「たかいたかい」が口癖の父親、うっかりミスで妹の人生を終わらせてしまう
「ほーら、たかいたかいー!」
それは、我が家に響く幸福の象徴だった。
仕事一筋で不器用な父が、唯一分かりやすく愛情を表現する言葉。
父に放り投げられるたび、まだ2歳だった妹のユナは、楽しそうな声でケラケラと笑っていた。
小学3年生だった私は、リビングのローテーブルで宿題をしながら、その光景をぼんやりと眺めていた。
台所からは夕食の支度をする母の包丁の音が、トントンと小気味よく響いている。
どこにでもある、ありふれた幸せな日の、ありふれた夕暮れ時。
「ほーら、もっと高くだぞー!」
父の手が、いつもより強くユナの身体を押し上げた。
ユナの小さな身体が、リビングの天井近くまで舞い上がる。
ユナは嬉しそうに手足をバタつかせ、父はそれを受け止めようと両腕を広げ、腰を落として足を開き体制を整えようとした――
――その時だった。
「あ」
父の口から、間の抜けた声が漏れた。
夕日に照らされた父の足元。
直前にユナが散らかしたミニカーの1台が、そこにあった。
ずるり、と父の足が滑る。
体勢を崩した父の両腕は、空を切った。
ユナの身体が、重力に従ってまっすぐに落下していく。
受け止めるものは、何もない。
視界の端で、母の目が見開かれていたのが見えた。
私が声を上げるよりも早く――
──ベシャリ。
肉と骨が、フローリングの床に激突する、鈍くて重い音が響いた。
「……あ?」
父が、尻餅をついた姿勢のまま間抜けな声を出す。
キッチンから、母の短い悲鳴が上がった。
床に転がったユナは、泣かなかった。
ただ、人形のように不自然な方向に首を曲げ、ピクピクと手足を震わせている。
耳と鼻から、どくどくと赤い液体が溢れ出し、フローリングの床に広がっていく。
「ユナ! ユナァッ!!」
母が包丁を投げ捨てて駆け寄る。
父は、自分の両手を見つめたまま、茫然としていた。
私の手からスルリと持っていた本を床に落ちる。
ぱたん。
本が閉じる音が、妙に大きく聞こえた気がした。
そしてそれが、私たちの知る『妹の人生』が終わった瞬間だった。
◆
病院の廊下は、死ぬほど寒かった。
何時間待ったか分からない。
手術室のランプが消え、医師が出てきた。
一命は取り留めた。
けれど、医師の口から告げられたのは、死よりも残酷な現実だった。
「脳と頚椎に損傷を負っています。自発呼吸も難しく、今後も意識が戻る可能性は低いです。……仮に奇跡的に目を覚ましたとしても、一生、ベッドの上から動くことはできません」
母はその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
父は心ここにあらずの状態で、医師の言葉が耳に入っているかも怪しかった。
ただ、その目は完全に光を失い、焦点が合っていなかった。
「足が滑ったんだ」
父はうわ言のように繰り返した。
「うっかりなんだ。いつも通り、たかいたかいをしていただけなんだ……」
誰も父を責めなかった。
責められるはずがなかった。
誰もがやる、ただの「スキンシップ」なのだから。
悪意なんてどこにもない、不運な事故。
警察もそう判断した。
けれど、悪意がないからこそ、逃げ場はどこにもなかった。
◆
それから、我が家はゆっくりと、確実に腐っていった。
ユナは自宅療養となり、リビングには介護用ベッドが置かれた。
人工呼吸器と無数の管に繋がれ、ピピッ、ピピッという機械音だけを響かせる肉塊。
それが妹の成れの果てだった。
母は付きっ切りで介護に没頭し、意識のないユナへ向ける独り言だけが増えていった。
そして、父は──壊れた。
事故から1ヶ月が経ったある夜。
私が喉の渇きを覚えてリビングへ行くと、暗闇の中に人影があった。
父だった。
父は、ユナのベッドの横に立ち、月明かりの中でゆらゆらと揺れていた。
「……お父さん?」
私が声をかけると、父はゆっくりと振り返った。
その顔を見て、私は思わず息を呑む。
暗闇の中、父は満面の笑みを浮かべていた。
頬を引き攣らせ、狂気じみた笑みを。
「あぁ、お前か」
父の声は、妙に明るかった。
そして、父はベッド横に置いてあった、ユナの「お気に入りのぬいぐるみ」を両手で掴んだ。
「ほーら、ユナ。今日もやるぞ」
父は、ぬいぐるみを天井に向かって放り投げた。
キャッチする。
また投げる。
キャッチする。
「たかいたかいー! たかいたかいー!」
狂ったように連呼しながら、父はぬいぐるみを投げ続ける。
ベッドの上で、本物のユナはピクリとも動かない。
ただ、生命維持装置の電子音だけが虚しく響いている。
「お父さん、やめて……!」
私が泣きながら止めようとすると、父はぬいぐるみを強く抱きしめ、ギラついた目で私を睨みつけた。
「なんで止めるんだ!? ユナはこれが好きなんだ! ほら、笑ってるじゃないか! 俺のたかいたかいで、ユナはあんなに高く飛んだんだ! 高いところまで行ったんだよ!!」
父の頭は、あの日から時間が止まっていた。
ユナの人生を終わらせてしまった事実を、現実を、受け入れられなかった父の精神は壊れてしまった。
『ユナをたかいたかいしている父親』という過去の思い出の中に逃げ込んだのだ。
「たかいたかい……たかいたかい……」
ブツブツと呟きながら、父はまたぬいぐるみを投げ始める。
奥の部屋からは、母の笑い声のような泣き声が聞こえてきた。
ピピッ、ピピッ、ピピッ――。
規則的に鳴る機械の電子音と、父と母の不協和音が満ちるリビングで、私はようやく気付いた。
終わったのは、妹の人生だけじゃない。
あの日、父があのミニカーで足を滑らせたあの時に、私たち家族全員の人生は、とっくに終わっていたのだ。
片づけはちゃんとしなさいって言ったでしょ!
※この作品はaiちゃんとの共同作品です。




