いただきますと二人で言うために
美味しいが、わからない。
由貴の言葉に紗江はちょっぴりの絶望と切ないくらいの悲しみを覚えた。
恋人に振られて一カ月、憂鬱と悲しみのなかで必死に明るく生きようと紗江はもがいていた。
落ち込んでいる時間がもったいない。なんとか素敵な人間になろうと元気に、前向きにしようとした。じゃないとだめだとすら思っていた。
そのたびにどうして振られたのか、別れてしまったのかと絶望が押し寄せては泣きそうになって、私生活も仕事も乱れに乱れた。こんなにもメンタルが弱いとははじめて知った。
由貴は恋人とよく立ち寄ったレズバーで知り合った。以前から何度か顔を会わせてしゃべっていたが、紗江が一人だと知ると向こうから寄ってきた。
黒縁眼鏡に、ショートカット。落ち着いたスーツ姿の見た目からしてちょっと堅物。言葉は最低限で、クール。冷たいと、前の恋人は口にしていた。けれど、パソコン関係の仕事で私服は派手、わりと持ち物や化粧も紗江にはかっこよく見えた。
はっきり言おう。
人恋しさには勝てない。
何度か話して、いい子だと思った。引っ張っていってほしいなとも。以前の恋人とは真逆の人を好きになろう、自分も変わろうと決めていた。だから付き合ってほしいと口にして、少しだけ悩んだ顔をしたあと、いいよ、と言われて、ほっとした。
メールで言葉を交わすやりとりのあと、デートも数回をこなした。
家に招いて、御泊りをするという段階で、こんなことを言われた。
「私、好き嫌いはないけど、これと言って好きなものもないんだよね」
「いいことじゃない?」
「ならいいけど。おいしいもわからないの。食べ物ってとりあえず食べれればいいんだよね」
「う、うん?」
雲行きが怪しくなってきた。
「つまり、食事ってエネルギー補充以外の何物でもないの。正直……めんどくさい」
なんだろう、この、ものすごくいやな予感しかしない言葉は。
今日は、はじめての御泊りデートだから気合いをいれた。朝早くに起きて部屋の掃除をして、必要そうなものを前の日に買い出しにも行った。
仕事終りをルンルンとした気持ちで待っていた。駅での待ち合わせもやっぱりルンルンとした気持ちだった。
ちなみに本日の夕飯は紗江の得意料理であるハンバーグ。
おいしい、の一言が聞きたくて作った。
テーブルを囲んで二人で食べる。
今日のためにわざわざ買った花と花瓶が二人の間でいい匂いをさせている。
「どう?」
紗江はつい勢い込んで聞いてしまう。
「ふつー」
口をもぐもぐと動かして、そんなあっさりとした回答。
あ、はい。
としか返事のしようがない。
ふつーってなんだ。ふつーって! ここは嘘でもおいしい、はじめて美味いと思ったとか――あ、ちょっと嘘くさいや。いやいや、けど、せめて作ってくれて嬉しいとか解答はないのか。おい!
そんな気持ちでいるとすぐに食事は終わってしまった。
由貴がおもむろに鞄から何か取り出したのに、どきりとした。もしかして、プレゼントかと身構えたけども
その手にあるのはゲーム機!
「えーと、それは」
「狩りに出かける」
「はぁ! なんで! ちょ、ひどい。デート中だよ!」
「ひどくない。友人とは一週間前から約束してたの。御泊りデートは三日前の約束。だったら先にした約束を優先する」
「オタク」
「……悪い?」
じと目で睨まれると
「悪く、ないです」
としか言い返せない。
はぁとため息をついて夕飯の後片付けをしてテレビを見ていると、不意に横にぬくもりがやってきた。ゲーム機を両手に持って、目も画面に向かっているのに由貴は紗江の横に腰かけて全体重をかけてくる。
甘えているその態度に嬉しくて、そっと頭を撫でてみた。いやがる素振りがないことがやっぱり嬉しい。
「さえ」
「ん?」
とっても嬉しい気分に浸ってる。
「うざい」
前言撤回。
「……ひどくない?」
無視された。ただぴこぴことボタンを押す音とテレビの音が混じって部屋に響く。悲しい。そっとソファに体を預けてふてくされる。
「よし、クリアー。お風呂入るね」
「はいはい」
私はふてくされるのに忙しいです。ほっといてください。
「一緒に入ろう」
「……入る!」
「やっぱり、やめようか」
「入ろう。すぐに入ろう。はやく入ろう。気持ちが萎えても入ろう!」
紗江は恋人をひきずりながらすたすたとお風呂場に歩く。せめて、これくらいはね!
