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第4話:氷の女王は涙を許す

 車窓を流れる景色が私の知らない高級住宅街へと変わっていく。


 やがて黒塗りのリムジンは威圧感さえ漂う巨大な鉄格子の門の前で速度を緩めた。


 門が重々しい音を立てて開き、広大な敷地へと車が滑り込む。


「つ、着きました⋯⋯か?」


「ああ。私の家だ」


 玲奈会長はこともなげに言った。

 車寄せに止まった車のドアを先ほどの運転手さんが開ける。


 降り立った場所に広がっていたのは洋館と呼ぶにふさわしい石造りの邸宅だった。玄関扉の重厚な装飾、手入れの行き届いた庭園。どこを見ても私の住む家とは次元が違う。


「さあ、入れ」


「で、でも、私こんな泥だらけで⋯⋯床を汚してしまいます」


「構わないと言っただろう。掃除をする人間はいる」


 玲奈会長は私の背中を押し、躊躇する私を強引に中へと招き入れた。


 エントランスホールは吹き抜けになっており、シャンデリアの輝きが目に痛いほどだ。


「今日は泊まっていけ」


「えっ!? い、いえ、そんな! これ以上ご迷惑をかけるわけには⋯⋯」


「今の君を一人で帰せるわけがないだろう。それに今は着替えるのが先決だ。私は君に風邪を引かせたくない」


 相変わらず彼女の言葉は提案ではなく命令に近い。そこには有無を言わせぬ強い意志と奇妙なほどの過保護さがあった。


「親御さんに連絡を入れろ。『今日は友達の家に泊まります』と」


「は、はい⋯⋯」


 私は震える手でスマートフォンを取り出した。


 画面には美羽からの連絡は一件もない。代わりに母からの『今日の夕飯どうすんの?』という淡白なメッセージが一時間前に入っていただけだ。


 私は言われた通りに入力し、送信ボタンを押す。


『今日は友達の家に泊まります』


 既読は瞬く間についた。

 返信を待つ数秒間、心臓が痛いほど脈打つ。怒られるだろうか。「誰の家だ」「勝手なことをするな」と。


 ⋯⋯いいや、違う。私が恐れているのは、怒られることじゃない。


 ピロン、と通知音が鳴る。


『了解。明日の夜も遅くなるから夕飯適当に済ませておいて』


 画面に表示された文字を見て私はふぅ、と息を吐いた。


「⋯⋯よかった、怒られなかった」


 安堵の声が漏れる。

 けれど胸の奥には鉛のような重たさが残ったままだ。


 「大丈夫?」「どこの家?」「相手の親御さんに挨拶は?」


 そんな心配の言葉は一切ない。

 いつものことだ。慣れきっているはずなのに心が少しだけ軋む。


 ふと視線を感じて顔を上げると、玲奈会長が私のスマホ画面を横から覗き込んでいた。


「っ⋯⋯!」


 私は息を呑んだ。

 会長のサファイア色の瞳が、凍えるほど鋭く細められていたからだ。


 その視線は私のスマホの画面――母からの淡白な返信――に釘付けになっている。


 美しい顔が無表情に張り詰め、周囲の温度が下がったような錯覚さえ覚える。


(お、怒ってる⋯⋯? やっぱり、玲奈会長の家に泊まるなんておこがましかったかな⋯⋯)


 私が萎縮して身を引こうとした、その時。


「⋯⋯そうか」


 玲奈会長が短く息を吐いた。

 ふわりとその表情から険しさが消えると彼女はスマホを握りしめる私の冷たい手を両手で包み込んだ。


「なら、今日は誰に遠慮することもない」


 その声は驚くほど優しかった。でもどこか「もう決めた」というような強い響きを含んでいたように思えた。


「ゆっくり休め。まずは風呂だ。その泥と⋯⋯嫌な記憶をすべて洗い流してこい」


 ◇


 案内された来客用バスルームは私の部屋よりも広かった。

 渡された最高級のボディソープとシャンプーで体を洗い流す。

 温かいシャワーが冷え切った肌を解凍していく。


 排水溝に流れていく泥水は美羽に踏みにじられた私の心そのものに見えた。


(私、これからどうなるんだろう⋯⋯)


