8 いつだってタイミングは最悪
水の中を漂うような心地の良い微睡みから目を覚ました利央は、なんとなくスッキリした気分であった。
それが何か起き抜けの頭ではいまいち分からず、体を起こしてことの重大さに気がついた。
サンサンと降り注ぐ太陽光に、目の前のテーブルには見覚えのあるワインと二つのグラス。
外気に触れている肩に感じる少しの肌寒さに、ぼんやりと俯いて飛び込んできた自分の姿に唖然とした。
何も身に着けていない姿で、唯一の布といえば腰の周りに纏まっているタオルケットだけで、一気に血の気が引いていく。
徐々に湧き上がる焦りに服を探して見回せば、自分のいるソファーベッドの周りに脱ぎ散らかされたままで、頬がカッと熱くなる。
少しだけ軋む体に鞭を打つ気分で叱咤して、ソファベッドから抜け出しそれらを素早く拾い集めながら身に着けていく。
一度使用した下着を身に着けることに少し抵抗を覚えるが、替えがないのだから仕方がない。
冷静になってくると、昨夜の自分がどれだけ乱れたかを思い出され、恥ずかしすぎて颯と顔を合わせづらくなってくる。
一つタイミングが良かったのは、この場に彼の姿がないことだ。
耳を澄ませば、遠くからシャワーの音が聞こえてくる。
いつシャワーを浴びに行ったか分からない以上、残された時間がどれほどあるか利央には分からない。
身につけるものは身につけて、持つものを持った利央は、足早に玄関へと向かって、今回ばかりは素早く履くには適していない編み上げブーツで来たことを悔やんだ。
急いで履こうと足を入れようとした瞬間、さっきまで聞こえていたはずの水の音が止んでいる。
背中に嫌な汗が流れた。
扉の開く気配もしてきて、考えるより早く利央はブーツは手に持つことにして、手早く玄関を開けて廊下に出るとエレベーターへと急いだ。
階下へのボタンを押して、今か今かとソワソワしながら待つ。
さすがにシャワー後、すぐには追いかけてこれないだろうが、気持ちは焦る。
数秒が数分に、数分が数十分にも感じられる時間を消費して到着したエレベーターに乗り込み、下がり始めた音と振動にほっと息を吐いた。
そうしてほっとすると、腰のだるさと股関節の筋肉痛のような痛みに気がついた。
昨夜のめくるめく官能的な一夜のせいかと思うと、恥ずかしさの他にむず痒さが生まれてくる。
そんな朝から考えるべきではない内容を脳内から追い出すために自分の足を見下ろした。
流石に高級マンションのロビーを靴を手に歩く訳にもいかず、靴を履いて紐を締めた所で一階へと辿り着く。
ロビーの椅子に座って、配車アプリでタクシーを呼ぼうと、カバンからスマホを取り出そうとしたところで、最悪な事実にぶち当たった。
「……ない」
どうゆうわけか、鞄の中にスマホがないのだ。
昨夜、スマホを鞄から出した記憶はないのに──。
「何がないの?」
鞄に財布はあるから、支払いに困ることはないのだから道路でタクシーを捕まえようと立ち上がると、そんな声が掛けられた。
聞き間違えるはずのない声に、どきりとして振り返れば、丁度マンションに帰って来たばかりであろう様子の陸斗が立っていた。
帽子を取ることはなかったが、マスクを外して顔を見せた彼に、朝帰りがバレたというよくわからな気まずさを覚える。まるで、思春期に部屋で彼氏と居たところを親に見られた時に似ていると思ったが、そのシチュエーションに覚えはない。
初めての心の経験に、自然と目が泳いでしまう。
「あー、スマホがね……」
あまりのタイミングの悪さに、自分の運のなさを嘆くか呪うかしたい。
「どこか道で無くしたわけじゃないんでしょ?」
「え、ええと……多分」
あまりの歯切れの悪さに陸斗の眉間にシワが寄るのと同じタイミングで、さらに利央の運の悪さが発揮された。
「利央さん、俺の家にスマホ忘れていますよ」
最悪なタイミングすぎて、この場所から煙のように消えてしまいたい。
もちろん、陸斗は彼氏ではないのだからそんなことを気にする必要はないのだが、なぜだか見られたくなかったという気持ちになる。
「わあー……ありがとう」
「せっかちですね。朝食を作ろうと思ったのに、シャワーを浴びている間に帰るなんて酷い人だ」
一夜を共にしましたと言わんばかりの言い方に、頭が痛くなってくる。
勘弁してくれと思いながら、近づいてくる颯の手にあるスマホに手を伸ばせば、反対の手で手首を掴まれて引き寄せられた。
無防備なことを良いことに、額に甘やかな口づけが落ちた。そのまま体を屈ませた彼は、耳元に唇を寄せた。
「シャワーを先に使わせなければ、逃げられないと思っていたんですけどね。昨夜、抱き潰したと思って油断しました」
耳元で囁かれた言葉に目を見張れば、体を引いた颯は唇の端を持ち上げた。
こそばゆさと、知らない男の顔をした彼に昨夜の情事が思い出されて頬に血が集まるのが感じられた。
「へぇー、随分と二人は仲が良いんだね?」
振り返れば、明らかに声と表情が合ってない陸斗の様子に、嫌な汗が浮かびそうだった。
これまで見たこともないくらい、目だけが笑っていない。
「そうですね。俺たちは長い付き合いですから」
「ちょっ!」
適当な別れの挨拶を挟んで、さっさとこの場を離れようとしたのに、颯は余計なことを言ってくれた。
これ以上こじれさせてなることかという思いと、朝とはいえ住人が行き来するような場所で、アイドルと話しているという状況の悪さに冷や汗が止まらない。
「陸斗? 仕事が終わって休みに帰ったんでしょ。さっさと家に帰りなさい」
「それを利央さんが言います? 睡眠よりも優先すべきことがあるみたいだけど?」
「くっ……、す、睡眠より大事なものなんてありません! そんで、あんたはさっさとスマホを渡して帰りなさいよ!」
「嫌われるのも嫌だし、分かりました。ただ、いつでも飲みに来てくれていいですよ。連絡なしに、渡してあるその鍵で入ってきてください」
スマホは手に戻された。その代わりに、笑って歩き出しひらひらと手を振りながら去っていく颯は、置き土産を忘れなかった。
言われるまで忘れていたが、鍵を返していなかった。
今すぐ返そうと鞄を漁って、見つけた頃にはすでにエレベーターの扉は閉じていた。
陸斗と残されて、寧ろ追い払うのではなく、自分が先にマンションから出ていくべきだったと気がついた。
「あ、それじゃあ、私も帰るから」
どんな表情でこっちを見ているのかと、いやいや振り返ったのだが──。
「明日、映像の撮影だよね? 利央さんも来るんでしょ?」
「ええ、もちろん。はじめて関わるし」
「なら、気合を入れないと。利央さんの初の監督作品だしね。じゃあ、また明日ね」
「……私も頑張るよ」
マスクを引き上げ顔を隠し、立ち去る陸斗の意外にも落ち着いた様子に安心したが、僅かな違和感が心の片隅に生まれて利央は首を傾げた。
「まぁ……気のせいか」
深くは考えず、開放されたことを喜ぶことにして、スマホの電源を入れてタクシーを手配した。




