第5話:その隣にいるのは
小鳥のさえずりとカーテンの隙間から差し込む柔らかな光。
そして、ふわりと香る高級な石鹸の匂い。
「⋯⋯ん」
重いまぶたを持ち上げると、そこは私の知らない天井だった。
自分の部屋の薄汚れた壁紙とは違う、シックで落ち着いた色調の部屋。
私は一瞬、自分がどこにいるのか分からずに瞬きをした。
「ようやく起きたか。おはよう、眠り姫」
すぐ耳元で鈴を転がしたような声がした。
驚いて横を向くと、そこには信じられない光景があった。
「か、会長⋯⋯!?」
同じベッドに同じ布団の中――ほんの数十センチ先に、氷室玲奈会長の整った顔があった。
彼女は頬杖をつき、慈愛に満ちた眼差しで私の寝顔を見つめていたのだ。
その表情は学園で見せるあの冷徹な「氷の女王」とは似ても似つかない。春の日差しのように穏やかで甘い。
「よく眠れたか?」
「は、はい⋯⋯って、ええぇっ!?」
私は飛び起きようとして布団に足を取られてあわあわと体勢を崩した。
昨日の記憶が一気に蘇る。雨、泥だらけの私、お姫様抱っこ、そして――。
(私、会長と一緒に寝ちゃったんだ⋯⋯!)
カァァッ、と顔から火が出る音が聞こえそうだ。
そんな私を見て玲奈会長はくすりと楽しそうに笑った。
「ふふ、元気そうで何よりだ。昨晩は赤子のように泣き疲れて眠っていたからな。心配していた」
「あぁ! ⋯⋯す、すみません! 私、なんてことを⋯⋯ご迷惑をおかけして⋯⋯」
「迷惑ではないと言ったはずだ。⋯⋯それに、君の寝顔は可愛らしかったぞ」
サラリと言われた言葉に心臓が跳ねる。
この人は、どうしてこうも恥ずかしいことを平然と言えるのだろう。
ふと時計を見ると登校時間が迫っていた。
「あ、やばい! 学校行かなきゃ! 制服⋯⋯泥だらけだし、一度家に帰らないと⋯⋯!」
「慌てるな。制服ならここにある」
玲奈会長が指差した先には、ハンガーにかけられた私の制服があった。
泥だらけだったはずのブレザーとスカートは、染み一つなくクリーニングされ、パリッと糊が効いている。シャツに至っては新品のように白かった。
「うちのメイドに手入れをさせた。完璧だろう?」
「え⋯⋯あ、ありがとうございます。何から何まで⋯⋯」
「礼には及ばない。さあ、着替えて朝食をとるぞ。その後、私が送る」
「えっ? 送るって⋯⋯」
「車で行く。拒否権はない」
有無を言わせぬ強い瞳が私を射抜いた。
だけど昨日の今日で私はその強引さが少しだけ嬉しかった。
誰かに強く導いてもらえることが、こんなにも安心できることだなんて知らなかったから。
◇
学校への道中、車内は静寂に包まれていた。
私は緊張で膝の上で手を握りしめていたが、隣に座る玲奈会長は優雅にタブレットでニュースをチェックしている。
やがて見慣れた校舎が見えてきた。
いつもなら電車と徒歩で通う正門前――そこには多くの生徒たちが登校している姿があった。
私たちの乗った黒塗りのリムジンは減速することなく校門をくぐり、生徒たちが歩く脇を抜けて昇降口の真正面に横付けされた。
「な、なんだあれ?」
「すげぇリムジン⋯⋯VIP?」
「理事長とかか?」
周囲のざわめきが車内にまで聞こえてきそうだ。
注目を浴びる中、昨日の運転手さんが後部座席のドアを開ける。
最初に降り立ったのは玲奈会長だった。
艶やかな黒髪が風になびく。その凛とした立ち姿に周囲からどよめきが起こる。
「うわ、氷室会長だ」