 お風呂から上がると脱衣所には着替えが用意されていた。

 上質なシルクのような肌触りのシンプルなパジャマで袖を通すとサイズが大きい。


「出たか」


 バスルームを出ると自室のソファでくつろいでいた玲奈会長が振り返った。


 彼女もすでにシャワーを浴びたようでラフな部屋着姿だ。濡れた黒髪が色っぽくて、私は思わず目を伏せてしまう。


「あの、服⋯⋯少し大きいです」


「私の部屋着だ。君には少し大きすぎたか。⋯⋯だが、悪くない」


 彼女は私をじっと見つめ、満足げに頷いた。

 私の華奢さが強調されるその姿が、彼女の嗜虐心と庇護欲を同時に刺激しているとは知らずに、私はもじもじと裾を引っ張る。


「こっちへ来い。髪を乾かすぞ」


 玲奈会長が自分の前の床を指差した。


「い、いえ! 自分でやります! 会長にそんなことさせるわけには⋯⋯」


「じっとしていろ」


 再びの命令形――私は逆らうこともできず、言われるがまま彼女の足元のラグに座らされた。


 背後でドライヤーのスイッチが入る音がして、温風が頭皮に当たる。


「⋯⋯君の髪は、綺麗だな」


 玲奈会長の細い指が、私の髪をく。

 その手つきは驚くほど優しく、丁寧だった。


「そ、そんなことないです。美羽にはいつも『陽菜の髪ってボサボサで手入れしてないみたい』って笑われてて⋯⋯」


「⋯⋯あんな女の戯言など真に受けるな」


 不機嫌そうに低く呟くと彼女は私の髪に指を通し、愛おしそうに撫でた。


「絹のように柔らかくて、美しい黒髪だ。⋯⋯私は、好きだぞ」


「え⋯⋯」


「もっと、触れていたい」


 ドライヤーの音に紛れて聞こえたその言葉に心臓が跳ねた。

 美羽からは否定の言葉しか浴びせられなかった。


 コンプレックスだった部分を、この人は「好きだ」と言ってくれる。

 そのギャップに頭が追いつかない。


 髪が乾ききるとサイドテーブルから甘い香りが漂ってきた。

 メイドさんが用意してくれたのだろうか、湯気を立てるホットココアだ。


「ほら、飲め」


「いただきます⋯⋯」


 マグカップを両手で包み、一口飲む。

 濃厚な甘さと温かさが喉を通って胃に落ちていく。


 その瞬間、今日一日ずっと張り詰めていた緊張の糸が完全に切れた気がした。


 ふわり、と気配が近づく。

 顔を上げるとソファから降りた玲奈会長が私の目の前に膝をついていた。


 あの「氷の女王」が私と同じ目線で、いや、私を見上げるようにして膝をついているのだ。


「か、会長⋯⋯?」


 サファイア色の瞳が真っ直ぐに私を射抜く。

 そこには嘘も、嘲笑も、憐れみすらなかった。

 ただひたすらに真摯な私という人間そのものを見る瞳。


「⋯⋯辛かったな」


 短く、低い声だった。

 けれどその一言は私が誰にも言えずに飲み込んでいた感情の蓋を、こじ開ける鍵だった。


「⋯⋯っ」


 鼻の奥がツンと痛む。

 視界が滲んで、マグカップを持つ手が震え出した。


「わ、たし⋯⋯」


 言葉にしようとすると、涙が先に溢れてくる。


「私、馬鹿なんです⋯⋯っ。ずっと、美羽のこと信じてて⋯⋯利用されてるって、周りから言われてたのに、気付かないフリして⋯⋯」


 一度溢れ出した感情は、もう止まらなかった。

 美羽の笑顔。佐藤とのキス発言。投げつけられた「親友」という言葉。


 雨の中で何も言われず持っていかれた傘。

 惨めで――愚かな自分。


「私がやってあげなきゃって⋯⋯私が守らなきゃって⋯⋯っ。でも、あの子にとっては、私なんてただの⋯⋯便利な道具でしかなくて⋯⋯うっ、うぅ⋯⋯!」


 マグカップをテーブルに置き、私は顔を覆って泣きじゃくった。

