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──いつの間にか私は降り注ぐ拍手の音の中にいた。
驚いて振り返ると、みんなが私を見て微笑んでいた。お母さん、希、佐々木さんに竹本さん、宮下もいた。本当に嬉しそうな顔で、惜しみない拍手を私に送ってくれていた。
「咲、おめでとう。よく頑張ったわね」
お母さんが祝福の言葉を述べる。目をぱちくりさせている私に呆れたみたいに、希が苦笑いする。
「なにボーっとしてるの、お姉ちゃん。大学、受かったんだよ。合格おめでとう!」
希の言葉に呼応するかのように、また拍手の音が巻き起こる。
……ああ、そっか。私、無事に志望校に合格したんだった。頑張ったかいがあったんだな。胸の中に暖かい気持ちが広がっていく。
どんどん大きくなる拍手の音に、世界全体が包まれていく。みんなは口々に祝福の言葉を口にしていたけれど、もう何も聞こえなかった。
春の日の眩しい太陽に、私は目を細めた。希が私に向かって手招きしている。私はこれ以上ないくらいに幸せな気持ちで一歩を踏み出して──
──拍手の音だと思ったのは、傘に当たる雨粒の音だった。
振り返ってみると私は川原の道を傘をさしながら歩いていた。強く降りこんだ雨が、私の肩を濡らす。不意に、冬の冷たい風が吹いてきて、私は身を縮ませた。着ていたコートの前を合わせる。
……そうだった。今は冬で、明日は受験本番だ。頑張らないと。
ふと、どこかから声が聞こえたような気がした。辺りを見回してみると、川原で女の子が溺れている。
「……たすけてっ!」
その声に私は咄嗟に駆け出した。何かを忘れている気がしたけれど、何としてでも助けなければいけないと、そんな風に思っていた。
川の流れに踏み入って、女の子に声を掛ける。
……もう少しで届きそう。私は必死で手を伸ばす。
そして、ついに触れたその手を私は力いっぱい掴むと、女の子の身体ごと包み込むように抱き寄せる──
──私の腕の中に居たのは女の子ではなくて子猫だった。
すやすやと寝息を立てる子猫を、私は優しく抱きとめていた。
「お姉ちゃん」
隣に居た希が心配そうに私を覗き込んでいた。
……そうだった。拾ってきた子猫を飼いたいとお母さんに言ってはみたけれど、やっぱり予想通り断られたのだった。
「お姉ちゃん、わたし、やっぱりこの子、捨てたくないよ……」
希は泣きそうな声をしながら、私の袖をそっと掴んだ。その感触に、なんだかたまらない気持ちになって、私は咄嗟に言った。
「じゃあ、私たちだけで内緒で飼っちゃおうか。それに、後でもう一度お母さんに頼んでみよ?」
「ホントっ!?」
私の言葉に、希はパッと笑顔の花を咲かせた。その笑顔を見ているだけで、私も嬉しい気持ちになる。
「ねえねえお姉ちゃん、この子、オス、メスどっちかな?」
「えっと、……うん、女の子みたい」
希はさらに満開の笑顔になった。
「じゃあ私たちの妹だね、この子」
私も笑う。そうだね。この子はもう私たちの家族なんだ。それはちょっとくすぐったくて、でもやっぱりどこか温かい。
と、それまで穏やかな寝息を立てていた子猫が、私たちの笑い声に目を覚ました。
器用に身をよじって腕の中から抜け出すと、ぴょんと跳ねて駆け出していく。私は慌ててその後を追いかけようとして、足を縺れさせて転んでしまった。頭上から希の声が聞こえる。
「お、お姉ちゃん、大丈夫っ?」
「……てて、大丈夫大丈夫ー」
そう答えて、私は地面に手をついた。立ち上がろうとグッと腕に力をこめて──
──気が付くと私は真っ暗闇の中にいた。
驚いて辺りを見回そうとして気がつく。身体が自由に動かせない。それどころか手足が暗闇に溶け出してしまったみたいに、感覚が無くなっていた。落ちているような気もするし、どこまでも浮かんでいくようにも思えた。何もない空間に私はただ漂っていた。
……あれ? 今まで、どうしていたんだろう?
体育館を飛び出して、希を助けにいって、それで……ああそっか、洪水に流されて溺れたんだったっけ。さっきまで川の中にいたはずなのに、川に流されているような感覚も息苦しさも、もう感じなかった。
ここはどこだろう。もしかして、死後の世界とかそういうものかな。
思い出した様に、唐突に周りの風景が真っ青な水の中に変わる。今はもう深夜のはずなのに、周りの景色は光に溢れて明るかった。
水の流れはクルクルと渦巻いて、私を取り囲む。その幻想的な光景に私は思わず見とれた。
急に息が出来なくなって、私は必死で水をかいてみる。けれど、どれだけ手を動かしても、渦は私にまとわりついて離れなかった。
そういえば、水の中に浮かんでいる時というのは、人間にとって安らぐ時間らしい。そんなことをふと思い出した。それは母親の胎内にいた時の記憶を呼び覚ますからなんだと言われている。
でもそれって本当?
だって今の私は、こんなにも苦しんでいる。現在進行形で水の中にいて、それでも、全然安らいでなんていない。
でもよく考えたら、私は浮かんでるんじゃ無くて沈んでいってるんだから、苦しいのは当たり前なのかな。
不思議な気分だった。
水中で溺れて苦しんでいる私と、それを見下ろすように冷静に眺めている私が、同時に存在していた。
これが臨死体験ってやつ? いや、ここが死後の世界なら、既死体験か。
だったらさしずめ、この川は三途の川だ。
三途の川は渡りきってしまうと死ぬなんていうけど、溺れて渡れなかった場合はどうなるんだろう。
どうせ臨死体験をするなら、もうちょっと楽しい風景を見せてくれたら良いのに。
まったく、三途の川で溺れるなんて多分私くらいなものよね。
ホントに間抜けすぎて、それが私らしくて、泣けてくる。
私の身体はそのまま水底へ沈んでいく。私の意識も一緒になって落ちていって、やがて再び闇の底へと消えていった。




