第6話:恋人繋ぎと契約関係
生徒会室は驚くほど静かだった。
窓の外からは運動部の掛け声や吹奏楽部の楽器の音が微かに聞こえてくるが、分厚い壁と扉に守られたこの部屋には穏やかな静寂だけが満ちている。
カツ、カツ、と一定のリズムで響くのは氷室玲奈会長が万年筆を走らせる音――そして、古時計が時を刻む音だけ。
「⋯⋯あの、会長」
私は革張りの大きなソファに座り、会長から渡された厚手のブランケットにくるまりながら、恐る恐る口を開いた。
「私、本当に授業に出なくてよかったんでしょうか⋯⋯。ただでさえご迷惑をおかけしているのに、サボりだなんて⋯⋯」
朝の騒動の後、私はそのまま生徒会室に連行され、匿われていた。
始業のチャイムが鳴っても会長は私を教室へ帰そうとはしなかった。それどころか自分も授業に出ずに、ここで執務を続けているのだ。
会長は手を止めず、書類に目を通したまま平然と答えた。
「『サボり』ではない。『公欠』だ」
「え⋯⋯?」
「職員室に話を通してある。『小鳥遊陽菜は貧血で倒れかけたため生徒会室で私が介抱する。保健室は騒がしく、安静に適さないため許可されたし』とな」
あまりにも堂々とした職権乱用に私は目を丸くするしかない。
「そ、そんな理由で⋯⋯」
「事実だろう? 君は顔色が悪いし、昨日の雨で体も冷えている。生徒の健康管理と心のケアも生徒会長である私の務めだ」
彼女はそこでようやく顔を上げ、私を見てふわりと微笑んだ。
「それにあの教室に戻れば、またあの騒がしい元友人に絡まれるかもしれない。⋯⋯今はまだ、会いたくないだろう?」
「⋯⋯っ」
図星だった。
美羽の顔を見れば、またあの惨めな記憶が蘇る。クラスメイトたちの好奇の視線に耐えられる自信もない。
会長は、すべてを見透かして私を守ってくれているのだ。
「⋯⋯ありがとうございます」
「礼には及ばないと言ったはずだ。ほら、茶が入ったぞ」
会長が立ち上がり、サイドテーブルに置かれたティーポットから紅茶を注いでくれる。
芳醇なアールグレイの香りが部屋に広がる。
差し出されたカップを受け取ると指先にじんわりと温かさが伝わってきた。
「美味しい⋯⋯」
「そうか。私が淹れるのは久しぶりだからな、腕が落ちていないか心配だった」
学園のトップに君臨する人が、私なんかのためにお茶を淹れてくれている。
美羽と一緒にいた時は私が買いに行き、私が蓋を開け、ストローを挿して渡すのが当たり前だった。
「陽菜、喉渇いたー」の一言で走り回っていた私が、ここではお姫様のように扱われている。
(居心地がいい⋯⋯。でも⋯⋯)
同時に猛烈な申し訳なさがこみ上げてきた。
私は何もしていない。
ただ守られ、助けられ、与えられるだけ。
これでは美羽が私を「道具」として扱っていたのと立場が逆になっただけではないか。私は会長にとって、ただの「手のかかるお荷物」なのではないか。
その不安が私を突き動かした。
私はカップをソーサーに戻し、ソファから立ち上がった。
「あの、会長。ここまでしていただいて、本当にありがとうございました」
「⋯⋯どこへ行く?」
「そろそろ戻ります。これ以上、会長の貴重な時間を奪うわけにはいきませんから⋯⋯。私、もう大丈夫です」
精一杯の強がりだった。
本当はまだ足が震えている。でもこれ以上「無価値な自分」を晒し続けるのが怖かった。
私が扉に向かって歩き出した、その時。
「待て」
凛とした声が私の足を縫い止めた。
振り返ると会長が執務机の前で腕を組み、真剣な眼差しで私を見つめていた。
「帰すわけにはいかない」
「え⋯⋯?」
「単刀直入に言おう。小鳥遊陽菜」
彼女は一歩、私に近づいた。
その瞳には射抜かれるような強い光が宿っていた。
「私と付き合ってほしい」
――はい?
思考が停止した。
今、この人は何と言った?
付き合ってほしい? 私と?