「やっぱすげー迫力⋯⋯かっこいい⋯⋯」
「朝から眼福だわー」
生徒たちの視線が、憧れと畏怖を含んで彼女に注がれる。
会長はそんな視線には慣れっこなのか、一切動じることなく、車の中――私の方へくるりと向き直った。
「さあ、おいで。陽菜」
差し出された白く細い手、私は一瞬ためらったけれど、その真っ直ぐな瞳に吸い寄せられるように自分の手を重ねた。
会長の手が、ぎゅっと私の手を握る。
エスコートされて、私はリムジンの外へと降り立った。
その瞬間――周囲の空気が、ピキリと凍りついたのが分かった。
「⋯⋯え?」
「あれ、小鳥遊じゃね?」
「なんで会長と一緒なんだ?」
「え、小鳥遊ってあの、2組の地味な⋯⋯?」
困惑、疑問、そして好奇の視線が入り混じる。
普段、美羽の影に隠れて目立たない存在だった私が、学園のカリスマである会長のエスコートを受けている。その異常事態に誰もが混乱して唖然としていた。
私は居心地の悪さに身を縮こまらせる。
やっぱり、場違いだ。私なんかがあの人と一緒にいるなんて、許されることじゃない。
そう思って、会長の手を離そうとした時だった。
「――えー! 陽菜いるのー?」
空気を読まない、甘ったるい声が響いた。
背筋がぞわりと泡立つ。
聞きたくない。今は一番、聞きたくない声。
人混みを割って現れたのは美羽だった。
その隣には彼氏である佐藤がしっかりと腕を組んで張り付いている。
二人は登校デートを楽しんでいたのだろう。
美羽は私を見て、一瞬ギョッとしたように目を見開いた。
視線が私とその隣にいる玲奈会長、そして背後のリムジンを行き来する。
――え、嘘⋯⋯陽菜? 昨日は勝手にどっか行っちゃたと思って迎えにきてあげたのに、なんで会長と一緒なの?
リムジン? は?
⋯⋯あー、わかった。私が相手してあげないから、今度はイイ子ぶって生徒会に媚び売ったんだ。ホント、そういうとこ計算高いっていうか、あざといよね。
美羽の目が一瞬だけ侮蔑の色に染まるのを私は見た。
付き合いが長いからこそ感情の動きが分かってしまう。読み取れてしまう。
彼女は今、私を見下しそして「会長に取り入った私」を面白くないと思っている。
でも次の瞬間には完璧な「親友」の仮面が美羽の顔に張り付いていた。
「もー! 陽菜ってば! 昨日は勝手に帰っちゃって心配したんだよ〜?」
美羽は佐藤の腕を離し、パタパタと私に駆け寄ってきた。
「ラインも返さないし、既読スルーとか酷くない? 私、雨の中ずっと探したんだからね! なんか家にもいなかったみたいだけど?」
嘘だ。
探してなんていない。あなたは佐藤とデートを楽しんで、私の傘を持って帰っただけだ。
それに「家にもいない」と大きな声で言うことで、周囲に「陽菜が無断外泊をして遊んでいた」という印象を植え付けようとしている。
その悪意に私は足がすくんだ。
「あ⋯⋯う⋯⋯」
言葉が出ない。
染み付いた関係性と昨日のトラウマが蘇り、呼吸が浅くなった。
美羽が私の腕を掴もうと手を伸ばしてくる。
「ねえ、どこ行ってたの? ちゃんと説明し――」
パシッ。
乾いた音が響いた。
美羽の手が私に届く直前、横から伸びてきた手がそれを遮ったのだ。
「え?」
美羽がポカンと口を開ける。
私の前に立ち塞がったのは玲奈会長だった。
彼女は私を背に庇い、美羽を見下ろしていた。
その瞳は絶対零度のように冷たく、鋭い。
「⋯⋯気安く触れるな」
