第8話:愚か者の解釈
週明けの教室は、ある一つの噂で持ちきりだった。
「ねえ、聞いた? 週末の目撃情報」
「聞いた聞いた! 氷室会長と小鳥遊さんが駅前のモールにいたってやつでしょ?」
「手繋いでたらしいよ。しかも会長が全部奢ってあげてたって」
「えー、マジで付き合ってんのかな? 意外すぎる組み合わせじゃん」
休み時間のあちこちから聞こえてくる、ヒソヒソとした話し声。
私は自分の席で爪やすりを動かしながら小さく鼻を鳴らした。
「⋯⋯くだらな」
キュッ、キュッ、とリズミカルに爪を磨く。
指先はいつも完璧にしておかないといけない。美羽はいつだって可愛くて、みんなの憧れでなきゃいけないんだから。
それにしてもみんな騒ぎすぎだ。
陽菜が会長とデート? 付き合ってる?
ありえない。
だって陽菜は、私のことが大好きなんだから。
(ま、ちょっとやりすぎちゃったかなーとは思うけど)
私はやすりを止め、ふぅっと息を吹きかけて爪の粉を払った。
正直に言えば佐藤くんと付き合ったのは、ほんの軽い「遊び」だった。
最近の陽菜は、あまりにも安定しすぎていた。
私が何を言ってもニコニコして、何をしても怒らない。
「美羽は私がいないとダメだもんね」なんて、まるで保護者みたいな顔で見守ってくる。
それが、ちょっとだけ退屈だったのだ。
そこにちょうど、クラスでもそこそこイケてる佐藤くんから告白された。だから思ったのだ。これはいいスパイスになるかも、って。
陽菜を少し不安にさせて、焦らせて「美羽が離れていっちゃう!」って泣きつかせて。
もっと必死な顔で私を求めてくる陽菜が見たかった。
私への愛を再確認するための、ちょっとしたイベント。それがこの「彼氏作り」の本当の目的だったのに。
(あの日、ノート貸さないって反抗してきたのはムカついたけど)
だからつい、嘘をついてしまった。
『彼氏とはキスまでしかしてないから』――あれは完全に、その場の思いつきだ。
佐藤くんとは手だって繋いでいない。だって陽菜以外の人とそういうことするの、なんか気持ち悪いし。男の体はゴツゴツしていて陽菜のような柔らかくて良い匂いもしない。
でも、陽菜があまりにも生意気な態度をとるから、ちょっとお仕置きをしてあげただけ。
ショックを受けて真っ青になる顔が見たかっただけなのだ。
それなのに陽菜ったら泣いて飛び出しちゃって。
雨の中、傘も持たずに帰っちゃうし。
おかげで私は陽菜の傘を使う羽目になったし、次の日は会長と見せつけるようにリムジンで登校してくるし。
「⋯⋯ほんと、手のかかる子」
私は呆れたように溜息をついた。
まさか、ちょっとからかっただけであそこまで拗らせるとは思わなかった。
これは「反抗期」だ。
ずっといい子だったペットが、飼い主に構ってもらえなくて、家中の家具を噛んで暴れているようなもの。
「ねえ美羽、大丈夫なの?」
机を囲んでいた取り巻きの一人が、心配そうに声をかけてきた。
「陽菜ちゃん、会長とすごい仲良さそうだけど⋯⋯。金曜の朝も、なんか美羽のこと無視してたし」
「そうそう。美羽ちゃん、陽菜ちゃんに嫌われちゃったんじゃない?」
周りの視線には好奇の色が混じっている。
私は余裕たっぷりに微笑んで髪をかき上げた。
「あはは、まさか。そんなわけないじゃん」
「え、でも⋯⋯」
「あー、あれね。陽菜なりの『当てつけ』なんだよ」
私はもっともらしく解説してあげる。
愚かな民衆たちに真実を教えてあげる女王のように。
「私に彼氏ができて悔しいから、自分もハイスペックな相手を見つけて見返したいだけでしょ? ほら、陽菜ってああ見えて負けず嫌いなとこあるし」
「あー、なるほど。嫉妬ってこと?」
「そうそう。それにさ、相手があの『氷の女王』だよ? 陽菜みたいな地味な子が相手できると思う?」
みんなが「確かにー」と頷く。
「どうせ、会長に脅されて無理やりパシリにされてるだけだよ。陽菜って断れない性格だし。会長も便利屋が欲しかったんじゃない?」
「うわ、ありそう⋯⋯」
「でしょ? だから、ほっとけばいいの。どうせすぐ使い潰されて『やっぱり美羽が一番』って泣いて戻ってくるから」
そう。これは時間の問題だ。
陽菜にとって一番居心地がいいのは私の隣だ。
私が甘えて陽菜が世話を焼く、その完璧な関係性こそが陽菜の生きがいなんだから。
高圧的で冷徹な会長の相手なんて、陽菜のメンタルが持つわけがない。
きっと今頃、無理して会長のご機嫌取りをして、疲れ果てているはずだ。
