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満身創痍になりながらも、なんとか川原までたどり着いた。
激しい雨に打たれ続けて体が重い。息が上がって喉も心臓も焼け付くように痛んだけれど、それでも足だけはずっと止めることができなかった。
希が猫を飼っているところが川原のどの辺りか分からなかったので、私は川沿いに土手を走った。きっと、希はそこにいる。
川はもうすっかり水位を増していて、普段から見慣れている景色のはずなのに、今日だけはいつもと全然様子が違って見えた。
顔にかかる雨をぬぐいながら、濁流へと目を凝らした。けれどすぐに視界は雨に滲む。
体力が尽きかけると、気力もあっという間に失われる。気がつくと立ち止まりそうになる足を、そのたびに私は気力だけでなんとか前に動かし続けた。けれどその間隔も、徐々に短くなっていく。
……もう、ダメかもしれない。
諦めて、膝に手をついてしまいそうになったそのとき。
ふと、どこかから、声が聞こえたような気がした。
雨音にかき消されそうな微かな声に、私は耳を澄ませた。どんなに小さな声でも間違えるはずは無い。それは、間違いなく希の声だった。
私はふらふらと、その声に導かれるように歩く。
程なく、滲む視界の中に、希は見つかった。
やっぱり思った通り、希は猫の様子を見にきていたみたいだ。
希は荒れ狂う濁流の中、辛うじて流されずにいる折れた木に捕まって、猫を抱えながら大声で助けを呼んでいた。
そして、その頭の上には、死亡フラグ。
ある程度予想はしていたけれど、その光景にはどうしても動揺せざるを得なかった。
今にも川の流れに飲み込まれてしまいそうな、希のその姿を見て、私ははたと気づく。
これがフラグによるものなのだとしたら、それはなんて悪趣味な運命なのだろう。奇しくもそこは、あの事件があったところと同じ場所だった。
私の人生を劇的に変えた、三年前の事件。
私の脳裏に、あの日の忌まわしい記憶が蘇ってきた。降りしきる雨、増水した川、溺れている女の子。水、息が詰まる。身体を包み込む、冷たい暗闇。
……私の頭の上の死亡フラグ。
私はもう判っていた。これが、フラグの結果なんだろう。
私は今日、ここで死ぬ。
気がつくと、身体が止めようもなく震えていた。
雨に濡れたせいか身体は冷え切っていて、寒気が止まらなかった。それなのに何故か身体中から汗が吹き出て、それが余計に私を凍えさせた。膝ががくがく震えて、その場にへたり込んでしまいそうになるのを必死に押しとどめる。
心臓が壊れたんじゃないかと思うくらい激しく鼓動を打っていた。視界がグルグル回って、上手く焦点が定まらない。ちゃんと地面に立っていられているのか、そんなことももう判らなかった。
世界から音が、色が、消えていく。
モノクロの世界の中で、溺れている希の姿だけが鮮やかに映った。
その姿にあの日の女の子が重なる。その残像が、今まさに波に飲まれ川底に飲み込まれようとしていた。
瞬間、私は唐突に理解した。
これは、分岐点だ。
目の前には枝分かれした二本の道。
後ろを振り返ると、私がこれまで歩んできた記録。これまでだって何度もあった、私が選んできた道のりと、選ばれなかったたくさんの選択肢たち。
もしあの日、女の子を助けなかったら……。
きっと私は望み通りに志望校に合格して、毎日勉強する。今よりもレベルの高い授業を受けていて、きっと偏差値もずっと高いはず。
でもそこには宮下も、竹本さんや佐々木さんもいない。
そんな、今まで何度も何度も考えた、あり得たかもしれない現在。
……今ここで希を助けたら、私は死ぬ。
根拠は無いけれど、それだけは信じないわけにはいかない。
それはつまり逆に、もしも希を助けなければ、きっと私は生きていられるということ。
今まで通り勉強をして、良い大学に入って、一流企業に就職する。そうして家族に恩返しをする。ずっと抱いてきた、私の目標。
けれどその家族の中に、希の姿は無い。
そんな、この先あり得るかもしれない、未来。
だからって私にはその選択肢を選ぶ事なんて、絶対に出来やしないんだ。だってこの分岐点にはもうとっくの昔にフラグが立ってしまっている。
……ううん、そうじゃない。もしもフラグなんてものが無くたって、私が希を、大好きな家族を助けないわけが無いじゃない!
