日記のような形で情報を与えてもよいし、誰か別の者に語らせても良い。それを主人公が聞いた事にすれば読者も違和感なくその情報を受け入れられる。
成程、結局は情報を如何にして読者に伝えるかなのですね。
そうじゃ。しかし、『一人称視点』における最大のメリットは主人公の感情描写にある。主人公の感情と物語全体の流れを計りに掛けどちらに重きを置くかが『人称視点』の使い分けのポイントである。
そうですか、でも何でみなさんそんなに『人称視点』で悩むんですかね?
あーっ、それはアレじゃ。今まで読んできた物語が大きく影響するのじゃ。結局物語を書くと言う事は今まで読んできた物語を参考にするからな。その物語が『一人称視点』で書かれていればその技法が頭に染みこんでおる。故に表現の違う『三人称視点』に戸惑うのじゃ。逆もまたしかりである。
ほうっ、つまり読書家であればあるほど、躓いた時のショックが大きいと?
そうじゃ、何も考えておらぬ者は躓きようがない。まぁ、だからすごい書き方をしてしまうのじゃが、アレじゃって読み手が読み解ければ構わぬ書き方じゃろう。要は読み手の技量次第というものじゃ。
う~んっ、自分が慣れ親しんできた環境以外に飛び込むのって大変なんですね。
そうじゃ、じゃがそれを躊躇っていては前には進めぬ。今は選択肢が腐るほどあるから気にならないじゃろうが、いつか二者選択を迫られた時、どちらにも対応できる心構えとスキルを持つ事は生きる上でとても有利なファクターとなる。じゃからみなも好き嫌いをせず色々試してみなければならぬ。試した上で理解し距離を置くならそれでよし。じゃが自分の主張だけを相手に押し付けてはそこに未来はないと思うが良い。
大丈夫ですよ、くろ様。ここの読者さまたちってそこまで真摯に作品と向き合っていませんから。全ての作品は雑誌のように読み捨てられるのです。所詮は一時の娯楽ですから。
それもなんじゃかのぉ。
-お後がよろしいようで。-