 汚い嗚咽が漏れる。こんな姿、誰にも見せたくなかったのに。


 玲奈会長は私を拒絶しなかった。

 そっと優しい匂いに包まれる――彼女は私を抱き寄せ、自分の胸に頭を押し当ててくれたのだ。


「泣け」


 背中を撫でる手が温かい。


「枯れるまで泣けばいい。その涙を誰も見ていなくても私が見ている」


「うあぁぁぁ⋯⋯っ! 会長ぉ⋯⋯っ!」


「君の価値を決めるのは、あんな見る目のない女じゃない。⋯⋯私だ」


 その言葉は呪いのようでいて、これ以上ない救いだった。

 私の存在価値をこの人が保証してくれる。


 「必要ない」と切り捨てられた私を、この人は拾い上げ抱きしめてくれる。


「君がどれだけ傷ついても、私がその倍、愛して埋めてやる。⋯⋯だから私に守らせろ」


 最後の言葉の意味を深く考える余裕はなかった。

 ただ、その圧倒的な肯定感と温もりに私は身を委ねるしかなかった。


 どれくらい泣いただろうか。


 涙が枯れ果て、代わりに強烈な睡魔が襲ってきた。

 心身ともに限界だったのだ。

 玲奈会長の腕の中があまりにも心地よくて、意識が泥のように沈んでいく。


(会長の匂い⋯⋯すごく、安心する⋯⋯)


 薄れゆく意識の中で私は彼女の服を握りしめたまま、深い眠りへと落ちていった。



 規則的な寝息が聞こえ始める。

 玲奈は腕の中で眠ってしまった陽菜の顔を、愛おしそうに見つめていた。


 泣き腫らした目は赤く、頬には涙の跡が残っている。

 無防備で脆く、今にも壊れてしまいそうな少女。


「⋯⋯やはり、電話の一本も寄越さなかったか」


 玲奈はテーブルに置かれた陽菜のスマートフォンを一瞥し、忌々しげに呟いた。


 陽菜の身辺調査をした際、報告書には『両親は多忙を極め、家族同士の接点は極めて薄い』と記されていた。


 まさかこれほどとは⋯⋯娘が「外泊する」と言っているのに安全確認ひとつしない。


「⋯⋯だが、好都合だ」


 玲奈の瞳の奥に、くらい光が宿る。


 親が関心を持たないのなら、私がその隙間をすべて埋め尽くせばいい。


 陽菜の世界から「帰る場所」を奪い、私の隣だけを安住の地にしてしまえばいいのだから。


 あの愚かな幼馴染への依存も、この家庭環境が生んだ渇望だったのだろう。


「ようやく、私の手の中に落ちてきた」


 玲奈は陽菜の柔らかい頬を指の背でゆっくりと撫でた。


 その瞳に宿る光は、先ほどまでの慈愛に満ちたものとは少し違う。もっと粘度のある、独占欲に塗れた熱を帯びていた。


 家庭にも、学校にも、彼女の居場所はない。

 幼馴染という唯一の拠り所も失った。


 今の陽菜は世界でたった一人、孤独な迷子だ。


「それでいい。君には私以外、何もいらない」


 玲奈は眠る陽菜を抱き上げ、キングサイズのベッドへと運んだ。シーツの上に丁寧に寝かせ、自分もその隣に身を横たえる。


 陽菜の体を抱きしめると彼女は無意識に擦り寄ってきた。その反応に玲奈の口元が歪むように釣り上がる。


 あの愚かな幼馴染には感謝しなければならない。

 彼女が陽菜を傷つけ、捨ててくれたおかげで、こうして私がすべてを手に入れることができたのだから。


「もう二度と、あんな所には帰さない」


 玲奈は陽菜の額に口づけを落とす。

 それは誓いのキスであり、所有の刻印だった。


「おやすみ、私の陽菜」


 氷の女王は、その冷たい腕の中に小鳥を閉じ込め、静かに目を閉じた。窓の外では雨が止み、雲の切れ間から月が冷ややかに二人を照らしていた。

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