幻覚の中の女の子が、波に飲まれて見えなくなったその時、すくんで動けないでいる私の耳に希の叫び声が飛び込んできた。
「……けてっ! 助けて! 誰かっ!!」
私は弾かれたように、希のもとに駆け寄る。水の流れに逆らいながら、無我夢中でつき進む。
さっきまでの幻想を振り払うように、私は必死で叫んだ。
「希っ、のぞみいっ!!」
その声に、希が私に気づく。
「お姉ちゃん!? お姉ちゃん、助けてぇ!」
「今……、行くから! そこで、待ってなさい!!」
私は希に必死で呼びかけながら川の中を進む。水音にかき消されないように大声を張り上げながら、一歩ずつ希に近づいていく。
叫び続けているせいで、息が上がって苦しかった。それでも、こうして声を上げていなければ不安で足が止まってしまいそうだった。
荒れ狂う嵐の中、このわずかな言葉だけが私と希を繋いでいるんだと思った。
「お姉ちゃん! 先に、この子をっ!」
希はそう言って、その手の中で震えている子猫をこちらに渡そうとした。
その時、希の頭の上が光り始めた。フラグが成長しようとしているのが分かって、私は慌てて叫ぶ。
「ダメよ! あんたも一緒に来るの。必ず、必ず二人とも助けるからっ!」
私の必死の剣幕に希が手を引っ込める。するとそれが切っ掛けだったのか、電池が切れたみたいにフラグの光が消える。
それを見て、私はさらに歩みを進める。流れに負けないように、川底を強く踏みしめながら、少しずつ少しずつ。
不意に目の前が滲む。目に雨水が入ったかと思ったけれど、どれだけ拭っても視界が晴れる事は無かった。
雨や川の水だけじゃなかった。どうしてだろうか、気が付くと私は涙を流していた。
恐怖と勇気と不安と覚悟と、そんな言葉にならない沢山の感情が、目からあふれ出してきて頬を伝っていく。
希も同じだった。くしゃくしゃの顔でこちらを見つめながら、絞り出すように嗚咽をあげながら言う。
「お姉ちゃん、ありがとう……。いつも、いつも私を助けてくれて、ありがとう……。それから、今までごめんなさい。我儘ばっかり言って、お姉ちゃんを……困らせてっ、ばっかりで!」
その希の言葉に同調するように、フラグが再び激しく光った。
私は返事をすることが出来なかった。返事をしてはいけない気がしたし、口を開いてもきっとまともな言葉になんてならなかっただろう。
何も言わないまま、一歩また一歩、私と希の距離が近づいていく。
もう私の目は涙で滲むばかりで、何も見えていなかった。希の声だけを頼りに、手探りで希の感触を探した。
そして、ついに希に手が届いたその時、希のフラグはもう光を失っていた。
「希っ……、のぞみいっ!!」
「お、お姉ちゃん、お姉ちゃぁん!」
私は希を、その腕の中の猫も一緒に強く抱き寄せる。
私達は涙を流しながら、川の中で抱きしめあった。凍えるような寒さの中で、腕の中の体温だけがただ一つ確かなものだった。私はそれを、とても心強く感じていた。
ようやく捕まえた。すれ違ってばかりだった大切な物。もう二度と、決してこの手を離さないと、私は心の中でそう誓った。
「希、さぁ帰ろう。お母さんの所に、一緒に!」
「うん……、うんっ!!」
私達は固く手を繋ぎながら、もと来た道を、また慎重に戻る。
私たちの間に言葉は無かったけれど、不安はもう無くなっていた。何も言わなくても不思議と心が繋がっている事を確信できた。
帰ろう。お母さんの所に。私たちの家に。
そうして、仲直りをしよう。