お風呂には入った。けど、それ以上、恋人らしいことは一切していない。悲しいもやもやが胸にあるが、それでも我慢した。
朝、薄らとした闇に包まれた室内で目覚めたとき横にあるぬくもりにほのかな喜びに満たされた。首だけ動かして相手の寝顔を見れないかなぁと目を凝らす。だんだんと慣れた目にすやすやと間抜け面で眠る恋人の顔が認識されると、自然と唇が緩む。
起こさないように注意してそっとベッドを抜け出し、寒さに震えながら顔を洗い、そのあとキッチンに向かい、腕まくりをした。
よーし、やりますか。
心のなかで気合いをこめて、いざ、勝負。
「おはよう」
寝ぼけた声に振り返ると、まだ眠っていたかったと語る顔で由貴が立っていた。のろのろとしたナメクジよりも鈍い動きで洗面台に向かい、数分して、やっぱり眠っていたいという顔で戻ってきた。
「おはよう」
近づいて顔を覗きこむが、反応はない。まだ意識が夢の中を彷徨っているらしい。これはいい。
そっと顔を寄せてキスしようとして
「うざい」
頭を叩かれた。
「痛いんだけど」
「痛くしてる、当たり前でしょ……コーヒー」
「はいはい。ほら、座って、ごはんあるよ」
「ごはん?」
由貴は怪訝な顔をして問いかけてくるのに、胸を張ってテーブルの上を手で示す。それを見た由貴はますます顔を険しくさせた。
「なに、これ」
「朝ごはんだよ。朝ごはん!」
勢い込んで言うと、ふぅんとつまらなさそうな声が返ってきたのに、一瞬、焦る。なにかしてしまっただろうかと思えて、はらはらする。
「た、たべよう」
「うん」
由貴が素直に椅子に腰かけるのにほっとした。
コーヒーとフレンチトースト。
今日のために朝の定番メニューを調べたのだ。
コーヒーはインスタントだが、フレンチトーストはこの日のためにネットでレシピを調べて、何度も練習した。
もうフレンチトーストはしばらく食べたくない、と思うくらいにがんばった自信作を由貴がむしゃむしゃと食べる。
顔はいつもと変わらない。むしろ、眠たげで不機嫌にすら見える。
「ど、どう?」
はじめての御泊り。
気合いを入れに入れた。前の恋人のときは、紗江は子どもみたいに甘えていた。愚痴を言い、悪態をついて、ひっかいて、それでも好きでいてくれると信じていたのだ。だから別れることになったとき、わかったのだ。自分は空っぽだ、と。
だって、何もできない。料理も、裁縫も。ただただ甘えん坊でいた。ろくでなしの私。
だから今回は変わる。絶対にいい女になる。相手を捕まえられるほどに。
「ふつー」
由貴の返事に思わず顔が歪んだ。
ふつーって、なんだ。ふつーって。
おいしいとか、まずいとかものには言いようがあるだろう。
「それって、どういう意味」
「だから、ふつー。食べられなくはない」
「まずい?」
「ううん。そんなことはない、けど、ふつー」
なんだかものすごく悲しい。努力しても、なんの反応もないことにひどく苛立つし、いろんなものが深い穴に叩き付けてしまうような落胆を覚える。
「もっと、言いようがないの?」
「言ってもいいの?」
「……いいよ」
挑むように言い返すと、はぁと由貴はため息をついた。
「無理し過ぎ」
「へ」
「だから、無理し過ぎてるでしょ」
破滅の音がする。
だめだ、もう。
無理。
頭のなかを駆け巡る爽快な怒りに目を閉じて、息を吐く。どこの馬鹿だ。怒りは二十秒したら収まると言ったのは。収まらないぜ。クソボケ。
次に目を開けると、どすどすと大股で玄関に向かった。靴を履いて外に出る。冷たい空気が肌に痛いが部屋に戻りたくない。
ぼけ、くそ、ばか、まぬけ。幼稚な怒りの言葉を吐き捨てながらとまらない体。大股で歩いていたのが速足になり、走り出す。どこに行こう。どこにも行けない。涙が出てきた。くそ、くそ。声をあげて泣きたい。けど、できない。
結局、マンションから十分ほどの距離にあるごみ捨て場に立ち止まり、声をあげて泣いた。悲しいのか、怒りなのか。もうわからない。ただいやだった。もう、いやだ。くそー。怒りを握りしめて空を仰ぎ見ると、涙が溢れた。
理想が遠すぎる。
「どこ行くの」
声に振り返ると焦った顔の由貴がいた。
「ごはんはどうするの」
「……」
口を利きたくないが、どうせ戻らなくちゃいけないことはわかってる。けど。
「私ね、紗江の、そういう、恋に恋してる姿、嫌い。私に恋してるんじゃなくて、恋していることに恋してるでしょ」
「否定は、しない」
「だったら、はやく私に恋してよ」
呆れた言い方をして、由貴は手を伸ばした。
「前の恋人のとき、めっちゃ甘えん坊だったのに、私のときは掌返したように、がんばるの。なんっーか、前のことひきずっているのわかってやだ」
「ごめん」
「うん。じゃあ、ごはん、食べよう」
「食べて、くれるの?」
「うん」
「……帰る」
手をとって、ゆっくりと一歩進む。
「もう」
ため息とともに肩を抱かれた紗江は泣きながら、ちらりと由貴を見た。
「がんばりすぎ。そんなのだと、いつか倒れるよ。恋人ってか、ずっと一緒にいるのなら無理しすぎないで、自然体でいいんじゃないの? 付き合ってそれでだめなら別れる、いいなら一緒にいる、それでいいんじゃないのかな。だから無理し過ぎ」
「……由貴は、言葉が足りないね」
「そうかな」
「そうだよ」
透明な、空気みたいに、じんわりと染みこんできた、不器用な、けれど必死な言葉。
もっと彼女はクールだと思っていた。けど、歳相応の我儘と、物知らずと、不器用さがあるのだとわかって、紗江はほっとした。
恋は難しい。
好きで、好きで。
けれど、それだけじゃなくて。足りないものがいっぱいあって、それを補うのか、諦めるのか、笑うのか。
それはまだ決められない。
戻ってきた部屋のテーブルにはちゃんと朝ご飯がある。無理し過ぎ、と言われたがこういうささやかな努力が嫌いじゃない。それを伝えたいなと思いながら向かい合う。二人で手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
ただ、いまは、この一言だけを、二人で言える奇跡を大切にしようと、決めた。