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第9話:鳴らない通知、屋上のピエロ

 放課後の生徒会室は分厚いカーテンによって西日が和らげられ、空気清浄機が静かに稼働している。ここには私がこれまで呼吸してきた学校の空気とは違う、穏やかで高貴な時間が流れていた。


 私は玲奈会長の執務机の近くにあるソファで簡単な事務作業の手伝いをしていた。


 アンケートの集計や資料のホッチキス留め。美羽の世話焼き(パシリ)とは違い、ここでは「ありがとう、助かるよ」と心の籠もった感謝がある。それがくすぐったくて少しだけ誇らしかった。


 ――ブブッ。


 そんな静寂を切り裂くようにスカートのポケットに入れていたスマートフォンが震えた。


 心臓がドクリと跳ねる。

 この時間の通知――この振動のリズム。

 嫌な予感が背筋を駆け上がった。


 震える手でスマホを取り出し、画面を確認する⋯⋯ロック画面に表示された名前を見た瞬間、血の気が引いていくのが分かった。


『美羽:屋上で待ってる』


『美羽:ねえ、既読まだ? 話あるって言ったじゃん』


『美羽:遅い』


 三件の連投。

 通知のタイムスタンプは、数分おきに刻まれていた。

 

「っ⋯⋯!」


 呼吸が浅くなるのを感じる。今まで散々尽くしてきた私の体が条件反射的に反応している。


 行かなきゃ。待たせてる。怒られる。


 美羽は待たされるのが大嫌いだった。ジュースを買うのに手間取って五分遅れただけで、半日口をきいてくれなかったことがある。あの時の、氷のような冷たい視線が脳裏にフラッシュバックする。