それから、昔みたいにたくさん話をするんだ。これまで言えなかったことも、全部全部。
もう少しで岸にたどり着く。私がそう思った時、さっきよりも随分落ち着いた声で、希が言った。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「今までごめんね、意地張って」
「……もういいわよ」
「家に帰れたらさ、いっぱい話しようね。話したいことがたくさんあるんだ」
希も私と同じ気持ちでいたことが嬉しかった。胸の中に温かい感情が広がって、自然と口元が綻ぶ。
私が返事をしようとした、そのときだった。
それまで大人しかった猫が、希の腕の中で急に暴れだした。器用に腕からすり抜けた猫は、そのままジャンプすると、すまし顔で岸に降り立つ。
希が慌てて子猫を捕まえようと追いかけた。その拍子に、私たちを繋いでいた手が解けた。
その瞬間、希の頭の上でまたフラグが光った。今までに無いほどに強く。
その、辺りが一瞬で明るくなるくらいの激しい閃光に、私は驚いて周りを見回す。
上流から、一際大きな濁流が塊になってこちらに向かって来ているのが見えた。希も私の視線を追って、息を呑む。
希は慌てて岸に上がろうとしたけれど、それが間に合わないということが、私にはもう判っていた。
このフラグは、きっとそういうことなんだろう。三年前のあの日から、こうなることは決まっていたのかもしれない。安心した瞬間に裏切られる。ああ本当に、意地が悪い。
死がはっきりとした形をもって目前に迫ってきていた。
時間が急にゆっくりになって、ついに世界が動きを止めた。
極限の状況では時間が遅く感じるっていうけど、もしかしたらこれがそうなのかな。なんて、こんな時にも冷静な気持ちで居る自分に、我ながら驚いた。
きっと、家族のために生きるって誓ったあの日から、覚悟なんてもうとっくの昔に出来ていたんだね。
希だけはなんとしてでも、無事に家に帰すんだ。私はそう決意する。
そのためなら、私がどうなったとしても構うものか。
今の私に出来ること。希の死亡フラグを折るための方法。
たった一つだけ、それだけしか思いつかなかった。
希が私に向かって何かを叫んでいたみたいだ。けれど、なんて言っているかなんて、もう全然聞こえなかった。
大好きよ、希。私は微笑む。
ねえ、希、お姉ちゃんの顔、ちゃんと笑えてる?
「希、今まで、ごめんね」
ゆっくりと、言い聞かせるように希に語りかける。
希の表情が困惑の色に染まっていく。
「私の分まで、希は幸せになって」
希のフラグの光が段々弱くなっていく。
「こんなお姉ちゃんで、ごめんね」
頭の上の死亡フラグ。その文字が、徐々に薄くなっていく。
「お母さんと、それからお父さんにも、ごめんなさいって伝えてね」
希が何か言っている。
ごめんね、そんな泣きそうな顔で言われても、何言ってるのか分かんないよ。
「ねぇ……、希。大好きよ。ずっとずっと」
希が私の腕を掴んで岸の方へと引っ張ろうとする。私はその手を優しく握り返す。
「本当に、希、ありがとう!」
そう言うと同時に、私は渾身の力で希の身体を思い切り突き飛ばした。濁流はもう、すぐそこまで迫ってきていた。
驚いた顔のまま、希が私からゆっくりと離れていく。それにつれて世界が元通りの速度を取り戻していった。
辺りが眩い光に包まれる。
希の輪郭がその光の中に溶けるようにして、私から遠ざかっていった。
目が眩むほどの輝きの中で、私が最後に見たものは、『死亡』から『生存』に書き換わった、希のフラグだった。