「美羽、助けて」って言いたいけど、意地を張って言えないだけなんだろう。可愛いところあるじゃん。
「おい、美羽ー」
そこへ気だるげな声が割り込んできた。
彼氏の佐藤くんだ。
彼は私の前の席にドカッと座ると不満そうに言った。
「なあ、小鳥遊まだ戻ってこねーの?」
「ん? なに?」
「いやさ、授業のノート写させてもらおうと思ったのにアイツいねーし。昼飯のパンも自分で買いに行く羽目になったんだけど」
佐藤くんは「マジだりー」と机に突っ伏した。
「美羽ちゃんの幼馴染、便利そうだったのになー。美羽ちゃん、早く仲直りして連れ戻してよ」
その言葉に私は少しだけイラッとした。
佐藤くんの中身のなさにではない。
陽菜がいなくなったことで、私まで「不便」を感じているという事実にだ。
今朝も、いちごミルクを買ってきてくれる人はいなかった。
いつも陽菜が作ってくるお弁当を食べていたから、ここ最近はずっとコンビニのおにぎりだ。
私の機嫌を察して先回りして動いてくれるあの快適さが圧倒的に欠けている。
「もー、わかってるって。そんな焦んないでよ」
私は作り笑いで佐藤くんの肩を叩く。
「ちょっと泳がせてるだけだから。あの会長相手じゃ、陽菜なんてすぐ捨てられるし」
「そっかー。じゃあ待つか」
「うん。だって、陽菜には私しかいないんだから」
そう、陽菜には私しかいない。
友達も少ないし、親とも仲良くない。
私だけが陽菜を必要としてあげられる。私だけが陽菜の居場所なんだ。
だから最後は帰ってくるに決まってる。
◇
移動教室の時間になり、私は廊下を歩いていた。
次の授業は化学室、友人と談笑しながら階段を降りようとした時、ふと視界の端に二つの人影が映った。
「あ⋯⋯」
渡り廊下の向こう側――陽菜と氷室会長だった。
二人は並んで歩いている。
会長が何かを話し陽菜がそれに頷いている。
ただそれだけの光景なのに、私は思わず足を止めてしまった。
⋯⋯なによ、あれ。
陽菜の様子がおかしい。
私と一緒にいる時の陽菜は喋っていてもどこか私の顔色を伺うように、おどおどと視線を動かして自信なさげだった。その手を私が引っ張ってやっていたのに⋯⋯。
なのに今は――背筋がすっと伸びている。
会長の隣、半歩後ろではなく、ちゃんと自分から横に並んでいる。
そして何より――笑っていた。
会長の言葉に口元に手を当てて楽しそうに穏やかに。
私が久しく見ていない、かつての柔らかい笑顔で。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
胸の奥がチクリと痛む。
まるで自分の知らない陽菜を見せつけられているような。
私の知らないところで、私の知らない顔をしている陽菜。
私は無意識に唇を噛んだ。
(なに笑ってんのよ。無理しちゃって)
そう、あれは無理をしているんだ。
会長に合わせて必死に「楽しいフリ」をしているに決まってる。
だって相手はあの氷室玲奈だよ?
陽菜みたいな一般人が、あんな完璧超人と一緒にいてリラックスできるわけがない。
きっと内心ではビクビクして、胃が痛くなっているはずだ。
「美羽? どうしたの?」
「え? ううん、なんでもない」
友人呼ばれて、私は我に返った。
もう一度渡り廊下を見たけれど、二人の姿はもう曲がり角の向こうに消えていた。
私は胸のざわめきを無理やり抑え込む。
大丈夫。私の解釈は間違っていない。
陽菜は今、頑張って背伸びをしているだけ。
すぐに息切れして靴擦れを起こして私の元へ裸足で逃げ帰ってくる。
(⋯⋯あとでラインして、慰めてあげよっかな)
私はポケットからスマホを取り出した。
きっと陽菜は、私からの連絡を待っているはずだ。
「もう許してあげるから戻っておいで」って言葉を。
自分からは言い出せない臆病な子だから、私がきっかけを作ってあげなきゃいけない。
しょうがないなぁ、私は優しいご主人様なんだから。
『陽菜、今日放課後、話あるから屋上で待ってて』
『会長相手に疲れたでしょ? 話聞いてあげるからさ』
私は素早くメッセージを打ち込み、送信ボタンを押した。
陽菜は私の「所有物」だ。
ちょっとリードが外れて迷子になっているだけで、飼い主が変わるわけがない。
あの笑顔も私へのあてつけの演技に違いないんだから。
私はスマホをポケットにしまい、軽快な足取りで階段を降りていった。
――送信されたメッセージに、いつまで経っても「既読」がつかないことを、まだ知る由もなかった。




