彼岸
砂利に足をとられながら、女は静かにやってきた。泣き腫らした目元には殴打の跡がある。船頭は立ち上がり、吸いかけの煙草を投げ捨てた。
「どちらまでいきやしょう」
「彼岸まで……」
女は町の方を振り返り、さよならと呟いた。
深い霧の下、川は時が止まったようだった。濁った水面に小舟が一つ、線をつつうと引いていく。
赤ら顔の船頭が櫓を漕いでは、へへと笑った。
「水が味噌汁みてえな色をしてやがる。先週の嵐は大変でやしたね。橋が流れっちまって、誰も彼も往生しなさったようで」
絹手袋をした洋装の女はへりに肘をつき、そっぽを向いていた。二の腕が出た服は慣れていないらしく終始そこを撫でていた。
この世の者とも思えぬ青紫に近い顔色は、萎れた菫を思わせた。しかし船頭とは対照的に整った身なりである。
「まァ、おかげでお客さんみたいにお美しい人まで乗せられるんですがね」
媚びも世辞も口を開かせはしない。船頭は女のうなじやスカートから覗く足首に粘ついた視線を送り、浅い川底を突く。
と、前方から水音が響いた。何か暴れているようである。二人は怪訝な顔つきになった。舟の進むにつれ音が大きくなっていく。
船頭は手を止めた。目を細め舌打ちする。
「なにも見えんな。お客さん、ちょいと見てくだせえな」
女は渋々了承し、四ツ這いで舟先へ行った。尻を見られているように感じるが黙っていた。
視界には一面に立ち込めた濃霧しかない。若干の不機嫌を胸に蓄えながら振りむいた。
「先には何も――」
船頭が目を見開いた。女の背後に男が現れたのである。水面から上半身だけヌトッと佇んでいた。長い髪が海藻のように着流しに絡みついていた。
男はこちらに気付くや無理矢理小舟に乗り込んだ。大きく揺れた。
「引き返せ」
男は荒く息をして命令した。女と船頭は目を見合わせた。
「早く!」
怒鳴り散らす。
「こっちゃ商売なんでさ、ワケを言ってくれねえと」
船頭は手を止めない。男は苛々した様子で、早口にまくし立てた。
「バケモンが出たんだ。みんな殺されて、俺だけ逃げた。このまま行くとお前らも殺されるぞ」
船頭は苦笑いをしていたが、よくよく男の服を見て黙った。男の服は赤く染まっていたのである。
「それ、お前さんの血か」
船頭の言に、女は血まみれの男からそれとなく離れた。
「俺の血じゃない」
舟の上は静まりかえった。男は慌てて手を振る。
「皆の血だ。そりゃひどい有様だったからな。早くしろ! もう来てるかもしれない……」
男はどこからか包丁を取り出し、船頭に向けた。二人は息を呑む。舟上は息苦しいほどに張り詰めている。
「わかりやした」
船頭は舟を転回させ、静かに戻り始めた。女は怯えた様子で船頭の傍に寄る。
男は二人とは逆の縁に座り、軽く包丁を振り回す。
「あんたらはおれを頭がおかしくなった奴とでも思ってんだろう。なァ」
二人は答えない。怯えきった女は包丁が自分の方へ向くたび、びくんと反応した。
「陸軍の奴があそこに新兵器のバケモンを放しやがったんだ。それで、前もって先週の嵐に乗じて橋を壊した。皆が逃げられないようにして、威力を計るために」
男は濁った川を見て、ひたすらぶつぶつ何かの名を呟いていた。
「くそ、痒い」
突如、黄色く張ったにきびを掻きむしる。一通り顔にできたものを潰してしまうと、今度は立ち上がり上をはだけた。背中を掻く。爪は血が詰まり赤く染まる。
「あ」
それは偶然だった。障害物を避けようと舟が転回し、その拍子に男は重心を崩して川に落ちた。ここは先程と違い大人も足のつかぬ場所である。
女は身を乗り出し、船縁から手を伸ばす。不意のことに男は慌ててしまい、うまく取れない。二度、三度かすり、四度目でようやく手を繋ぐことができた。
ほっと息を吐いた瞬間、男の頭が割れた。櫓が振り下ろされた。続いて二撃、三撃と男の顔はもはや判別ができなくなるほど変形した。女の顔に血かよくわからぬ液体が飛ぶ。怖くなり手を離すと、泥川に半分埋もれたまま力無く流れていった。
真っ赤な顔の船頭は舟にへたりこんだ。
「これで安心ですよ……」
女は小さくなっていく死体を眺めていた。その様子を見て急に不安になったのか、船頭は念を押した。
「今のは、奴が悪い。そうでしょう? バケモンなんているわけねえでしょうが。ねえ!」
いくら縋り付かれても、何とも言えなかった。小舟は揺れる。
「あんたが黙ってさえいてくれれば――この霧だ、誰にもわかりゃしねえんだ」
船頭は半ば強引に首を縦に振らせた。
「ああ、どうしてこんなことに……これでおれァ終いか」
櫓も持たず、船頭は頭を抱えた。女の手を取り、しゃくり上げるように泣き出した。
女は戸惑ったが、長く男の頭を撫でてやった。しかしやがて男の腕が自分の脚に絡みついているのに気付いた。男の瞳にどろりとした欲望が見えた。
「お前も殺せば……でもその前に――」
男は猛烈な力で覆いかぶさってきた。いくら蹴れども勢いは留まるところを知らず、襟から破られる。
「声も出ねえ痣だらけの醜女でも御開帳はできるってェな、ヘヘ」
船頭が胸を触りだした隙に、女は頭上にあるそれを手探りで見つけた。夢中で首を刺す。固い肉に食い込む、嫌な手応えであった。女の手袋が赤黒く染まっていく。
「お前……っ!」
船頭はまだ暴れていたが、舟から落としてしまうとすぐに沈んでいった。まるで何かに引きずり込まれるように。
女は包丁を置いた。男が置いていったそれは、瞳の中でヌラヌラと光った。
気付けば濃霧は晴れていた。櫓を漕いでいると岸に着いていた。彼岸に向かっているとばかり思っていた女は愕然とした。
逃げ出したはずの町にまた戻っていた。女を苦しめた風景が何一つ変わらずに存在していた。
女は泣きながら声もなく盛大に笑った。霞んだ息だけが漏れる。それから肺が痛くなるほど息を吸い込んで深呼吸した。血に塗れた手袋を捨てると、包丁を持って人混みに紛れていった。
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