低く、地を這うような声に美羽がビクリと肩を震わせる。周囲の生徒たちも息を呑んだ。
「か、会長⋯⋯? え、私、友達として心配してて⋯⋯」
「心配?」
玲奈会長は鼻で笑った。
それは明確な嘲笑だった。
「彼女は昨日ひどい雨の中、傘も持たずに放置され震えていたところを私が保護した」
会長の声はよく通る。
静まり返っていた昇降口前の生徒たち全員に、その言葉が届いた。
「え、放置?」
「傘も持たずにって⋯⋯昨日すごい土砂降りだったじゃん」
「愛川、さっき『雨の中探した』って言ってなかった?」
周囲のざわめきが変わる。
美羽への疑念と白い目。
「彼女は体調を崩していた。それを知りながら自分は男と遊び呆け、友人を雨の中に置き去りにするような人間が⋯⋯『心配』だと?」
玲奈会長の言葉は鋭利な刃物のように的確に美羽の矛盾を突き刺した。
正論による暴力、逃げ場のない事実の羅列。
「い、いや、私は⋯⋯! ちが、陽菜が勝手に⋯⋯!」
美羽の顔が赤くなる。
反論しようとするが言葉が出てこない。
だって、全部事実だから。
彼女が私をどう扱っていたか、その結果私がどうなったか。会長はすべてを見透かしている。
「それに彼女は今、私の大切な客人だ」
玲奈会長は一歩、美羽に近づいた。
その威圧感に美羽がたじろいで後ずさる。
「私の許可なく、その汚らわしい手で彼女に触れようとするな」
汚らわしい――クラスのアイドル的存在である美羽に対して、これ以上ない侮辱の言葉。
けれど今の美羽にはそれを言い返すだけの気概も正当性もなかった。
「っ⋯⋯!」
美羽が悔しそうに唇を噛む。
彼氏の佐藤も会長の迫力に気圧されて助け船を出せないでいる。
玲奈会長は、もう美羽には用がないとばかりに視線を切り、私の肩を抱いた。
「行くぞ、陽菜」
「は、はい⋯⋯」
会長に促され、私は校舎へと歩き出す。
一度だけ振り返ると美羽が呆然と立ち尽くしているのが見えた。
その顔は屈辱に歪み、信じられないものを見るように目を見開いていた。
今まで自分の後ろをついてくるのが当たり前だった「都合のいい道具」。
それが自分よりも圧倒的に美しく、強く、格上の存在に守られて去っていく。
その現実は美羽のプライドを粉々に砕いただろう。
(⋯⋯ごめんね、美羽。私、もうあなたの思い通りにはなれない)
胸の奥で小さく呟き、私は前を向いた。
隣には玲奈会長がいる。
繋がれた手から伝わる温もりが、今の私にとって唯一の真実だった。
◇
生徒たちの視線が集まる中、遠ざかっていく二人の背中。
それを見送る美羽の拳は、白くなるほど強く握りしめられていた。
(なによ⋯⋯なによあれ⋯⋯!)
美羽の内側で、どす黒い感情が渦巻く。
恥をかかされた。みんなの前であの生徒会長に説教された。
しかも、その原因があの陽菜だなんて。
いつも私の顔色を伺って私の言うことなら何でも聞く、あの地味でつまらない陽菜が。
あんな綺麗な人に守られてお姫様みたいに扱われて。
(陽菜のくせに⋯⋯私の陽菜のくせに⋯⋯!)
それは奪われたことへの怒りではなかった。
自分の所有物が勝手に意志を持って逃げ出したことへの苛立ち。
そして何より自分に向けられていたはずの絶対的な献身が、他人に向けられていることへの身勝手な嫉妬だった。
「⋯⋯ふざけんな」
美羽はギリっと奥歯を噛み締めた。
自分が陽菜を捨てたことなど棚に上げ、彼女の心には歪んだ執着の炎が灯り始めていた。




