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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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「たかいたかい」が口癖の父親、うっかりミスで妹の人生を終わらせてしまう

掲載日:2026/07/28

「ほーら、たかいたかいー!」


 それは、我が家に響く幸福の象徴だった。


 仕事一筋で不器用な父が、唯一分かりやすく愛情を表現する言葉。


 父に放り投げられるたび、まだ2歳だった妹のユナは、楽しそうな声でケラケラと笑っていた。


 小学3年生だった私は、リビングのローテーブルで宿題をしながら、その光景をぼんやりと眺めていた。


 台所からは夕食の支度をする母の包丁の音が、トントンと小気味よく響いている。


 どこにでもある、ありふれた幸せな日の、ありふれた夕暮れ時。


「ほーら、もっと高くだぞー!」


 父の手が、いつもより強くユナの身体を押し上げた。


 ユナの小さな身体が、リビングの天井近くまで舞い上がる。


 ユナは嬉しそうに手足をバタつかせ、父はそれを受け止めようと両腕を広げ、腰を落として足を開き体制を整えようとした――


 ――その時だった。


「あ」


 父の口から、間の抜けた声が漏れた。


 夕日に照らされた父の足元。


 直前にユナが散らかしたミニカーの1台が、そこにあった。


 ずるり、と父の足が滑る。


 体勢を崩した父の両腕は、空を切った。


 ユナの身体が、重力に従ってまっすぐに落下していく。


 受け止めるものは、何もない。


 視界の端で、母の目が見開かれていたのが見えた。


 私が声を上げるよりも早く――


 ──ベシャリ。


 肉と骨が、フローリングの床に激突する、鈍くて重い音が響いた。


「……あ?」


 父が、尻餅をついた姿勢のまま間抜けな声を出す。

 

 キッチンから、母の短い悲鳴が上がった。


 床に転がったユナは、泣かなかった。


 ただ、人形のように不自然な方向に首を曲げ、ピクピクと手足を震わせている。


 耳と鼻から、どくどくと赤い液体が溢れ出し、フローリングの床に広がっていく。


「ユナ! ユナァッ!!」


 母が包丁を投げ捨てて駆け寄る。


 父は、自分の両手を見つめたまま、茫然としていた。


 私の手からスルリと持っていた本を床に落ちる。


 ぱたん。


 本が閉じる音が、妙に大きく聞こえた気がした。 


 そしてそれが、私たちの知る『妹の人生』が終わった瞬間だった。


 ◆


 病院の廊下は、死ぬほど寒かった。


 何時間待ったか分からない。


 手術室のランプが消え、医師が出てきた。


 一命は取り留めた。


 けれど、医師の口から告げられたのは、死よりも残酷な現実だった。


「脳と頚椎に損傷を負っています。自発呼吸も難しく、今後も意識が戻る可能性は低いです。……仮に奇跡的に目を覚ましたとしても、一生、ベッドの上から動くことはできません」


 母はその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。

 

 父は心ここにあらずの状態で、医師の言葉が耳に入っているかも怪しかった。

 

 ただ、その目は完全に光を失い、焦点が合っていなかった。


「足が滑ったんだ」


 父はうわ言のように繰り返した。


「うっかりなんだ。いつも通り、たかいたかいをしていただけなんだ……」


 誰も父を責めなかった。


 責められるはずがなかった。


 誰もがやる、ただの「スキンシップ」なのだから。


 悪意なんてどこにもない、不運な事故。


 警察もそう判断した。


 けれど、悪意がないからこそ、逃げ場はどこにもなかった。


 ◆


 それから、我が家はゆっくりと、確実に腐っていった。


 ユナは自宅療養となり、リビングには介護用ベッドが置かれた。


 人工呼吸器と無数の管に繋がれ、ピピッ、ピピッという機械音だけを響かせる肉塊。


 それが妹の成れの果てだった。

 

 母は付きっ切りで介護に没頭し、意識のないユナへ向ける独り言だけが増えていった。


 そして、父は──壊れた。


 事故から1ヶ月が経ったある夜。


 私が喉の渇きを覚えてリビングへ行くと、暗闇の中に人影があった。


 父だった。


 父は、ユナのベッドの横に立ち、月明かりの中でゆらゆらと揺れていた。


「……お父さん?」


 私が声をかけると、父はゆっくりと振り返った。


 その顔を見て、私は思わず息を呑む。


 暗闇の中、父は満面の笑みを浮かべていた。


 頬を引き攣らせ、狂気じみた笑みを。


「あぁ、お前か」


 父の声は、妙に明るかった。


 そして、父はベッド横に置いてあった、ユナの「お気に入りのぬいぐるみ」を両手で掴んだ。


「ほーら、ユナ。今日もやるぞ」


 父は、ぬいぐるみを天井に向かって放り投げた。

 

 キャッチする。


 また投げる。


 キャッチする。


「たかいたかいー! たかいたかいー!」


 狂ったように連呼しながら、父はぬいぐるみを投げ続ける。

 

 ベッドの上で、本物のユナはピクリとも動かない。


 ただ、生命維持装置の電子音だけが虚しく響いている。


「お父さん、やめて……!」


 私が泣きながら止めようとすると、父はぬいぐるみを強く抱きしめ、ギラついた目で私を睨みつけた。


「なんで止めるんだ!? ユナはこれが好きなんだ! ほら、笑ってるじゃないか! 俺のたかいたかいで、ユナはあんなに高く飛んだんだ! 高いところまで行ったんだよ!!」


 父の頭は、あの日から時間が止まっていた。


 ユナの人生を終わらせてしまった事実を、現実を、受け入れられなかった父の精神は壊れてしまった。


『ユナをたかいたかいしている父親』という過去の思い出の中に逃げ込んだのだ。


「たかいたかい……たかいたかい……」


 ブツブツと呟きながら、父はまたぬいぐるみを投げ始める。


 奥の部屋からは、母の笑い声のような泣き声が聞こえてきた。


 ピピッ、ピピッ、ピピッ――。


 規則的に鳴る機械の電子音と、父と母の不協和音が満ちるリビングで、私はようやく気付いた。

 

 終わったのは、妹の人生だけじゃない。


 あの日、父があのミニカーで足を滑らせたあの時に、私たち家族全員の人生は、とっくに終わっていたのだ。

片づけはちゃんとしなさいって言ったでしょ!


※この作品はaiちゃんとの共同作品です。

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