「あ、あの⋯⋯えっと、それは⋯⋯どういう⋯⋯?」
「言葉通りの意味だ。恋人として、私の隣にいてほしい」
「む、無理です! 私なんか! それに私たち女の子同士で⋯⋯!」
パニックになって手を振る私を会長は冷静に制した。
「落ち着け。⋯⋯いや、誤解を招く言い方だったな。正確には『恋人のフリ』をしてほしいのだ」
「フリ⋯⋯ですか?」
「ああ。一種の契約関係だと思ってくれればいい」
会長はため息をつき、憂鬱そうに肩をすくめてみせた。
そして、淡々とした口調で語り始めた。
「知っての通り、私の家はそれなりの家柄だ。それに加えて、この容姿と生徒会長という肩書きがある」
自分で言うんだ、と思ったけれど事実だから否定できない。
「校内の男子生徒からの求愛には、正直うんざりしているんだ。毎日のように告白され、下駄箱にはラブレターの山。⋯⋯鬱陶しいことこの上ない」
「は、はあ⋯⋯(贅沢な悩みだ⋯⋯)」
「しかし誰か適当な男を選べば、今度は家同士の繋がりだの、派閥だのと周りが騒ぎ立てる。私の自由がなくなるのだ」
会長はそこで言葉を切り、私をじっと見つめた。
「相手が『女性』ならどうだ?」
「えっ?」
「『学生時代の一時的な気の迷い』あるいは『精神的な安らぎ』として、周囲も親も黙認する可能性が高い。それに私が女性を選んだとなれば、男どももプライドを傷つけられずに諦めがつくだろう。『男には興味がない』と言い訳ができるからな」
なるほど、と私は妙に納得してしまった。
確かに玲奈会長のような高嶺の花が特定の男子と付き合えば角が立つ。でも女子同士なら「麗しい姉妹愛」のような枠で収まるかもしれない。
「つまり、君には私の『平穏を守るための魔除け』になってほしいのだ」
「魔除け⋯⋯」
「そうだ。君が私の『恋人』として振る舞ってくれれば、私は煩わしい男たちや家のしがらみから解放される。その代わり、私は君をあらゆる外敵――例えばあの愛川美羽のような存在から守ると約束しよう」
それは私にとっても悪い話ではなかった。
会長という絶対的な後ろ盾があれば、美羽も手出しできない。教室での居場所も確保できる。
Win-Winの関係というやつだろうか。
でも、一つだけ疑問が残る。
「でも⋯⋯どうして私なんですか?」
私は俯いて、スカートの裾を握りしめた。
「魔除け役ならもっと素敵な人が他にいると思います。副会長さんとか美人だし、仕事もできるし⋯⋯。私みたいな地味で取り柄のない人間じゃ、会長の恋人役なんて釣り合いません」
そう⋯⋯私は自信がないのだ。
美羽にすら捨てられた私が完璧な会長の隣に立つなんて。
するとカツン、と靴音が近づいてきた。
会長が私の目の前に立ち、そっと私の顎を持ち上げた。
「⋯⋯君だからだ。陽菜」
至近距離で見るサファイア色の瞳に私が映っている。
「他の有象無象は私の家柄や外見に媚びへつらうだけだ。だが君は違う」
「そ、そうでしょうか⋯⋯」
「それに、君には才能がある」
「才能?」
「ああ。『誰かに尽くすこと』に関しては君は学園一だろう?」
会長の指が私の頬を優しく撫でる。
「君があの元友人にしていたような献身。私のことを一番に考え、私のために走り、私を支える⋯⋯。その情熱を私だけに向けてくれればいい」
ドキリ、とした。
「尽くすこと」を才能だと言ってくれた。
美羽には「便利屋」として消費されていた私の性質を、この人は「必要だ」と言ってくれている。
「難しく考える必要はない。君はただ、私の側にいて私を甲斐甲斐しく世話してくれればいい。それだけで契約成立だ」
「⋯⋯私で、会長のお役に立てますか?」
「君でなくてはダメなんだ」
その言葉が私の心の空洞を埋めていく。
必要とされたい。役に立ちたい。
誰かのために生きることで自分の価値を確かめたい。
そんな私の歪んだ願望が、会長の提案とカチリと噛み合った音がした。
「⋯⋯わかりました」
私は顔を上げ、会長の瞳を見つめ返した。
「私でよければ⋯⋯会長の盾になります。魔除けでも、何でも使ってください」
「⋯⋯ふっ」
会長が満足げに口角を上げた。
獲物がかかったことを喜ぶような、少し妖艶な笑みだったことに、私は気付かなかった。
「交渉成立だな」
会長はなにかを抑え込むような表情でゆっくりと右手を差し出した。
私もそれに応えようと手を伸ばす。
しかし、会長はその手を握手ではなく、別の形で絡め取った。
私の指の間に会長の細い指が滑り込んでくる。
いわゆる「恋人繋ぎ」だ。
「えっ、あ、あの⋯⋯会長?」
「恋人に見えるよう、少し練習が必要だな」
「練習ですか?」
会長は真面目な顔でそう言ったが、繋がれた手は驚くほど熱かった。
そして微かに震えているのが伝わってくる。
「⋯⋯嫌か?」
少し不安げに揺れる瞳――高圧的な提案をしておきながら、こういうところは自信がなさそうな様子に、私は胸がキュンと締め付けられた。
「いえ⋯⋯嫌じゃ、ないです」
私は正直に答えた。
美羽と手を繋ぐときは、いつも私が機嫌を取るために握っていた。
でも会長の手は私を求めてくれているように感じる。
「会長の手⋯⋯すごく、温かいです」
私が少し照れながらそう言うと会長はバッと顔を背けた。
耳の先が、真っ赤に染まっているのが見て取れる。
「⋯⋯そ、そうか。なら、いい」
咳払いを一つして、会長は繋いだ手にさらに力を込めた。
痛いほど強く、けれど決して離さないという意志を感じる強さで――。
◇
卑怯な手だとはわかっている。
玲奈は高鳴りすぎる心臓を必死に抑え込んでいた。
政治的な理由? 魔除け?
そんなものは全部、ただの口実だ。
真実は一つ。私が君を愛していて、誰にも渡したくないだけ。
今は『嘘』でもいい。君を私の側に繋ぎ止められるなら、どんな手段でも使う⋯⋯。
いつかこの契約が、君にとっても『真実』になるその日まで⋯⋯私は君を離さない。
西日が差し込む生徒会室――二人の影が長く伸びて、一つに重なり合っていた。