「あ、あの、会長⋯⋯!」


 私は弾かれたようにソファから立ち上がった。

 ホッチキスが手から滑り落ち、カーペットの上に落ちる。


「どうした? 顔色が悪いぞ」


 書類に目を落としていた玲奈会長が、手を止めてこちらを見た。

 心配そうな瞳。でも今の私にはその優しさすら直視できないほど焦燥感が支配していた。


「す、すみません、ちょっと用事が⋯⋯! 呼ばれてて、行かなきゃいけなくて⋯⋯!」


「誰にだ?」


「えっと、その⋯⋯」


 美羽だとは言いづらい。会長は美羽のことをよく思っていないから。でも早く行かないと。もう放課後になってから三十分は経っている。


 私がしどろもどろになっていると、再びスマホがブブッと震えた。


『美羽:まさかシカト? ありえないんだけど』


 画面に表示されたその文字を見た瞬間、私の足がすくんだ。

 美羽は怒っている⋯⋯怖い、行きたくない。でも行かないともっと怖いことになるかもしれない。


 私が半泣きでドアへ向かおうとした、その時だった。


 スッ、と横合いから伸びてきた白く細い指が私の手からスマートフォンを鮮やかに抜き取った。


「あ⋯⋯」


 驚いて顔を上げると、いつの間にか机を回って近づいてきていた玲奈会長が私の前に立ちはだかっていた。


「か、会長? 返してください、私、行かなきゃ⋯⋯」


「どこへ行くつもりだ?」


 会長の声は低く、けれど怒声ではなかった。諭すような静けさを湛えていた。


「契約を忘れたか? 陽菜」


「け、契約⋯⋯?」


「そうだ。放課後の君の時間は、全て私のものだという契約だ。⋯⋯恋人役としての務めを放棄して、他の誰かの元へ行くことは許されない」


 その言葉にハッとした。

 そうだ。私は今、会長の「恋人(役)」なのだ。

 美羽の「親友(という名の召使い)」ではなく、この人のパートナーなのだ。


 会長は私のスマホ画面を一瞥すると、美しく整えられた眉をわずかにひそめた。


「『話を聞いてあげる』⋯⋯? 『遅い』⋯⋯?」


 会長は鼻で笑った。

 それは心底呆れたような、冷ややかな嘲笑だった。


「随分と上から目線だな。自分から裏切っておいて今さら『話を聞いてあげる』とは。⋯⋯君が話したいことなど、もう何もないだろうに」


「そ、それは⋯⋯」


 確かに私から美羽に話したいことはない。

 ただ「呼ばれたから行く」という思考回路が染み付いているだけだ。


 でも、行かなかったら後で何を言われるか――。


「誰かの呼び出しに怯える必要はない。今の君のあるじは私だ」


 会長はそう断言すると、私の目の前でスマホのサイドボタンを長押しした。


 画面に『電源を切る』という表示が出ると彼女は迷うことなく、そのボタンをタップした。


 フン、と短い振動を残して画面が暗転する。

 真っ黒になった液晶には呆然とする私の顔と冷徹な会長の顔が映り込んでいた。


「君を惑わすノイズはいらない」


 ポイ、と会長は電源の落ちたスマホを自分の制服のポケットに放り込んだ。


「あ⋯⋯」


「これで君に届く雑音はなくなった。ここには私と君しかいない」


 不思議だった。


 スマホを取り上げられたのに不安よりも先に肩の荷が下りたような安堵感が広がったのだ。


 ああ、もう見なくていいんだ。

 行かなくていいんだ。

 会長が「ダメだ」って言ったから。


 「命令されたから行けなかった」という言い訳を、この人が与えてくれた。


 会長は強張っていた私の肩に手を置き、優しく微笑んだ。


「それより陽菜、ちょうど新しい茶葉が届いたんだ。最高級のダージリンのファーストフラッシュだ」


「お茶⋯⋯ですか?」


「ああ。それに君が好きだと言っていた店のいちごタルトも用意してある」


 会長はサイドボードの引き出しを開け、美しい装飾の缶と可愛らしいケーキの箱を取り出した。

 甘い香りが、ふわりと漂う。


「私との温かいお茶会と屋上の寒空の下での不毛な会話。⋯⋯君にとって魅力的なのは、どちらだ?」


 問われるまでもないことだった。

 暖房の効いた部屋に座り心地の良いソファ。

 そして何より、私を大切に扱ってくれる美しい人。


 私は一度だけ薄暗くなった窓の外を見た。

 風が強く吹いているのか、木の枝が激しく揺れている。

 あそこへ行けば、また私は「謝罪」をさせられる。惨めな思いをする。


 私は視線を戻し、会長の瞳を見つめた。


「⋯⋯会長のお茶、いただきたいです」


「賢明な判断だ。さあ、座ってくれ。今、準備をする」


 会長は嬉しそうに目を細め、手際よくティーセットの準備を始めた。


 お湯が注がれる音⋯⋯カップがソーサーに触れる澄んだ音。

 それらの心地よい音色が私の心に残っていた最後の恐怖を塗りつぶしていった。


 ◇


 同時刻。屋上。


 ゴォォォォ⋯⋯。

 吹きっさらしの風が容赦なく吹き荒れていた。


「⋯⋯寒っ」


 フェンスにもたれかかっていた愛川美羽は、自分の二の腕をさすりながら悪態をついた。


 放課後のチャイムが鳴ってから、もう一時間が経過している。

 空はすでに茜色から群青色へと変わり、気温は急速に下がっていた。

 薄手のカーディガン一枚では春先の夕暮れはあまりにも過酷だ。


「⋯⋯遅い。なにしてんのよ、陽菜」


 美羽はかじかんだ指で何度目かわからないスマホの画面確認をした。


 通知は、ゼロ。

 自分が送った大量のメッセージには、一つとして「既読」がついていない。


「は? マジで?」


 イライラが募り、靴底でコンクリートの床をガンガンと蹴る。


 ありえない。


 陽菜が私の呼び出しを無視するなんて。

 いつもなら送って三秒で既読がついて『すぐ行くね!』って返信が来るはずなのに。


「まさか、寝てる? いや、放課後だし⋯⋯」


 美羽は屋上のドアの方を睨みつける。

 誰も来る気配はない。聞こえるのは風の音だけ。


 普通なら、ここで「嫌われたのかもしれない」「避けられているのかもしれない」と考えるだろう。


 しかし、美羽の思考回路に「自分が悪い」という選択肢は存在しなかった。


 彼女の中での陽菜は、あくまで「自分がいなければ生きていけない弱い存在」であり「自分のことが大好きな親友」のままだから。


 ならば答えは一つしかない。


「⋯⋯あー、わかった」


 美羽は納得したように頷いた。


「あの生徒会長か」


 美羽の脳内で勝手なストーリーが構築されていく。

 冷徹で人使いの荒そうな氷室玲奈。


 きっと彼女が陽菜に大量の仕事を押し付けているに違いない。

 『これが終わるまでスマホを見るな』とか『部屋から出るな』とか命令して、陽菜を監禁しているんだ。


「うわ、最悪。ブラック企業じゃん生徒会」


 美羽は憐れむように鼻を鳴らした。


(可哀想な陽菜。私のところに来たいのに会長が怖くて来れないんだ)


(既読がつかないのも、スマホを取り上げられてるからかも。⋯⋯うわー、独裁者って感じ)


 そう考えるとすべての辻褄が合った。

 陽菜が来ないのは陽菜の意志ではない。不可抗力だ。

 むしろ陽菜は被害者で今頃、泣きながら書類整理でもさせられているのだろう。


「⋯⋯チッ、使えない会長。私の陽菜をいつまで拘束してんのよ」


 美羽は舌打ちをするとスマホをポケットにしまった。

 これ以上待っても会長が解放してくれないなら意味がない。


 それにもう寒さの限界だった。鼻水が出てきそうだし、手足の感覚がなくなりかけている。


「ま、いっか。今日は帰ってあげよ」


 美羽は震える体で身を縮こまらせながら、屋上のドアへと歩き出した。


(私が帰ったら陽菜もホッとするでしょ。あとで『行けなくてごめんね』って泣きついてくるはずだし――)


(そうだ、その時にたっぷり慰めてあげればいいや。『会長ってひどいね、やっぱり私が一番だね』って)


 美羽は自分の寛大さに酔いしれながら、重い鉄扉を開けた。

 誰もいない屋上に冷たい風だけが吹き抜ける。


 そこで一時間も待ちぼうけを食らっていた自分が、滑稽なピエロであることなど微塵も気づかずに。


 彼女は「陽菜のために帰ってあげる私」というヒロイン気取りで、階段を降りていった。


 ◇


 生徒会室。


「⋯⋯ふぅ、温まります」


「そうか。お代わりはどうだ?」


「あ、はい。お願いします」


 温かい紅茶と甘酸っぱいタルト。

 そして穏やかな会話――。

 ここには寒さも、焦燥も、理不尽な要求もない。


 私はカップの湯気の向こうで微笑む玲奈会長を見つめた。

 会長のポケットのスマホは眠ったまま。


 もしかしたら電源を入れたら大量の通知が来ているかもしれない。でも不思議と怖くなかった。


 目の前の「主」が私を守ってくれている。

 その絶対的な安心感が私を過去の呪縛から少しずつ解き放ってくれていた。


(ごめんね、美羽)


 心の中で小さく謝る。


 窓の外はすっかり夜の闇に包まれている。

 屋上に誰がいたのか、もう誰も知る由もなかった。

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